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砕け散ったプライドを拾い集めて

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。 


2019.01.16 11:14

【wording】

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

 (小林秀雄:『モオツァルト・無常ということ』)

この小林秀雄という人は往往にして難解な文章を書く人なのだが、やはり、これにも長い間戸惑わされて来た。
 一説には、ロダンの言葉の「美しい自然がある、自然の美しさといふものはない」 の引用とも言われているのだが……。

もともとは『当麻』とタイトルした文章だったが、後ほど上記のものに編纂された。「当麻」とは 「たまえ」と読み、能の演目の一つらしい。
ここで小林がいう「花」って多分能の「芸」のことだから、換言してやればいい。「美しい芸がある。芸の美しさと言うようなものはない」。

それでも、分かったようで、よく分からない。
つまり、こういうことかな?事実とか実在を大切にして、観念論を振り回すのは大概にしようよって言いたいのだろうか?

小林秀雄は近代批評の祖と言われている。……つまり、ある文芸作品の添え物ではなく、独立した批評・評論をする独立のプロであるということだ。
それ故か、高ぶってこんなことまで言っている。

「最も世間普通の意味での頭の善さが批評には先ず絶対に必要だ」

だけど、この人は当初詩、小説、翻訳などを試したが、そのどれも書けなくて批評に〝崩れて〟来た。そして批評がシャープになればなるほど、クリエイティビティは相対的に減ずるものだ。

フランスの小説家ギュスターブ・フローベールの言葉:

「人は芸術家になれない時に評論家になる。ちょうど兵士になれない時に密告者になるように……」

これに対して、小林秀雄は批評家としてどういう反論をするのだろうか?