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朽ちの美

2024.11.10 11:02

https://note.com/honno_hitotoki/n/ne066cd30adbe 【日本人の心を揺さぶる“朽ちの美”|花の道しるべ from 京都】より

花にまつわる文化・伝統芸能などを未生流笹岡・華道家元の笹岡隆甫さんがひもとく連載コラム『花の道しるべ from 京都』。第26回は“朽ちの美”についてです。笹岡さんは以前、「いけばなの“朽ちの美”を映像で表現してほしい」と依頼された際、通常のいけばなでは花が朽ちる様を見せることがないため、躊躇ためらいがあったと言います。その時に閃ひらめいたこととは。

水落ちして変色した蓮の枯れ葉には、独特の存在感がある。金属製の舟形花器に枯れ葉を立ち上げ、そこに明るい色合いの秋草を添えてみた。明暗の対比で、枯れた葉の存在感が一層際立った。

枯れた蓮の葉が際立ついけばな作品

古来、蓮には「三世さんぜ」と呼ばれるいけ方が伝えられている。三世とは現在、過去、未来の意。高さの異なる3本の枝で構成するのだが、丸く開いた葉、朽ち葉、そして「角葉つのば」と呼ばれる開く前の巻き葉の3種を合わせいけ、それぞれが、現在、過去、未来を象徴する。ちなみに、3本の花で三世を表現する場合は、開いた花が現在、花弁が落ちた後に残る花托かたく(蓮の実がおさまる蜂の巣のような部分)が過去、蕾が未来を表す。いずれにせよ、一瓶のいけばな作品に、過去から未来までの時間経過を秘めるわけだ。特に、朽ちて破れた葉や花びらがなくなった花托までが花材として用いられるのが興味深い。

「朽ちの美」は古くから、日本人の心を揺さぶるものだったのだろう。私たちは、蕾だけを賞しょう玩がんするのではなく、満開の花だけを賛美するのでもない。散りゆく桜花を愛おしみ、そのはかなさに時には涙を流しつつ、翌年の桜花を待ち望む。苔むした庭に落ちた真っ白な夏椿の花に目をとめ、そこに新たな美を見出す。日本人は、凋ちょう落らくにこそ、命の尊さを見るのかもしれない。

[琳派400年記念]プロジェクションマッピングでいけばなの「朽ちの美」を表現

琳派400年記念の年に、「朽ちの美」をテーマにした試みに挑戦した。京都国立博物館でのプロジェクションマッピングに、映像を担当された京都大学の土佐尚子教授*からお声がけいただいたのだ。尾形光琳の「紅白梅図屏風」や「燕子花かきつばた図屏風」を連想させるいけばなを映像でご覧いただくことになった。但し、美しく咲き誇る様だけではなく、「朽ちの美」を表現してほしいというご要望だった。

*テクノロジーをアートに取り入れるメディアアーティスト。

京都大学の実験室で液体窒素の中に花を浸ける。凍った花を数秒でいけあげ、いけた花の茎にエアガンで弾を当てる。茎が振動して花弁が落ちる瞬間を、ハイスピードカメラで撮影。肉眼で見ると撃ってすぐ、一瞬で花弁は落ちてしまうのだが、8秒の映像を3分に引き伸すと、花弁がはらはらと舞うように散る様が見えてくる。

このプロジェクトにお声がけいただいた際、しばし逡巡しゅんじゅんした。花が可哀そうだとクレームが出る、異端扱いされるのではないかと、躊躇したのだ。いけばなでは「蕾がちにいけよ」が原則で、通常は蕾から開いていくまでの移ろいを見せる。だから、開き過ぎた花は取り去る。朽ちる様を不特定多数の方にご覧いただかないのは、その花を見ることで痛々しい気持ちになることを避けるための配慮だ。しかし、花をいけた華道家は、盛りを過ぎた花を持ち帰り、その花が朽ちるところまで世話をする。朽ちる様を目にするからこそ、花の命を肌で感じ、その美しさを極限まで引き出したい、そしてその美を少しでも長く留めたいと願う。実は、朽ちた花を見ることで学ぶことは多い。

