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宮沢賢治と「リンドウの花」

2024.11.05 13:20

https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/15/103949 【リンドウの花は「サァン,ツァン,サァン,ツァン」と踊りだす】より 

十力の金剛石

賢治は,作品にたくさんの擬音(オノマトペの一種)を入れることで知られている。童話『十力の金剛石』でも,天然物,動物,植物とさまざまな物に擬音が使われている。普通,物が動くとき音を発する。時計が時を刻むとき,実際そのように聞こえるかどうかは別として,リズムカルな機械音として「チクタクチクタク」とか「カチカチ」といった風に表現する。

しかし,賢治が用いる擬音は必ずしも音として聞き取れるものだけではない。例えば霧の降る音というのがある。

 大臣の子もしきりにあたりを見ましたが,霧がそこら一杯に流れ,すぐ眼の前の木だけがぼんやりかすんで見える丈です。二人は困ってしまって腕を組んでたちました。

 すると小さな声で,誰か歌ひ出したものがあります。

 「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン。

  はやしのなかにふる霧は,

  蟻(あり)のお手玉,三角帽子の,一寸法師の

               ちひさなけまり。」

 霧がトントンはね踊りました。

 「ポッシャリポッシャリ,ツイツイトン。

  はやしのなかにふる霧は,

  くぬぎのくろい実,柏(かしは)の,かたい実の

               つめたいおちゝ。」

 霧がポシャポシャ降って来ました。そしてしばらくしんとしました。

        (『十力の金剛石』宮沢,1986)

「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン」とは,霧がふる音を表している。霧の小さな水粒が動く(ふる)とき,本当にそんな音がするのだろうかと考えてしまうが,違和感が生じないから不思議だ。むしろ物のイメージが強調されていて「ぴったりでうまい表現だ」と言いたいくらいだ。ひょっとしたら,超高感度マイクロフォンを用いて聞いたら,本当にそう聞こえるかもしれないという錯覚に陥ってしまうほどである。

しかし,これが植物の動きを表した擬音になると,そう簡単には納得できないものがある。同じく『十力の金剛石』の中に,「リンドウ」(第1図)の花が出てくる。作品では「リンドウ」は「りんだう」と表記されている。例えば,「りんだうの花はそれからギギンと鳴って起きあがり」とか,「りんだうの花はツァリンと体を曲げて」とか,「ひかりしづかな天河石(アマゾンストン)のりんだうも,もうとても踊り出さずに居られないといふやうにサァン,ツァン,サァン,ツァン,からだをうごかして調子をとりながら云ひました」とある。また,「ウメバチソウ」(第2図)の震えのさまは「ぷりりぷりり」,起きあがるさまは「ブリリン」である。植物の動く様子が「ギギン」,「ツァリン」,「サァン,ツァン,サァン,ツァン」,「ぷりりぷりり」,「ブリリン」と言われても,霧の擬音と同じように素直に「ぴったりでうまい表現」だとは言えないところがある。

賢治は,なぜ植物の動きにまで,意味が理解しにくい擬音を使おうとするのだろうか。

特に,花が咲いている植物に顕著であるように思える。評論家で思想家の吉本隆明(1996)は,「擬音の世界は,分節化できて意味になった言葉を,まだ完全にはしゃべれない乳児期の世界になぞらえられる。・・・また幼い子どもの音声でつづられた世界に似ている」と述べている。また,「もしエロスの情感が性ときりはなされて普遍化でき,その普遍化が幼童化を意味するとすれば,まずいちばんに擬音の世界にあらわれるとはいえそうな気がする」とも言っている。さらに,幼い子が,「あわわ」言葉を発するとき,その意味を理解できるのは母と幼子だけであり,「未分節の音声を母とかわす体験をなまなましく記憶している幼童性は,エロスの原型をなしている。宮沢賢治の資質は擬音をつくりだすことで,そこにかぎりなくちかづこうとした」ともいう。

賢治は,相思相愛の恋をしたが破局したという苦い経験をもっている。そして,賢治の性の意識(エロスの情感)は法華経への帰依という宗教的な志に昇華していった。破局の原因についてはよく分かっていないが,私は賢治の母への強い執着,別の言葉で言い換えれば母との関係の希薄さが原因の一つと推測している(Shimafukurou,2021a,b)。この母との関係の希薄さは,賢治にとっては寂しさを生んだと思われる。そして,賢治のエロスの情感は幼童化とともに擬音を作り出したと思われる。

植物は,太陽の周期と歩調を合わせて「性の相」と「食の相」を「宇宙リズム」で交代させている。花が咲くとき,植物はちょうど「性の相」にあたる。賢治は,植物の花に擬音でもって自らの昇華した性の「こころ」を通わしていたのかもしれない。しかし,その内容は吉本が言うように,賢治と母イチにしかわからないように思える。


https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/03/184442 【宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-「りんだうの花」と悲しい思い-】より

