Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

庚申信仰

2024.11.10 14:01

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8027047 【五島市富江湾の朝日】 

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2594496  【黄泉平坂】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7180926 【物部氏は中東から来た星見の氏族?】

http://www.kannon.org/01/mukasi7.html  【庚申信仰】 より

 庚申信仰は、仏教では青面金剛(しょうめんこんごう)を御本尊とし、これは大青面金剛、青色大金剛薬叉ともいわれ、病魔悪鬼の災いをさけるために祀られた仏様です。神道では日本神話の猿田彦の神を御本尊としている、それらと中国の道教思想とが習合して独自の民族的な祭事となった。

 道教の教えによると、人間の体内に獅子身中の虫が三匹(三尸神)いて、上尸神は頭の病気を、中尸神は胸の病気を、下尸神は下の病気をおこすといわれ、庚申日(かのえさる日)の晩にこれら三匹の虫が、天に昇り天王(北斗の星)にその人の悪口をいいに行くとされている。そこで庚申日の晩には行ないを慎み、なるべく人々が寄って長時間雑談をする風習が行われたため、「話は庚申の晩に」という言葉も残っている。

 日本神話の猿田彦は村境を守り邪霊をよせつけない神様とし、また猿は山王の使者とも化神ともいわれ、「山王七社」は北斗七星をかたどった社であり、農作業の作神としても祀り、猿は赤い顔をしているから庚申日のお祭りには、赤飯とか牡丹餅がお供えされました。この祭事を古くは御庚申(ごこうしん)、守庚申(まもりこうしん)、守三尸(まもりさんし)、庚申御会、庚申の御遊、庚申会などと呼ばれ、室町時代中期ごろより庚申待(こうしんまち)と呼ばれるようになった。江戸時代にはこの庚申待は全国的にさかんになりました。

 青面金剛は、身は青色で目は三眼、頭髪は怒髪、足下に邪鬼を踏んで岩座に立ち両脇に二童子と赤、黄、白、黒の四薬叉が描かれるとされますが、庚申待の御本尊としてはさらに、古くは二猿、のちには三猿そして二羽の鶏、上部には日輪と月輪を配する図です。鶏や日月を配するのは徹夜の行事で夜明けを待つ人々の祈る心のあらわれと思われます。猿神のことは道教にも仏教にも根拠がなく、申と猿を附会し、さらに三猿は「孔子家語」の三緘の故事から不言・不聞・不見の教えをとり入れて三猿に附会したようです。庚申待御本尊青面金剛四輪や庚申塔にある、最も普遍的な猿は見ざる・聞かざる・言わざるの三猿である。これは、眼・耳・口を手でおさえているが、その順序や姿も一律ではない。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-22fe.html 【日本神話の星座的解釈(八)】

さていよいよ神倭伊波礼琵古命(かむやまとのいわれびこ)、神武天皇です。

神倭伊波礼琵古命は四人兄弟の末っ子です。五瀬命(いつせのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)。それぞれ、清水、稲、水田、苗代の神様です。末っ子の神倭伊波礼琵古命は苗代の神様です。

 以前に山天大畜の解説で恒星の中では最も明るいシリウスが神武天皇なのではないかという説を出しました。神武天皇は東征をするに当たって、瀬戸内海の津を伝いながら東へ進みました。速吸瀬戸や明石海峡など難所にさしかかるたびに立ち往生し、地元の神様の助けを借りて切り抜けています。

 神武天皇ののんびりとした東征の道筋は、風待ちをしながら、島伝いにのんびりと航海する古代の航海術を表現しているのでしょう。

 神武天皇には「のろのろと進む」というイメージがくっついており、それがあまり高いところまで上らない夜空で一番明るい星「シリウス」と神武天皇が結びついた理由だと思います。さらにシリウスはお正月頃に天高く上りますので、初代の天皇としてはぴったりです。

 シリウスがあるおおいぬ座は長方形(右回りにα星、β星、ε星、δ星)を斜めに立てたような形をしています。四兄弟というわけです。本当に良くできていますね、書いている私もびっくりするくらいです。

 神武天皇は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)や猿田彦の妨害や道案内(両方とも妨害と道案内を両方しています)を受けて進んでいます。

 猿田彦の赤くて長い鼻は、牡牛座のアルデバラン(オレンジ色です)と二本の角でしょう。牡牛座の後ろには昴(すばる)があり、昴は古くから天のやちまた(交差点)と呼ばれていました。星が集まっているのが交差点のように見えるからです。神武天皇(シリウス)と天のやちまた(昴)の間に、猿田彦(牡牛座)が立ちはだかっているように見えるというわけです。(この話は邇邇芸命の時にも出てきます。同じ話が二度出てきているのでしょう、どちらが本当だと言うことを厳密に考える必要はないと考えます)