尾形光琳の「燕子花かきつばた図屏風」を連想させる燕子花の映像

そんな時、ある一枚の絵を思い出した。それは、退蔵院襖絵プロジェクト*を担当していた村林由貴さんが、習作として墨で描いた崩れた牡丹の花。その絵の横には、崩れた牡丹の鉢が実際に置いてあったのだが、生で見ていると黒ずんでいるし、臭いも悪く、痛々しい気持ちになる。しかし、それを日本画というフィルターを通して見ると、なぜか美しく見えた。もっと言えば、新たな命を付加したように見えたのだ。今回の試みでも、映像というフィルターを通すことで、「朽ちの美」が表現できるのではないかと考えた。実際、満開の花を凍らせて散らすことで、桜吹雪のように美しいまま散る風情を表現することができた。

*2011年に文化財の保全と若手育成、文化遺産をのこすことを目的に始まったプロジェクト。絵師の村林由貴さんがお寺に住み込み、修行経験を経て、2022年5月に76画の襖絵が奉納された。

イベント期間中に会場に展示されたいけばな作品

この映像作品は、本当に大勢の皆様にご覧いただき、概ね好評を得た。私の耳には届いていないが、それでもやはりご批判はあったと思うし、失敗だとおっしゃる方もいるだろう。挑戦のほとんどは失敗に終わるのだろうが、100の失敗の後で、1つでも成功が生まれれば儲けものだ。

桜散る こぼるる梅に 椿落つ 牡丹崩れて 舞うは菊なり*

*古来より使われてきた、花の終わりを表す言葉

朽ちの美。年を重ねるごとに、ますますその美しさに魅入られている。

文・写真=笹岡隆甫

▼京都国立博物館での琳派400周年記念プロジェクションマッピングの様子(笹岡さんの燕子花の映像が現れるのは4:50)


https://www.88fukusenji.jp/c_news/col3.cgi?mode=dsp&no=61&num= 【■ 59)<:境内の花:>その53【阿字池の蓮華】「ひらいた、何の花がひらいた、蓮華の花がひらいた」:泥中の蓮の≪花・蕾・実・葉≫ 】より

境内<阿字池>:泥中の蓮の≪花・蕾・実・葉≫

仏像の多くは花台(蓮のうてな;蓮台)に乗っています。蓮弁を散らした後の花托は必ず太陽の方角に向きます。この「阿字池」の中には、現在・過去・未来のすがたがあります。

「阿字池」で、今匂い盛んに咲いている花は現在であり、蕾は未来、ハスの実は過去と言えます。花の中の蜂はハチで、葉は葉で今が現在の最先端の姿であり、蕾は今が現在であり、花は今が盛りの現在であり、ハスの実は今が現在の姿です。

その現在・過去・未来は、蜂・蕾・花・実という実在の変遷で、無常と言えます。

更に、蜂・葉・蕾・花・実は起生の相違であっても、共に「今」が最先端であり、未来へ向かう姿です。現在から未来へ歩む姿でもあります。過去への逆戻りはできません。

過去・現在・未来(かこ・げんざい・みらい)

過去・現在・未来は、時の流れを表す日常語です。

仏教ではこれを「三世」といいます。過去は過ぎ去ったもの、現在は生起したもの、未来はいまだ来ないものという意味です。三世は過去・現在・未来のほかにも、前世・現世・後世ともいいます。

仏教では、時間というものを実体として扱っていません。

存在するものの変遷としてとらまえるからです。その過程の上に、仮に三つの区別を立てているにすぎません。 

仏教はその三世の中でも、現在を特に問題にします。過去は現在の原因として、未来は現在の結果としてあるものだから、現在を大切にと考えるのです。「因縁果報」というのがより仏教的な言い方かもしれません。それは因は原因、縁は他人や環境などのまわりからの作用。因と縁が重なりあって果(結果)が生まれ、自分に対して報(報い)として返ってきます。生まれた果(結果)が新たな因となり、また縁と重なりあって新たな果が生まれ未来がられていく。これが仏教の思想です。<「今」>は過去と未来の境目にある瞬間で、「今」と言っている間に「今」が過ぎ去ってしまいます。仏教では過去も未来もあまり問題にしません。この今こそが問題なのです。