『銀河鉄道の夜』は,読書以外に,映画(アニメ,実写),ミュージカル,プラネタリウム版などでも楽しむことができる。中でも,プラネタリウム版は従来の光学的投影装置ではなく,デジタルの全天周映像システムが採用され視覚的に見た美しさでは群を抜いている。このプラネタリウム版で,はっきりと識別できる植物が「リンドウ」である。

鉄道線路の縁の芝生に,数十本あるいは数百本の鮮やかな紫色の花の「リンドウ」が全天周のスクリーン一杯に広がる。まさに,ファンタジーな世界を創出させている。『銀河鉄道の夜』の本文では,第六章の「銀河ステーション」の末尾で出てくる。

 ごとごとごとごとと,その小さなきれいな汽車は,そらのすゝきの風にひるがへる中を,天の川の水や,三角標の青白い微光の中を,どこまでもどこまでもと,走って行くのでした。

 「あゝ,りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だね。」カムパネルラが,窓の外を指さして云ひました。

 線路のへりになったみじかい芝草の中に,月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。

 「ぼく,飛び下りて,あいつをとって,また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍(をど)らせて云ひました。

 「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」

カムパネルラが,さう云ってしまふかしまはないうち,次のりんだうの花が,いっぱいに光って過ぎて行きました。

 と思ったら,もう次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り,三角標の列は,けむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです。 宮沢,1986 (下線は引用者)

プラネタリウム版の『銀河鉄道の夜』でも,この「月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花」や「次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り,三角標の列は,けむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです。」という描写を見事に映像化していた。しかし,賢治はたくさんのリンドウの花をファンタジーな世界にするためだけに使ってはいない。なぜなら,美しい風景描写の直ぐあとにカムパネルラの悲しい内面描写の表出があるからである。第七章「北十字とプリオシン海岸」の冒頭は次のように始まる。

 七,北十字とプリオシン海岸

 「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

 いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふように,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

 ジョバンニは,

(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙(だいだい)いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

 「ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。

宮沢,1986 (下線は引用者)

この場面では,カムパネルラは「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか」と,親孝行も満足に出来ずに死んでしまったことの自責の念ともとれる悲しい「思い」を表白している。たくさんの美しい「リンドウ」の花の描写から,悲しく「もの思い」にふけるカムパネルラの内面描写への移行は唐突な感じもする。なぜ美しい風景描写のすぐあとに,悲しい内面描写を持ってきたのだろうか。多分,この疑問に対する答えは,同じ場面に登場する「リンドウ」という植物に隠されているような気がする。

「リンドウ」の植物学的および文学的に見た特徴から,なぜ賢治が自然描写のすぐあとに内面描写をもってきたかを明らかにする。

1.植物学的に見た場合のリンドウ

「リンドウ」(リンドウ科, Gentiana scabra var. Buergeri )は,低山や亜高山の日当たりのよい草地に生える多年草で,茎は20~80cmばかり,葉は狭く尖り無柄で茎を抱いて対生する(葉は上部から見ると十字形)。花は,晩秋ごろ,茎頂に集合して咲き,また梢葉腋(しょうようえき)にも咲く。花冠は青紫色で大きな筒をなし(合弁花),口は五裂して副片がある。「リンドウ」という名は,漢名である龍胆(りゅうたん;新字体では竜胆)の唐音の音転(リウタム→リウタウ→リンダウ→リンドウ)に由来し,龍胆は,葉が龍葵(ナス科イヌホオズキ)のようで味が胆のように苦いからと説明されている(牧野, 1981)。

群生することはなく(あるいは稀),三々五々とかたまって生え,ときには枯れ草の中にぽつんと咲く姿も見かけるという(永田,2006;近田・清水,2013)。また,ススキなどのイネ科植物に寄り掛かるように咲いていることが多い(木原, 2010)。著者も神奈川県箱根の仙石が原でススキ原や自動車道淵の芝草に1本ずつ咲く「リンドウ」を見たことがある。

「リンドウ」は,群生せず,他の花が少ない晩秋のススキ原などに見られことから,寂しさや物悲しさをかもし出しているようである。我が国の代表的な植物学者である牧野(1981)も,「リンドウ」を見るとかなり心が動かされたようで,著書の中で「花は形が大きく且つはなはだ風情があり,ことにもろもろの花のなくなった晩秋に咲くので,このうえもなく懐かしく感じ,これを愛する気が油然と湧き出るのを禁じ得ない」と感想を述べている。

2.文学に登場するリンドウ

次に,文人たちが自らの作品の中で「リンドウ」をどのように扱ってきたかを,古くは紫式部の『源氏物語』(平安時代中期)で,また新しくは賢治と同世代の伊藤左千夫の『野菊の墓』で調べてみたい。