 その上にはオリオン座があります。オリオン座は踊っているように見えるのでこれは天宇受賣命(あめのうずめのみこと)でしょう。天宇受賣命がおっぱい丸出しで踊ったため、とおせんぼをしていた猿田彦は見とれて道を譲ってしまいます。かなりユーモラスな話です。このユーモアが日本神話の特徴だと思います。日本神話は殺伐さとは無縁です。

 椎根津彦は大分県の佐賀関に祀られているのですが、そこでは大蛸が神武天皇の進路妨害をしたため、速吸比売(椎根津彦の場合もあります)が大蛸を鎮めたと言うことになっています。私の父は佐賀関に単身赴任していたことがあり、その神社には私も行ったことがあります。速吸比売神社はタコがご神体の海女の神社です。願い事を叶えるために「蛸断ち」をする面白い神社です。近くの海岸には神武天皇が船を結わえた岩と言うのがあります。

 椎根津彦の神話は素潜りと繋がりが深い神話ですので、椎根津彦は海面すれすれのところに見える星だろうと思います。竜骨座のカノープス(南極寿星、南極老人星)です。シリウスに次いで全天で二番目に明るい星です。

 カノープスは日本では「めら星」とも呼ばれ、古くから海の道しるべになってきました。地名にもなっています(布良、米良)。

 カノープスはシリウスよりも若干早く夜空に出てきます。ですのでシリウスの先導役と言えます。海の底からひょっこり出てくる星なので、素潜りの神様にされたのでしょう。

 オリオン座が八咫烏を表すのではないかと言うことは以前述べました。

 星空の神武天皇が目指したのはおそらく北極星です。天の川を通って最短距離で北極星へ行こうとして失敗してしまいます。星空を見ればわかるのですが、シリウスから北極星にかけては明るい星が所狭しと並んでいますので進みにくいのです。ですから、星が少ないルートをとると言うことになります。

 星の少ないルートとはどこか?魚座やペガスス座のあるあたり。全天でもひときわ寂しい箇所です。シリウスよりは西側になりますが、季節的にはシリウスよりも前(東)になりますので、昔からの夜空の表現の仕方に従えば、シリウスが東に進むというのは秋の星座のゾーンに入ることを意味します。このルートは星が少ないので熊野の深い山に見立てられたのでしょう。

 神武天皇が上陸地の新宮で遭遇したいう消えたり現れたりする熊というのは変光星のミラのことでしょう。ペガスス座の広大な四辺形は吉野や宇陀野などの盆地です。最後まで抵抗した長髄彦(ながすねひこ)は秋の星座のゾーンと北極星の間にあるカシオペヤ座であり、あっさりと降伏した邇芸速日命(にぎはやひのみこと)は北斗七星でしょう。

 古くからの王である邇芸速日命が殺されず降伏しただけであるのは、この神話が元々北極星の交代を説明するための神話であったからだろうと私は考えています。地球の歳差運動により北極星は入れ替わります。北極星は四千年前はりゅう座のα星で、それが三千年前にこぐま座のβ星に替わり、二千年前にこぐま座のα星に替わりました。それまで北極星だった星は別に消えたりはしません。交代するだけです。これが昔の王の死を伴わない王位交代、という物語の背景だろうと思います。

 もともと海部の間に、ヒーロー(シリウス)が困難に打ち勝って天空の王者になるという神話があり、それと神武天皇の事跡が結びつけられたのだろうと思います。

 私の推測では、神武東征神話はもともと地名や歴史上の人物とはあまり関係がく、太平洋の海洋民族が星座をおぼえるために作った神話だったのだろうと思います。

 それが記紀神話に取り入れられるに当たって、現実の地名や人物が当てはめられたのだろうと思います。特に熊野から上陸し、吉野から大和盆地を攻めるあたりは、星座の話の方が先にあって、それに地名を当てはめていっただけで現実にそのような遠回りをしたと想定する必要はないと思いますが、事実は小説よりも奇なりですので、海洋民族であったろう神武天皇が、伝説にヒントを得て、山側から大和盆地に攻め入った可能性もあるかもしれません。


https://akiu.org/yuisho.html 【"勝負の神"のいわれ】より

 当社の御創建は秋保の最も古い歴史として記されていますが、今から凡そ1200年程前、平安初期の大同3年(808年)時の征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定の折、この地に熊野神社を 祀ったのが初めと伝えられています。

 時代は下り、室町時代には秋保村領主秋保氏の祖先 平盛房が信州は諏訪大神に本土恢復を祈願したところ戦勝の御神徳を得た事から、諏訪神社の御神霊をこの地に勧請して祈願所とし「戦の神」として崇拝されるようになりました。

慶長5年には武家の守護神として仙台藩の尊崇も寄せられるようになり、伊達家に庇護され大社が建立されると共に、正保3年には二代藩主忠宗公より伊達家の永久祈祷が仰せ付けられました。