今という瞬間の積み重ねで命を燃やす。「今」と真剣に取り組んで生きて行く。

「見ずや君、明日は散りなん花だにも、カの限りひとときを咲く」<九条武子>

今を大事に力いっぱい生きなければなりません。「現在とは、過去と未来の中間に存在する時間の概念です。現在の科学ではこの時間の流れを変えることは不可能です。我々はもっと時間というものを有意義に使っていかなければなりません。

赤ちゃんも、子供も、大人も、みんな未来だけに向っていく。いくら懐かしもうと、後悔しようと誰も過去には戻れない。先へ先へと歩みを進めなければなりません。

それ故、私たちは誰もがみな、「今」がそれぞれ人生の最先端にいると言えます。

「過去があって今がある。過去には戻れません。

            誰もが現在から未来へ向かうのみです。」

以下サーチ【search】

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三世(さんぜ、サンスクリット語:Traiyadhvika, Traikālya)とは、仏教でいう過去世・現在世・未来世のこと。また三際(さんざい、後述)ともいう。

「世」とは還流・遷流の義を持つ。有為の事物は一刹那の間も止まらず、生じ終わると直ちに滅す。よって来生を未来世となし、生じたるを現在世となし、滅し終えたるを過去世となす。仏教では、時間を実体的に捉えず、つまり実在するものとは見ない。変化し移ろいゆく現象や存在の上で、仮に3つの時間的な区分を立てるに過ぎないとする。

以下

これには様々な用語があり、その用語によって微妙に意味あいが異なる場合がある。

前世・現世・来世の三世 前世 - 衆生が生まれる前に送った一生

現世 - 衆生が現在を送っている一生

来世 - 衆生が死後に転生して送る一生

過・現・未の三世。別称で已・今・当(い=既に・こん・とう)、前際・中際・後際(三際)ともいう。 過去世 - 仏法がすでに過ぎ去った状態

現在世 - 仏法が現に存在している状態

未来世 - 仏法が未だ存在していない状態

宿世(すくせ)を含む考え方。一般性は高くはない。大乗に多いが解釈の仕方により多岐にわたる。尚、過去世や前世を利用した、悪質な霊感商法対策として用いられることがある。 現世 - 今生の世

宿世 - 死後、輪廻転生するまでの49日とされる霊体の世

来世 - 宿世を経由した次の現世

※通常宿世の間は白木の位牌を使い、この間の修行が有益とされる。※因果律は宿世から現世(あるいは来世)において正しく伝わる、とされる。

「三世諸仏」という場合、過去・現在・未来に対応した如来(もしくは菩薩)を指すことが多い。

仏教では三世に因果の関係が必ずあるとされる。これを三世因果といい、四諦や十二因縁を説くためにこの三世因果を用いる。

唯識では、三種三世(さんしゅさんせ)を説く。

道理三世種子曾当(しゅしそうとう)の因果ともいい、現在の法の上に道理をもって仮に立てる三世を立てる。神通三世過去・未来は実体あるに非ざるも、宿命智にて過去を、生死智にて未来を、他心智にて現在の境地を観る。これは実の三世ではなく、心識所変の現在刹那相分である。唯識三世過去・未来の法は、実体あるに非ず、妄情にて過去・未来の事物が心中に顕現する。ゆえに妄情に三世あるも実は現在法の相分にて、唯識所変であるとする。

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<凡夫の心は蓮華のつぼみの如く、仏心は満月の如し。>

                弘法大師の「秘密曼荼羅十住心論」

人はさまざまな悪い心のはたらきにより、迷い苦しむことが多いいが、弘法大師は、そうした人の心を、蕾(つぼみ)のふくらみをもったハス(蓮華)にたとえられました。蕾はやがて清浄な花を開かせます。

人の心は日々の生活のなかで汚されていますが、本来人の心の本性は清浄なものであり、仏性を開顕される可能性を、みな備えているとされ、そうした未完成な私たちの心に対して、仏心は欠けるところのない満月であると喩えられました。

