杉並区 16 (05/11/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧阿佐ヶ谷村 (2) 小名 原 / 小山
小名 原 小字 日向 (ひなた 阿佐谷北4丁目)
- 帯山 (おびやま)
- 下道 (したみち)
- 九反畑(くたんば)
- 大場通り(だいばどうり)
小名 原 小字 東原/西原 (阿佐谷北6丁目)
- 村主 (すぐり) 家屋敷
- 源太郎山 (げんたろうやま)
- 小七山 (こしちやま)
小名 小山 小字 小山 (阿佐谷北5丁目)
- 阿佐ヶ谷庚申堂 (37-40番)
- お伊勢の森、ラッパの森
- Aさんの庭
- 出張 (でっぱり)
- 石仏堂
旧阿佐ヶ谷村の旧小名本村に相当する地域を廻り終わり、次は旧小名 原と小山に移動する。
小名 原、小名 小山
小名原は旧阿佐ヶ谷村の北側で本村の北側に位置していた。小名小山はその東に隣接している。
1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、旧小名原は三つの小字 (東原、西原、日向) に分割され、小名 小山はそのまま小字小山となっている。
江戸時代から明治大正時代には民家は早稲田通り (大場通り) 沿い戸北側に集中している。特に人口が多かったのは小字西原戸東原で小字日向と小山はその北側に少数の民家があるだけで、地域のほとんどは田圃だった。その後、関東大震災以降、昭和に入り、住宅地が造成され、都市部からの移住者が急速に増加している。戦後1950年代には全域に住宅地となっている。
下の図はこの地域の民俗地図だが、興味深いのはこの地域中に戦前には軍用地が置かれ、日向、小山を東西に突っ切る細長い陸軍電信第一連隊 電信線架線工事演習場があった。
小名 原 小字 日向 (ひなた 阿佐谷北4丁目)
小名原は、本村よりあとから開拓された土地だった。この小名原地域には南側に日向、北には原西と原東の三つの小字があった。小字 原日向は現在の阿佐谷北4丁目に相当する。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、旧小名原は三つの小字 (東原、西原、日向) に分割されている。1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字の東原、西原、日向は合併して阿佐ヶ谷六丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷六丁目の中の旧小字日向は阿佐谷北四丁目となっている。
帯山 (おびやま)
本村の櫟山の北、松山通り (旧中杉通り) にあった雑木林を昭和初年頃迄までは帯山 (おびやま) と呼ばれていた。細長く道路に並行していた事からこの様に名付けられたと思われる。
下道 (したみち)
阿佐谷北1丁目 (小名 本村)と4丁目 (小名 原)との境となっている道は1955年 (昭和30年) 頃迄は下道 (したみち) と呼ばれていた。この下道の北側が高くなって、道の両側が田圃だった。北側からは下側の道ということでこの様に呼ばれたと言われる。また、別の説ではヒナタミチがシタミチに転訛したともいう。
九反畑 (くたんば )
下道の北には九反畑 (くたんば ) と呼ばれた広い畑だった。昭和初年まで使用された地名。八反畑の誤りという説もある。
大場通り(だいばどうり)
九反畑の北側には早稲田通りが走っている。この道は1955年 (昭和30年) 頃迄は大場通り(だいばどうり)と呼ばれていた。現在の中野区大和町はもと大場村と呼ばれた。そこに通ずる道だったので、この様に呼ばれていた。妙正寺川も、このあたりでは大場川と呼ばれていたそうだ。
小名 原 小字 東原/西原 (阿佐谷北6丁目)
小字日向の北は二つの小字があり、西は小字原西、東は小字原東となっていた。両小字とも中野村(中野区) に隣接していた。1889年 (明治22年)に町村制が施行された際に、旧小名原は三つの小字 (東原、西原、日向) に分割されている。1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字の東原、西原、日向は合併して阿佐ヶ谷六丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷六丁目の中の旧小字東原と西原は阿佐谷北六丁目となっている。
