残り日を走馬灯へと移したる
プライマリケア認定医の作者を連想します。「日々新」の心境を詠まれたのかもしれません。
https://gendai.media/articles/-/68398?imp=0#goog_rewarded 【死は必ず来る。死ぬ瞬間はつらいのか、痛いのか、それとも幸福なのか】より
すべての先人たちが直面した悩みと現実
家族や友人を見送った経験はあっても、自分自身は絶対に経験したことがないのが「死」だ。その本質を深く知ることで、よりよい死だけでなく、よりよい生を送ることができる。
死の本質は「3種類」ある
白衣姿の医師が聴診器を胸に当て、心音停止と呼吸音停止が確認された。ペンライトで瞳孔に光を当てても、その大きさは変わらない――。医師は時計に目をやりながら宣告するだろう。
「ご臨終です」
このとき、あなたは物理的に死んだことになる。誰にも等しく、この日は必ず訪れる。ただし、それはいつなのか?その間際、あなたはどういう気持ちになるのか?そして、死後、あなたはどうなるのか?死とは何か?
こうした疑問に対して、本当の正解は存在しない。体験者がいないからだ。死の謎は、人を不安と恐怖に陥れる。
だから仏教は輪廻転生を説く。死者はまた生まれ変わり、さらに死んで生まれ変わる……。キリスト教やイスラム教は、信じるものは死後に天国に行けると説いている。
だが、それでも人は不安なままだ。東京大学名誉教授の医学博士・矢作直樹氏は、「人が死に関して感じる恐怖は3種類あると思う」という。これこそが、死の本質だ。
(1)死ぬまでのプロセス
(2)よくわからない死後
(3)残される人との別離
まず(1)。死の直前に苦しむのではないか、のたうちまわるのではないかという恐怖がある。痛みのなか、無念のまま、人は死ぬのか?
その瞬間「心」はどこへ行くのか
2000人の死亡診断書を書いてきた「看取りの医者」であるホームオン・クリニックつくば理事長の医学博士・平野国美氏が語る。
「多くの人は、死を迎えるとき、1週間から2週間前に昏睡状態に入っています。おそらく音や声は聞こえているけれど、言葉の意味を理解しているとは思えません。
脳内麻薬のエンドルフィンが出ており、『夢』を見ているような状態になっているでしょう」
病状の進行の過程で激しい痛みや苦しみを覚えることはあっても、本当の死の直前には、人は意識を失うものだという。矢作氏も言う。
「今までの看取り経験でいえば、がん患者でも老衰で亡くなる方でも、最期は平穏で、穏やかな表情で旅立ちます。人間の体や脳は『死』を受け入れるようにできている」
(2)「死後がわからない」という恐怖はどうか。『人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』著者で慶應大学教授の前野隆司氏は言う。
「動物は死の恐怖を持ち得ない。進化して脳が発達し、心を持った人間は、自分がいなくなった後を想像できてしまうことから、死への恐怖を持ってしまったのです」
そのために、宗教は「死後の世界」を設定したし、古くを遡っても、ギリシア神話には「冥界」が、古事記にも「黄泉国」が描かれる。矢作氏も、輪廻と死後の世界を信じているという。
だが前野氏は、「人間の持つクオリア(心)は死の瞬間に失われる。死を感じることも、その死によって恐怖に戦くこともない。
本当の死は誰にも味わうことができない以上、人は勝手に『死』を想像して怖がっているだけです。怖がっても仕方がない」と考えている。
最後に、死といえば(3)の「残される人との別離」だ。矢作氏の意見。
「あなたが『この世での役割を終えた』と考えれば、未練を断つことはできるはずです。この世での役割を終えたからこそ死を迎えるのであって、別れる家族たちはその貢献を受けて、これからも生きていくのです」
死とは何か?これを押さえたところで、「よく死ぬための教養」を、項目別に見ていこう。
死ぬ瞬間、何を思うか?