月は暗闇の新月から日々満ちてゆき、十五夜には満月となります。

私たちも心の本性を深求してゆくならば、まちがいなく次第に成長してゆき、仏と異ならない尊い*1.菩提心の自覚を実現できるとされます。

(*1.悟りを求めようとする心。)

全ての人が蓮の台(うてな)に乗れます。

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キリスト教の花のイメージは百合・イスラム教の花は薔薇・インドのヒンズー教は蓮です。

蓮華(花と葉)は仏教のシンボルです。蓮の花や葉は、汚れた泥の中からすーと茎をのばして花を咲かせたり、葉を広げます。仏教では蓮の花は、凡夫の世界からの悟りを意味します。私たちの心の中には、どんな人も蓮の花を咲かせる種を持っています。

・タイの国では仏前にハスをよく供えます。その時、蓮の花を長持ちさすために、花弁を内側の中心に向かって、花弁を折りたたんでゆくんだそうです。そしたら長持ちするようです。

花言葉。「雄弁」「休養」「沈着」「神聖」「清純な心」「信仰」

花の中に潜り込む蜂は、トラマルハナバチ?

ハスの神秘性と生命力、そして清涼感が魅力です。芳香もありトラマルハナバチが早朝から訪れます。。

朝早く起きて、ハスの花を見れば、その日一日中、「わが心は清々しい!」です。

昔から蓮の蕾が開く時、「ポン」と音をたてるとよく言われます。このことは未だ信じられません!? 皆さん、開花の音を聞いた経験がありますか?

ビン・カンの栓を抜けば、瓶・缶内は真空だから「ポン」と音はします。それと同じように蕾の中が、真空なら音がするはずです。蕾の中は真空ではありません。もし耳に届いたとしたら、それは幻覚としか言いようがありません?

蕾は花弁が幾重にも重なったもの。その中が真空になるはずはありません。

日本語の擬音語は言い得て妙。だれもが神聖視する蓮なるが故に、そんな伝説が生まれたのでしよう!

まさに「ポン」と咲くイメージ音!

朝顔も開くとき、昔から音がするとも言われます。

『「ポン」と鳴らない!』と言うのは野暮!

「ポン」と音を出して、神秘的に咲いてほしい蓮華なのです!。

蓮華が咲くとき、「ポン」と音がすると言う人に、罪はありません。

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花も綺麗ですが、蓮葉も綺麗で神聖です。花に顔を埋めて聞く香りも精神を和らげてくれます。

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藕絲織(ぐうしおり)という、蓮糸で織られた幻の織物があります。(ミャンマー中央・シャン州の高原にある淡水湖)の村で、今でも特別な布帛(ふはく)として受け継がれているそうです。

(ぐうしとは)蓮の茎から抜き出した細いクモの糸のことをいいます。この糸を紡いで織ったものが「藕絲織」というそうです。

布帛(ふはく)とは、繊維製品の総称です。

「藕絲織」は、約1mの生地を織るのに、蓮の茎が一万一千本必要になり、また、茎の収穫から、糸の生産まですべてが手作業によるもので、熟練の技術と半年の期間を要する貴重なもの。

有名な国宝「当麻曼荼羅図」原本は、蓮(藕)絲で、中将姫が一夜のうちに織りあげたという伝説があります。それは約四メートル角の大きなものです。

その製法と過程は、当麻寺が伝える「中将姫物語」にあるものとして、長期間親しまれ、信じられてきましたが、赤外線写真、X線撮影等をおこなうと、「絹糸の綴れ織である」との結論で、藕絲は確認され無かったようです。調べてみると、現存する最古の藕絲織とされているのは、北九州市小倉の福聚寺にある「藕絲織霊山浄土図」です。寛文9年(1669年)小笠原忠真の供養のために、夫人が奉納したものです。紺色の絹地に、藕絲の緯(よこ)糸で模様を織り出したということです。

中国名: 蓮 :

漢名ではハスの実がひとつずつ独立しておらず、連なっていることから、「蓮」は実を表す。

漢 名: 荷 :