村主 (すぐり) 家屋敷
大場通り (早稲田通り) の北の旧小字原東に広い敷地の邸宅がある。杉並区でも有数の大地主の村主 (すぐり) 家の屋敷だった。村主家は名主の家系で、医者なども輩出している名門だそうだ。この村主家には昔からの長屋門が残っているとあったので来たのだが、長屋門は見当たらない。地図を確認してもこの場所に長屋門があるはずだ。2022年に訪れた人の投稿 (写真下) にも、Google Map のストリートビューにも長屋門が写っている。どうも最近、長屋門は何らかの理由で取り壊され、新しい門と屋敷を囲む石垣に建て替えられた様だ。
源太郎山 (げんたろうやま)
村主家屋敷の東の中野区大和町との境は松・雑木の林で、1951年 (昭和26年) 頃まではこの地は源太郎山と呼ばれていた。由来は不明だが、この林の所有者の名が付いている可能性が高い。現在は丘とか高台でもない住宅地になっているが、この地域では林を山と呼んでいた。
小七山 (こしちやま)
旧小字原東の西は旧小字原西になる。その北側は中野区白鷺に接しており、その境あたりは雑木林 があり、1955年 (昭和30年) 頃までは小七山 (こしちやま)と呼ばれていた。この小七山には絶家した村主姓の家の墓があった。その墓石は法仙庵の村主一族の墓地に移されている。
小名 小山 小字 小山 (阿佐谷北5丁目)
小名小山は、 小高い林や森のある土地だった事が名の起こりという。1889年 (明治22年)に町村制が施行された際に、旧小名小山はそのまま小字小山となり、その後の1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、阿佐ヶ谷五丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷五丁目は阿佐谷北五丁目となっている。
阿佐ヶ谷庚申堂 (37-40番)
旧小字から早稲田通りを東に進み旧小名小山に入った所、早稲田通りから南西方向への路地の分岐点に堂宇が建っている。この道は江戸時代からあり、早稲田通りは所沢道、長命寺道、新高野道など様々な名称で呼ばれ、この辺りでは大場通りと呼ばれていた。路地の方も江戸時代からの道で、天沼村を通り青梅街道に合流していた。堂宇の中には地蔵菩薩像が2基、庚申塔が1基、阿弥陀如来像が1基、供養塔が1基置かれている。現在でも、旧阿佐谷村の人々が中心になって祭礼が行われているそうだ。向かって右から見ていくと
- 仏像? (右下) : かなり破損されて何を祀っているのかは不明だが、赤い涎掛けが掛かっているので大切にされているのだろう。
- 阿弥陀如来立像 (37番 下中): 1715年 (正徳5年) に村主六左衛門を願主とした同行19人により造立されている。蓮華があしらわれた台石の上の舟型石塔に阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。石塔上部には梵字のキリーク、塔の正面右側には奉造立阿弥陀佛像念佛講成就所、左には正徳五乙未天九月吉旦 講敬白と刻まれている。
- 地蔵菩薩立像 (38番 左下): 1722年 (享保7年) に阿佐ヶ谷村講中の26人により造立された舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。石塔の上部には梵字のカ、正面右側には奉造立地蔵菩薩二世安楽所と刻まれている。
- 庚申塔 (40番 右上): 1697年 (元禄10年) に笠付角柱の庚申塔が造立されている。石塔の上部に日月が刻まれ、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下には三猿が浮き彫りされている。立像の左右にはそれぞれ一基二世安楽所、奉造立庚申供養と刻まれている。