 明治42年には明治天皇の御勅令により秋保五カ村の御神霊を合祀し、主祭神「健御名方命タケミナカタノカミ」をはじめ、「天照皇大神他七柱」が祀られ、諏訪神社の社号が秋保神社と改められました。

祈祷風景

 拝殿に数多く掲げられる奉納絵馬は、戦時中の武運長久祈願の様子を偲ばせますが、現在は人生を勝負事と考え、商売繁盛や合格祈願、又運動競技やレース等の必勝祈願に遠方からの参詣者が絶えません。

 その中で、発足30年以上にもなるレーシングチーム「RSオガワ」はレース前、当神社に参拝したところ、ホームコースでありながら暫く勝てずにいた菅生で久々の優勝を飾り、御礼参りを兼ね再度参拝して必勝祈願をしたところ、富士・岡山と勝ち星をあげ、更にその後シリーズチャンピオンに輝く快挙を達成しました。

「勝負の神」に感謝し、小川様に心よりお祝いをすると共に、更なる飛躍をお祈り申し上げます。


http://madamada888.blog.fc2.com/blog-entry-194.html 【津軽の北斗七星「大星神社2」ーつがるみち118】より

 坂上田村麻呂が北斗七星に導かれて蝦夷を制圧した・・という伝承を持つ大星神社ですが、その由緒については、

【延暦十一年蝦夷鎮護の祈願所として草創され、同二十年坂上田村麻呂将軍東夷征討の時、本社殿を再興して妙見宮と称して天之御中主神を祭ると言い伝えられる】とあります。「妙見宮」の名の通り、もともとは妙見菩薩を本尊とする寺院だったのですが、明治の神仏分離によって大星神社となり、祭神も天之御中主神(アメノミナカヌシ)となった分けです。 

 藩政時代には歴代の津軽藩主の庇護のもと、社殿の建築や修復がなされたようで、由緒書きには【・・九代藩主寧親公は由緒深き本社の御神事を盛んならしめんと壮麗なる本殿を構築し、御神器諸物、御真筆の社号の額を奉納。国家安泰を祈願され、本社を津軽藩の大社に列し社禄を与える。】と記されています。※【】は青森県神社庁HPより 

 弘前藩9代藩主・津軽寧親が、ここに壮麗な社殿を建てたのは、幕府から蝦夷地警護の命を受けたときであり、ここ妙見宮が、往古より蝦夷征伐に由緒が深い社であったことを示すものです。

 大鳥居から境内までは長い参道が延びていて、途中には猿田彦大神も祀られています。二の鳥居からは、参道が左に折れており、三の鳥居へと続いています。

 この三の鳥居の米俵、金属で出来ているようで、金色に光っていました。

 境内には、注連縄が張られた御神木がいくつかありましたが、これは、大杉と枝垂れ桜の古木。

 由緒には、4代藩主・信政が【庭園を築き、桜樹を移植して境内を整備し神聖を計り・・】とありますが、樹齢350年以上ともいわれるこの枝垂れ桜は、その当時のものなのかも知れません。今でも美しい桜の花を咲かせていて、花見時には、境内はたくさんの人々で賑わうとのことです。

 拝殿の前に見事な花崗岩造りの四の鳥居がありますが、この鳥居は、文化6年(1809年)に、当時江戸で有名な考証学者・狩谷えき斎が建立したものです。えき斎は「津軽屋」の屋号で江戸の本郷湯島にて米穀商を営み、代々弘前藩邸に出入りした御用達であったといわれている人物です。

 こちらは拝殿の側に建っている薬師神社。こちらの古びた鳥居の奥のお堂が気になったので、覗いて見たら、神馬が祀られていました。

 拝殿は白壁造り。中には弘前藩の祈願所だったことを思わせる津軽牡丹の幕が張られていました。入口にこんな「お知らせ」がありました。宵宮のときに、ろうそくの形が「龍の姿のようになった」というのですが・・・。

 さて、この神社の母体であった「妙見宮」は、現在も境内の中に建てられています。

 妙見信仰は「星辰信仰」とも呼ばれ、天空の中心である北極星と北斗七星を崇める信仰のことですが、【古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。 ※wikipediaより】とされています。

 

 この妙見菩薩は日本では、奈良時代の頃から「妙見宮」として、お寺にも神社にも祭られていましたが、明治以降、神社には、宇宙の創生神・天之御中主が祭られるようになったといわれています。

 さらにはまた、「北斗七星」ということから、北の守護神である「毘沙門天」とも同一視されています。即ち、妙見菩薩=天之御中主=毘沙門天といわれる分けです。

 坂上田村麻呂は、戦いの神様である毘沙門天を深く信仰し、蝦夷征伐が成った先々で毘沙門堂を建てて祭ったとされていますが、津軽の北斗信仰が伝わる七つの神社も、それにあたっています。

 ここ、大星神社の妙見宮の中にも、そんな古来からの信仰(妙見、北斗、毘沙門)を物語る扁額や奉納額などが掲げられていました。