ハス全体を総称する名称が「荷」で、「葉や花が水面から出ている草」を表している。

きれいなハスにもトゲがあります。

バラにはトゲがある事は誰でも知っています。きれいなハスにもトゲがあります。  

ハスの葉を観察していて、葉柄を持って葉の下を覗き込んだ時、チクリとするものがあり、所々に下向きの小さなトゲがある!花の方にもあるのです。

トゲの長さは1mm程度で、先端は赤くなっている。

泥の中に地下茎を伸ばして花をつけ実を結ぶことから子孫繁栄をも意味します。

以上蓮の雑学。

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昭和天皇:s63年闘病生活の中で、

「夏たけて堀のはちすの花見つつ仏の教え憶う朝かな」

「♪・~・小鳩くるみの童謡。♪・♪~♪・」

曲名は「ひらいたひらいた」です。

♪♪・・・歌詞:『ひらいたひらいた』

ひらいた ひらいた 

なんの花が ひらいた

れんげの花が ひらいた

ひらいたと おもったら 

いつのまにか つぼんだ

つぼんだ つぼんだ

なんの花が つぼんだ

れんげの花が つぼんだ

つぼんだと おもったら

いつのまにか ひらいた

レンゲソウ(ゲンゲ)との違いは?

ちなみに、名前のよく似た花に「レンゲソウ(蓮華草)」がある(下写真)が、これは中国原産のマメ科ゲンゲ属「ゲンゲ(紫雲英)」のことで、『ひらいた ひらいた』における「れんげの花」とは異なる。

古く江戸のころから伝わる、「わらべ歌」ですが,この「レンゲの花(ゲンゲの花)」は春に野に咲き、良い「みつ源」になるマメ科のゲンゲの花、蓮華草のことではなく、池に咲く仏花の「蓮・ハス・はす・蓮華」のことを歌っています。蓮華草の事を(ゲンゲ)というのは、レンゲ(蓮華)と区別するためかもしれません。

幼い頃、この歌は、蓮華草の事だとばかり思い込んでいた時期もありました。よく観察すれば、ハス花は早朝に咲いて、午後には花弁を閉じて、つぼみ状になります。開いたり、蕾んだりします。よく考えれば蓮華草(ゲンゲ)は開いたり、閉じたりすることはありませんよね…!草でしかも花が蓮華によく似ているから、蓮華草というのかも?

「ひらいた、何の花がひらいた、蓮華の花がひらいた」

…開いたり閉じたりするのは、「ハス華」…

「蓮華の花開いた」は、 女子遊びなり(江戸年中行事より)

数人の子供らが、互いに両手を握り合って輪を作り、大声で、「蓮華の花はひらイた、ひイらいたと思ったら、やツとこさと、つウぼんだ、つウぼんだつウぼんだと、おもったら、やツとこさと、ひイらいた」と、互いに開いたり、つぼんだりしている内に、つまずいたり倒れたりする。怒ったり泣き出したりすることもあって、仲間が手を離し崩れてしまう。そんな幼い女児の遊びのようです。そんな遊びを仏様が見守っている様な(踊り歌)。 そこには一休さんが加っていそうな遊戯歌。 

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「はす」の読みから。「はす」は「はちす」が短くなったもので「蜂巣(足長蜂)」の意味。蓮の花が散った後、種が入った穴がぽつぽつとある花托が、蜂の巣のように見えるところからこの名が付きました。

「はすをはちすといふも、唯いふにあらず、はすの実の、はちといふ虫の巣ににたればはちすというふ也」:古歌:

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この画の中には、「蓮華合掌状の蕾」そして、「開花の状態」、「蜂巣状の結実」が同時に見られる場面です。蕾→花→結実。

花も葉もお釈迦様の世界に引き込まれます。

蓮の功徳に、三徳があります。

・『花果同時』 「花と果実が同時になること(蕾の花弁をめくれば既に果実が具わっていること)」は、生まれながらに「実」を持って生まれてきたものです。それを仏教では因果同時、迷いの凡夫(花)の中にも、生まれながら既に悟りを開く心(果)が備わっていることに喩えます。生まれながらに誰でも仏心があること。