1)源氏物語

『源氏物語』では,第三十九帖(巻名「夕霧」)の夕霧大将(光源氏の息子)を主人公にした話の中に出てくる。これは,光源氏50歳,夕霧大将29歳の8月中旬から冬にかけての話である。夕霧大将は,親しい友(柏木衛門督で内大臣の長男)の未亡人である落葉の宮(女二の宮)に「思い」を寄せていた。しかし,物静かで奥ゆかしい落葉の宮は,妻子のある夕霧大将に対して女房(落ち葉の宮に仕える女性)の取次を介してしか言葉を交わそうとしない。落葉の宮は,夫の死後に病気療養中の母(一条御息所)がいる山深い小野の山荘(京都市八瀬・大原あたり)に移っていたが,夕霧大将は自らの「思い」を伝えるため落葉の宮の母の病気見舞いを口実にして霧深い8月中旬ごろから山荘を訪れる。落葉の宮の母が死んだあとに話は以下のように展開する。

 滝の声は,いとどもの思ふ人を驚かし顔に耳かしがましうとどろき響く。草むらの虫のみぞよりどころなげに鳴き弱りて,枯れたる草の下より, 龍胆(りんだう)の, われ独りのみ心長うはひ出でて露けく見ゆるなど,みな例のころの事なれど,をりから所がらにや,いとたへがたきほどの, もの悲しさなり。

 例の妻戸のもとに立ち寄りたまて,やがてながめ出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣(なおし)に, 色濃(こまや)かなる御衣(ぞ)の擣目(うちめ),いとけうらに透きて,影弱りたる夕日の,さすがに何心もなうさし来たるに,まばゆげにわざとなく扇をさし隠したまへる手つき,「女こそかうはあらまほしけれ。それだにえあらぬを」と見たてまつる。

 もの思ひの慰めにしつべく,笑ましき顔のにほひにて,少将の君をとり分きて召し寄す。簀子(すのこ)のほどもなけれど,奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて,えこまやかにも語らひたまはず。「なほ近くてを。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは,隔て残るべくやは。霧もいと深しや」

(『源氏物語』「夕霧」 紫式部 )下線は引用者                  

「リンドウ(龍胆)」が登場してくる引用文前半部(下線部分)の現代語訳(阿部ら, 1974)は,「滝の音は,もの思う人を我に返らせようとするかのようにひとしおやかましく音を立てている。草むらの虫だけが頼りなさそうに鳴き声も弱まって,枯れ草の下から龍胆がひとり命の長さを見せてのびのびと這い出して霧に濡れている風情など,みな例のこの時節の趣であるが,折も折,所も所であるせいであろうか,ことに堪えがたいほどのもの悲しい気分なのである。」である。さらに,阿部らの校注には「草むらの虫」に対して「頼るべき人がなくなった落葉の宮を,草が枯れて隠れ場所がない虫の姿で象徴する」とある。

一方,国文学者の渋谷(2013)は,阿部ら(1974)の校注とは別に「龍胆」を落葉の宮,「草むらの虫」を女房たちになぞらえられることもできるとした。渋谷によれば,草が枯れて隠れどころがなくなり右往左往している虫たちの間で凛として咲き誇っている「リンドウ」を,不安になっている女房たちと悲しみに堪え辛抱強く背を伸ばしている落葉の宮の姿に重ねることができるとした。いずれにせよ自然描写に落葉の宮と宮に使える女房たちの心情(内面)の表白を重ねる技法は見事というしかないが,物語の語り手はそれが耐えがたいほどにもの悲しいと言っている。

さらに,引用文の後半部では,夕霧大将の心情も表白される。夕霧大将は,父である光源氏とは対照的に生真面目で不器用なので,自分の「思い」を直接落葉の宮に伝えられない。夕霧大将は,霧で自分の姿が見えないと思ったのか,山荘にある寝殿の両開きの戸(妻戸)の前で御簾(みす)の中で宮と対座している小少将の君(宮の従姉妹で女房の一人)に向かって「どうぞもっと近く。そうすげなくなさいますな。このして山の奥まで訪れてくるわたしの気持ちは他人行儀の扱いをしてよいものですか。霧もほんとに深いのですよ(阿部ら訳)」と自分の「思い」を吐露する。

すなわち,龍胆は亡き夫と母を思い悲しみに堪え辛抱強く背を伸ばしている落葉の宮の暗喩であり,同時に夕霧大将の寂しい恋慕の「思い」の対象の暗喩でもある。霧は生真面目で不器用な夕霧大将の「思い」を表出する小道具に使われている。

2)野菊の墓

『野菊の墓』(伊藤,1955)は,主人公の政夫が10年余り前の悲しい体験を回想することで始まる。内容は,15歳の少年政夫と従姉で2歳年上の少女民子の初々しい恋物語であるが,二人の親密な関係は家人や村人に噂されることにより引き裂かれ,さらに民子の死という結末で終わる。野菊と「リンドウ」が登場する場面は以下の通り。