- 地蔵菩薩立像 (39番 右下): 1710年 (宝永7年) に願主 村主六左衛門達15名により造立された舟形石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。石塔上には梵字のカ、右には奉供養地蔵菩薩一基為菩提也と刻まれている。
- 供養塔 (下中): 自然石に供養塔と刻まれている。それ以外に造立年月日、願主などは刻まれて無く、詳細不明。
- その隣にはおまけ ( 左下)で置かれているのだろう。顔を刻んだ石が置かれている。
お伊勢の森、ラッパの森
早稲田通りを更に西に進むと杉森中学校のフェンスの前にお伊勢森の案内板が置かれていた。お伊勢森は今日前半に訪れた阿佐ヶ谷神明宮の旧社地に当たる。第12代景行天皇44年 (実在したかは疑わしい。4世紀前半?) に日本武尊が蝦夷征伐より凱旋の折、ここで休んだことから、土地の人が、その武功を慕って社をつくり、神明宮としたという。建久年間 (1190~ 1199年) に、この土地に住んでいた横川兵部が伊勢神宮の参拝に出かけ、伊勢国能保野に泊った夜、神宮のお告げがあり、伊勢の宮川の水中から見つけた霊石を持ち帰って社に安置して、ご神体にした。神明宮はその後、現在地に移転したが、土地の人は旧社地を「元伊勢」 と呼んでいた。当時の神明宮の敷地だったお伊勢の森は広大で、杉森中学校 (写真左) からお伊勢の森児童遊園 (写真右) にかけての一帯だった。お伊勢の森の一部にあたる杉森中学校 (写真左) の場所では、大正時代には中野駅前にあった電信隊の兵士がラッパの練習に来ていたことから、「ラッパの森」ともいわれていた。
Aさんの庭
杉森中学校の西隣にはAさんの庭という庭園がある。変な名前と思い、立ち寄った。
以前は、昭和初期に建てられた洋館が建っていた。
案内板によると、ジブリの宮崎監督がこの洋館とバラの庭園が気にいり、持ち主の近藤英さんと親交を深めていた。洋館が取り壊しの運びとなっていたが、地域住民の強い要望と宮崎監督の協力で杉並区が洋館と庭園を公園として保存して2010年 (平成22年) に開園することになった。しかし、その後、2009年 (平成21年) に不審火で洋館は焼失し、保存計画は白紙となってしまった。これに立ち上がったのが宮崎監督で、杉並区に支援協力を申し出て、公園建設のアイデアのスケッチを提出した。
これにより、改めてこの跡地を公園にする計画が復活し、2010年 (平成22年) に宮崎監督が命名した「Aさんの庭」 として開園式を迎えた。「Aさん」とは洋館の持ち主だった近藤英 (えい) さんの事と公園に来る人全てを表わしているそうだ。焼失した洋館に代わってトトロの家の雰囲気を出すようにトイレと防災倉庫を配置している。庭は綺麗に手入れがされている。これは住民が管理し毎日の清掃、花の手入れなどをする「公園育て組」を組織して活動を行い、地域の公園となっている。
出張 (でっぱり)
早稲田通りを進み、阿佐ヶ谷とその東の高円寺の馬橋の境の南北の道を出張 (でっぱり) と戦前は呼んでいた。1918年 (大正7年) に大場通り (早稲田通り) から陸軍気象部 (現在の馬橋公園) へはいる直線道路がつくられ、馬橋地区のこの範囲が道で切りとられ て、阿佐谷側(西側)に出張った形になって、それ以降、1945年 (昭和20年) 迄、この様に呼ばれていたという。
石仏堂
馬橋公園の西の入口から道が南西に分岐している。この道に入り、少し進むと石仏堂がある。ここに丸彫りの地蔵菩薩坐像が安置されている。少し形が変と思い、よく見ると地蔵菩薩の頭が無い。資料やGoogle Map のストリートビューで見ると、頭もついていた。何らか野理由で頭部が無くなったのだろうか?資料の写真を見ると、胴体と頭部の材質が異なっている。頭部の無い地蔵菩薩に後から頭部を置いた様に思えるが、頭部の方が古そうに思える。この地蔵菩薩像についての記事は見つからず、その経緯は分からなかった。
これで今回の東京滞在中の予定は全て終了し、明日沖縄に帰る。次回は2月に東京に来る予定があるので、その際に杉並区の史跡巡りを続ける予定。
参考文献
- すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)