・『泥中不染』 「泥の中にあって染まらない」は、どんなに悪い環境でも、気高く生きることの美しさをいいます。

・『一茎一華』 「ひとつの茎に一つの花しか咲かないこと」とは、この言葉は欲張ることなく、満足を知る「知足」を意味しているようです。

 ・・‥‥…━━━━━━━: 合掌 :━━━━━━━━…‥‥・・

☆〓合掌に蓮華合掌(れんげがっしょう)というのがあります。

=手と手と合わした時に、互いの手の平(掌・たなごころ)を自然に、ハス花に似せて膨らましたまんまの状態の合掌です。これを、蓮華合掌といいます。これは、蓮華の蕾の姿形をあらわします。この蓮華合掌をすることで、仏前においては仏から頂いた種を今、咲さんとすることであり、そのつぼみをもって、仏の教えを頂き開花しようとしています。人と人においては、互いにつぼみを持っているそのことに、礼拝し敬う姿です。普通のお勤め、お参りには、この合掌をしましよう。

☆〓金剛合掌(こんごうがっしょう)

=手と手を合わせます。合わせた手の平の右手を手前にずらして、指を交互にします。右手の親指が一番手前になります。そして、手の平はぴったと着けます。指先も一直線に並べます。これを金剛合掌といいます。蓮華合掌は、どの宗旨の方でもするのですが、この金剛合掌は、真言宗だけです。まず、十の指を合わせることの意味ですが、右手は仏、左手は凡夫の私たち、これが交互に重なり、堅固にしかも一体になるという教えです。仏と私が一体であるの精神をこの合掌で表すのです。この合掌によって、自身仏に守られ、仏といつも一緒の信心を固くするのです。

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「レンゲ」というと、水を張る前の田んぼに咲く小さな紅紫の花を思い浮かべる方も多いかと思いますが、あれは正しくは「蓮華草(れんげそう)」、別名紫雲英(ゲンゲ)の花です。

蓮華草(レンゲソウ)は、正式には紫雲英(ゲンゲ)

< 握り締め 母に捧げる 蓮華(ゲンゲ)草  久保夢女 >

また、蓮華と睡蓮の違い。

・蓮はハス科として独立。スイレン(睡蓮)はスイレン目スイレン科。ハスの葉は,水面に浮く「浮き葉」と、水面より高く上がる「立ち葉」があり,花は水面より高くそびえて咲きます。

それに対して、

・スイレンは浮き葉だけで,花も水面に浮いているか,水面より上がっても低いところに咲きます。

また、

・ハスの葉は水をはじいて水玉を作りますが、

・スイレンは水をはじきません。スイレンの葉には切れ込みがあります。スイレンの葉が水をはじかず切れ込みを持つのは,増水時に水に沈みやすくして茎や根に負担をかけない為だそうです。

「ひらいた、何の花がひらいた、蓮華の花がひらいた」の「蓮華」は、蓮華草ではなく、蓮の花のこと。

歌に唄われている通り、朝開いた蓮の花は昼過ぎにはつぼみ、翌朝にまた咲く、ということを3.4日繰り返し、花弁を散らします。

・蓮とは種類は違うものの、同様に夜は花を閉じる「睡蓮(すいれん)」に、「睡」の字が使われているのも納得です。やはり睡蓮の仲間である「未草(ひつじぐさ)」は、未の刻(午後2時)頃に開花することからその名が付いたと言われます。

蓮は泥の中で育つにも関わらず美しい花を咲かせることから仏教において清浄のシンボルとなっており、「南無妙法蓮華経」で、お馴染みの名にもなっています。

極楽浄土に往生した人は、蓮の花の上に座るとされており、仏像を載せる台座は蓮の形をした「蓮台(れんだい)」ですし、「一蓮托生(いちれんたくしょう)」とは、死後、同じ蓮に身を託す、すなわち死ぬまで運命を共にすることを意味します。

芙蓉の顔(かんばせ)と言えば、中国では「蓮華」のことです。「芙蓉の顔」とは、ハスの花のように美しい顔。美しい顔立ちのこと、美人の喩え。

日本でいう「芙蓉」は中国では「木芙蓉」のようです。蓮の花には「金蓮歩」という言葉もあり、美人の歩くさま・・・

仏教と蓮は、切っても切れない関係です。

例えばほとんどの仏さまは、蓮華の花の台の上におられます。 また、たくさんのお経の中に、蓮華にまつわる説話や、比喩などが繰り返し使われます。

お釈迦さまが悟りを開かれた時、その教えを人に説いても理解されないだろう、説くことを断念しようと考えられた時、天から梵天が、教えを説いて欲しいと、懇請に来る『梵天勧請』という物語には、お釈迦さまは、この時、汚い泥の中から生えながら、その泥に染まることなく成長して、清浄な花を咲かせる蓮華をイメージして、教えを説くことを決心されます。