 野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど,民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇(わき)へ物を置いて,野菊の花を一握り採った。 民子は一町ほど先へ行ってから,気がついて振り返るや否や,あれッと叫んで駆け戻ってきた。「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」

 「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊,政夫さん,私に半分おくれッたら,私ほんとうに野菊が好き」

 「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」

 「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと,自分でも思う位」

 「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」

 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。

 「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」

 「さアどうしてということはないけど,民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」

      (中略)

 民子は云いさしてまた話を詰らしたが,桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って,急に話を転じた。

 「こんな美しい花,いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」

 花好きな民子は例の癖で,色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか,ひとりでにこにこ笑いだした。

 「民さん,なんです,そんなにひとりで笑って」

 「政夫さんはりんどうの様な人だ」

 「どうして」

 「さアどうしてということはないけど,政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」

  民子は言い終って顔をかくして笑った。

 (『野菊の墓』伊藤,1955) 下線は引用者

政夫が「僕はもとから野菊がだい好き」,「民さんは野菊のような人だ」と言って,民子に対する恋慕の「思い」を表白するのに対して,民子も「わたし急にりんどうが好きになった」,「政夫さんはりんどうの様な人だ」といって政夫に対する「思い」を政夫がやったのと同じように返している。政夫と民子は,家人や村人の噂を気にして,植物の名前を介してしか自分たちの思いを言えなくなってしまった。第2図に野菊を示す。

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第2図.野菊(ノコンギク)

『源氏物語』と『野菊の墓』に共通するのは,「リンドウ」が作品の主要登場人物の「思い」あるいはその「思い」の対象になっている人物の比喩として使われていることである。『源氏物語』の「龍胆」は,夕霧大将が恋しく思う「落葉の宮」で,『野菊の墓』の「竜胆」は政夫が恋しく思う「民子」である。このように植物を擬人化する手法および植物を介して「思い」を伝える手法は,遠く『万葉集』に遡ることができるように思える。7世紀後半から8世紀後半頃に編まれた和歌集である『万葉集』に,「道の辺(へ)の,尾花(をばな)が下の,思ひ草,今さらさらに,何をか思はむ(作者不詳)」という歌がある。

この歌に出てくる「思い草」はどんな植物なのであろうか。様々な説があるが,「リンドウ」も1つの候補に挙げられている。「リンドウ」は,木原(2010)が指摘するように,ススキなどのイネ科植物に寄り掛かるように咲いていることが多い。現代語訳は,「道ばたの尾花(ススキ)の蔭の思い草のように今あらためて何を思い迷おうか。あなただけを思っていますよ」(小島ら,1973;下線は引用者)である。「思い草」を「リンドウ」とした鎌倉時代の歌人藤原定家は,この万葉歌を参考歌に「霜うづむ尾花が下の枯れまより色めづらしき花のむらさき」(『拾遺愚草員外』,「花のむらさき」=「リンドウ」)と詠んだ。 

ここまでくれば,『銀河鉄道の夜』において,「リンドウ」の花が出てくる風景描写のすぐあとに内面描写をもってきた理由は自ずと明らかになるであろう。『銀河鉄道の夜』の「リンドウ」は,カムパネルラが悲しく思う母への「思い」の暗喩であり,母への「思い」を友人のジョバンニに伝える手段として使われている。ジョバンニとカムパネルラの関係であるが,第一章の「午后の授業」でジョバンニは「学校を出てももうみんなとはきはき遊ばず,カムパネルラともあんまり物を云はないやうになっていた」と記載されているので,カムパネルラもまたジョバンニに自分の「思い」を伝えづらかったはずである。

しかし,カムパネルラの母への「思い」はとても強く,「湧(わ)くやうに,雨のやうに」脳裏をよぎってくる。そこで,賢治はカムパネルラの泣き出したいぐらいの悲しい心情を,第七章の文章の冒頭で表現する前に,それとなく伝えるために第六章末尾で群生した「たくさん」の「リンドウ」を見せたのだと思われる。多分,賢治は自然界(地上)では存在が稀な群生した「リンドウ」を見せることによって,別の言い方をすれば魔法(ファンタジー)をかけることによって自責の念で頭が一杯になっているカムパネルラの母への「思い」を表現し,友人のジョバンニに伝えやすくしようとしたと思われる。

読者が,もしも「群生したリンドウ」と「カムパネルラの脳裏に湧(わ)くやうに,雨のやうにをよぎる母への思い」を意識的にあるいは無意識的にも重ねて読み取ることができたなら,次の章の「思い切ったといふように」表白される「カムパネルラの母への思い」をごく自然に受け入れることができると思う。