死ぬ瞬間というものはいかなるものなのか。前出の平野氏は、死の直前、意識が朦朧として昏睡状態に入ったときは、「睡眠の状態と同じなのではないか」と説明する。
「脳内麻薬が分泌され、二酸化炭素の貯留が起こる。これによって、死を迎える体は、非常に心地よい状態になっていると考えられます。死の瞬間に意識を持っている人はいないでしょう。安らかに死に至るのです」
脳内麻薬のエンドルフィンは、幸福感を感じさせる物質だ。
「たとえばみぞおちを思いっきり叩かれて気絶したときなどに、脳から分泌される物質です。人は激しい痛みを感じるときには一気にエンドルフィンが分泌され、意識を失います。
亡くなる間際に、エンドルフィンが出ることで、人に幸福感を与え、たとえ無神論者であっても、あたかも神様に会ったかのような感覚に誘われるのではないかと思われます」(平野氏)
「飛ぶように気持ちよかった」
人によっては、ここで「お迎え現象」に遭遇するようだ。昏睡状態を脱した患者から、平野氏が聞いた体験談がある。
「腰の悪いおばあちゃんでしたが、夢のなかで飛ぶように歩いていたというんです。とても心地よい状態で、川とお花畑が見えてきたという。『ひょっとすると、これがあの世の世界かもしれない』と思ったそうです。
川の向こう岸では、亡くなった母親が手を振っていた。嬉しくなって川を渡ろうとすると、息子の声がして、目が覚めたといいます」
平野氏は、昏睡から戻った何人もの人から、ほぼ同様の話を聞き、死の瞬間は、幸福感に満たされて迎える可能性が高いと考えているという。
小説家で医師の久坂部羊氏もこう語る。
「私が看取ったどの患者さんも、表情を失い、しかし非常に穏やかで安らかな顔になります。私自身は、これを何度も経験して、死はそんなに怖いものではないと考えるようになったのです」
死の瞬間は、決して悶絶するような苦しいものではないようだ。そのとき、意識を失ったまま、人は何も考えずに死んでいくのか。「死を予感させる瞬間」を体験したことがあるという、僧侶で作家の玄侑宗久氏に聞いた。
「私が28歳のときでしょうか。7mもある木から下に落ちました。普通は2~3秒で地面に落ちるはず。ところが、木から足を滑らせた瞬間から、別の時間に入った。15分くらいあったのではないかと思うくらい、ゆっくりした時間のなか、走馬灯を見ました。
無数の黒い枠のある写真が何枚も連なって出てきたんです。次々と見覚えのある場面が出てきます。シアターの観客の状態でした。それを見ながら地面に落ち、病院に運ばれました」
不安も恐怖もなかったという。この体験により、玄侑氏は、死の瞬間には「完全な受け身」になるものだと自覚したという。
「何かを考えている状態ではない。何かを享受しながら、なされるままになっていくということでしょう。私が見送った方のほとんどは、安らかな顔で眠っていました」
怖がることはない。死の瞬間に見ることのできる「走馬灯」をより濃厚なものにしておくだけだ。
人間は最初から「余命宣告」されている
自分はまだ死なない。だから、死ぬことなんて考えていられるか。そう思っている人もいるだろう。しかし、いざ死を前にすると、ほとんどの人はそれをすぐには受け入れられず、精神的に動揺してしまう。
前出の前野氏は、「死期が迫ったとき、はじめて激しい心の変化を体験するのは、場当たり的な生き方にすぎない」と言う。
「死ぬ直前になって、死ぬとはどういうことかと悩み、答えが見つからず、苦しみ、悲しみ、鬱状態になり、最後には疲れ切って『受容』する生き方ですよね。それよりも、あらかじめ死とはどういうことかをはっきり理解したほうがいい」
長く生きてきて、その最後が訳もわからず混乱のうちに終わるのでは、その人の人生は虚しい。前野氏が続ける。
「誰もが死ぬこと自体は理解しているのに、人は普段は死の恐怖にはさらされない。だから『余命宣告』をされた途端、急に死が怖くなる。
しかし考えてみれば、人間はもともと『余命100年』を最初から宣告されているわけです。死を常に自覚しながら、思いっきり好きなことをして楽しく生きるべきです」
宗教学者の島田裕巳氏は、現代の日本人の死生観は、長寿化によって明らかに変質したという。
「敗戦後の日本人の平均寿命は50歳で、いつまで生きられるかわからないから死ぬまで生きるという死生観でした。
ところが今は90代まで生きるんじゃないかという時代で、先があるのが当たり前だと信じて生きている。死に対する現実感が希薄になったといえます」
死が遠くなりすぎ、いざという時に慌ててしまうわけだ。死を意識するのは、つらいけれど
前出の平野氏も、現代の日本人は死を意識するのを避けていると見ている。社会が死をタブー視しているうえに、医療の現場では「死なせる」ための医療を志向していない。