また、蓮は花が咲くと同時に実が生じるという不思議な花です。花と実が同時であることを「因果倶時」といって、仏教の教えを説く時に比喩的に使ったりもします。

 

釈尊の数々の説法の中には、蓮と水のたとえが頻繁に用いられております。

蓮のイメージは静寂で、仏教では極楽浄土をイメージしています。迷いのない解脱した状況です。

芥川龍之介;蜘蛛の糸:

ある日の事でございます。御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮はすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろの蕊ずいからは、何とも云えない好よい匂においが、絶間たえまなくあたりへ溢あふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水の面おもてを蔽おおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度覗のぞき眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。・・・極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆら萼うてなを動かして、そのまん中にある金色の蕊ずいからは、何とも云えない好よい匂が、絶間たえまなくあたりへ溢あふれて居ります。極楽ももう午ひるに近くなったのでございましょう。

『古今集』 はちすの露をみてよめる  僧正遍昭

「はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」

「はちす」は蓮(はす)の古名。

=沼や湿田に育ち、泥水に染まることなく、清らかな花を咲かせる蓮。そんな清浄な心を持ちながら、どうして露を玉とあざむくような真似をするのか=と戯れた歌。

日頃見馴れた池の蓮に対する親しみをこめた、仏者らしい風流のまなざし。

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夏も盛りとなれば、蓮池はびっしりと葉で覆われ、熱帯的な風景を見せる。浮いている葉は「浮葉(うきば)」、立っている葉は「立葉(たちば)」と呼び分けて、いずれも涼感をもとめる夏の風物として、好んで歌に詠まれました。

東京上野にある上野恩賜公園の不忍池(しのばずいけ)は、江戸時代より浮世絵に描かれるほどのハスの名所。江戸時代に寛永寺の寺領であったが、明治になって公園になって、毎年花を咲かせ、都内でもハスの名所として復活し、夏の風物詩として多くの人に親しまれています。

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蓮をよく観察してみましよう!以下、

水底の根と、茎によって立ち上がる葉っぱと、花柄という茎によって立ち上がる花という三つ部分で成り立っています。

根の部分にはレンコンが育ち、そこから伸びる一本の葉柄に一枚の葉が、一本の花柄に一輪の花が開く形になる。その先にひとつ咲く満開の花の輪郭は、真上から見ると蓮華の中心にある花托(めしべ・種の集合体)は車軸の様で、車輪とよく似ております。葉っぱも、上から見ると、中心からスポーク状に広がる葉脈と丸い輪郭。一見して車輪のデザインそのものの形をしている事が分かります。レンコンの輪切り面も車輪状です。不思議ですよ!

経典の中に、極楽の光景を描写するのに、浄土を象徴する池には『大いなること車輪の如き蓮華』が咲いていると表わしています。この表現は、実は法華経など、他の多くの仏典にも共通してみられるもので、当時のインド人が蓮華と、車輪を共に聖なるシンボルとして、重ね合わせていることが窺えます。

 

(タイの仏教徒はハスの花を仏に供えますが、その時長持ちさせるさせる為に花弁を折りたたむんだそうです。)

みすゞの詩

ひぃらいた つぅぼんだ、

お寺の池で れんげの花が。

ひぃらいた つぅぼんだ、

お寺の庭で 手つないだ子供。

ひぃらいた つぅぼんだ、

お寺のそとで お家が、町が。

「蓮と鶏」

泥のなかから蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。

卵のなかから鶏が出る。それをするのは鶏じゃない。

それに私は気がついた。

それも私のせいじゃない。

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極楽や清水の中に蓮の花/正岡子規

極楽へ迷ひこんたり蓮華草/正岡子規