「いつまでも長生きするのが一番」――この言葉によって、「死」を考えることから人は遠ざかる。平野氏は無残な現場を何度も見てきたという。
「90代にもなる高齢の男性が老衰で亡くなろうとしているとき、親族が一堂に会して『死ぬな』『死ぬな』と交代で何時間も心臓マッサージをしているのを目の当たりにしたことがあります。
医学的にはもうできることもないのですが、冷静さを失っておられた」
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「平穏な死」よりも、「一日でも長生き」が正しいという考えがあったからこそ、家族も死を受け入れられなかったのだ。
むしろ、死を意識することで、今の「生」をより濃く生きることができる。それこそが、うまく、よく死ぬためのコツでもある。めぐみ在宅クリニック院長の小澤竹俊氏は言う。
「死を意識すると、日常の当たり前のことがすごく幸せなことだと感じられるようになります。傲慢になる気持ちを戒め、人の温かさに触れることができる。それだけでも、人生が充実したものになるでしょう」
昨年10月の刊行以来、日本語版が20万部を超えたベストセラー『「死」とは何か』(文響社)のなかで、イェール大学のシェリー・ケイガン教授は最後にこう記している。
「私たちがあまりに早く死んでしまう可能性が高いことはたしかに悲しみうるが、私たちがこれまで生きてきたのはまさに信じられないほど幸運であることに気づけば、その悲しみの感情は相殺されてしかるべきかもしれない」
死を意識し、今の「生」を楽しもうではないか。
死んだあとの世界をどう考えるか
死後の世界はあるか。実は、仏教の創始者・仏陀ですらこの問いに明確な答えを出せていない。
「この世に死を経験した人はいません。仏陀は正直に『滅びてしまった(解脱した)者の行き先はわからず、言葉が届かない』と言うのです」(霊泉寺住職・南直哉氏)
死後の世界について考えるとき、(1)あの世がある、(2)(あの世などなく)すべてが無に帰す、(3)(あの世はないが)自然に還る、(4)わからない、の4つの態度がある。
最初に断っておくが、正解はない。ただ死んだあとの世界をどう考えておくかは、よい死に方と直結している。
(1)あの世がある、と考える人はどれくらいいるか。統計数理研究所が'13年に実施した日本人の国民性調査では、約40%の人が、あの世を「信じる」と回答し、「信じない」の33%を上回った。
東大病院の救急部長として臨床の現場で日常的に死を見てきた前出の矢作氏も、あの世の存在を確信する一人だ。
「死は、霊魂が肉体を離れて『あの世』に行くことです。我々の生きる世界は競技場のようなもので、あの世は観客席だと考えられます。人生という苦しい競技を終えると、霊魂として観客席に戻り、また競技をしたくなったら現世に出る。
それに、人生は一度きりだと考えるのはあまりにも理不尽です。災害や事故で突然亡くなることだってある。『死は終わりではなく、魂は永遠に生き続ける』と考えることは現代人にとって大きな救いになるでしょう」
自己への執着を捨てる
一方、科学的に考えて、あの世の存在を否定し、(2)全てが無に帰すと言う人もいる。
「臨死体験を根拠に、あの世があるという人もいます。しかし、心停止後もしばらく脳波が出現するケースもあり、それをあの世だと錯覚した可能性も否定できません」(早期緩和ケアクリニック院長・大津秀一氏)
死後の世界への不安をさして感じないなら、あの世はないと考えても、なんの問題もない。
あの世という宗教的な世界までは信じきれないが、(3)自然に還ると考えることで、安心できる人もいる。土に帰るとか、風になると考えるのだ。
'07年の大ヒット曲「千の風になって」を覚えている人も多いだろう。死後、お墓にいるのではなく、風になって吹きわたっている。そんな歌詞は多くの人の共感を集めた。
また、墓石にかえて花や木を墓標にする「樹木葬」も、こうした考えに基づくものだ。
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仏陀にならい、(4)わからないと考える人もいる。では、どこに行くのかもわからない不安とどう向き合うのか。南氏が教えてくれるのは、「自分に執着することをやめる」ことだ。
「死後にまで自己を維持したいという欲望に囚われるから、死後の世界を考えてしまうのです。
そこから脱するには、他人を先に立てて生きることを実践すればいい。何かをやっても損得を考えず、褒められることも期待せず、友達を作ろうとも思わない。座禅も助けになるはずです」
人間は弱い生き物で、死後の世界を不安に思い、藁にもすがろうとしてしまう。どの説を採用するにせよ、それぞれの考えを深めれば、死への恐怖は和らいでいくことになるだろう。
「週刊現代」2019年11月2日・9日合併号より