鎮もれる杜のそこひや冬苺 五島高資
https://www.mindan.org/old/front/newsDetailc8be-2.html 【知ってましたか? こんなルーツ】より
今年は江戸時代に朝鮮通信使が来日して400周年--ゆかりの地域を中心に各種イベントや顕彰事業が盛んだが、日本の代表的な夏祭りにちなんで、時代をぐんと遡り、古代の韓日関係を掘り下げるのも一興だ。キーワードはともに百済である。合わせて、このほどユネスコの世界遺産に登録された石見銀山について、隠された韓日交流を紹介する。
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ねぶたの主役 坂上田村麻呂
初の征夷大将軍は百済系…渡来人重用の証
青森市内を練り歩く坂上田村麻呂のねぶた
平安時代の武人で、「蝦夷征伐」で有名な坂上田村麻呂の墓が、京都市山科区「西野山古墳」であると、「清水寺縁起」の詳しい文献調査でこのほど特定された。百済王族の血が流れる桓武天皇の信任が厚く、桓武から初代・征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂も、百済系渡来氏族として有名な東漢(やまとのあや)氏出身である。
武者人形の人気を独占
「ラッセラー、ラッセラー」の掛け声と、にぎやかなお囃子に乗って、「跳ね人(はねと)」と呼ばれるゆかた姿の踊り子の一団が、踊るというより文字通り飛び跳ねながら練り歩いた後、極彩色の巨大なハリボテ武者人形が、台車の上を左右前後に揺れ、回転し、大見得を切りながらやって来る。「青森ねぶた祭」(8月2~8日)のハイライト、大型ねぶた市内曳行(えいこう)シーンである。
巨大な人形を乗せた台車は20数台にものぼり、怒髪天を突くような恐ろしい形相の武者人形が次々にやって来る迫力は、見物客を圧倒し飽きさせない。
青森県ではその他にも、勇壮な武者絵を扇形の山車(だし)に描いた「弘前ねぷた」(8月1日~7日)、ハリボテ人形の高さが7階建てのビルに相当する「五所川原立佞武多(たちねぷた)」(8月4~8日)などが有名で、どの武者人形も主役は坂上田村麻呂である。
大和の政権が「蝦夷(えぞ、えみし)」と呼んだ人々とは、大和政権に屈服しない東北地方の北部に生活していた部族集団で、現在のアイヌ民族の祖先にあたり、日本列島の先住民である縄文系民族の末裔ではないかと考えられている。
弥生時代、渡来の水田稲作技術はいったん、青森県まで進出したが、その後、弥生系文化・文明は北方では定着せず、古墳時代、大和系の古墳は福島県南部と新潟県新潟市付近を結んだ線より北には進出しなかった。その線より北方を大和の政権は「蝦夷」と呼び、律令体制が強まり「ミニ中華思想」にとらわれた大和政権は「蝦夷征定」を試みるようになる。しかし、当初は激しい抵抗もあって戦線はあまり北上しなかった。奈良時代末でも、最前線は多賀城(宮城県)だった。
桓武天皇から抜擢され戦果
桓武天皇は、794年に平安京に遷都したことで有名だが(その10年前にいったん長岡京に遷都)、遷都の理由の一つが「蝦夷征伐」強化であるとされている。京都は奈良(平城京)よりも東方への移動には便利だった。
791年、桓武天皇は田村麻呂を「蝦夷討伐」征夷副使に抜擢し、彼は794年の遠征で成果を上げて796年に鎮守府将軍に、797年には征夷大将軍に任命されて戦線を北上させ、胆沢(いざわ)城(岩手県)を築城。多賀城にあった鎮守府をここに移転させた。
このとき蝦夷の首長・阿弖流為(あてるい)・母礼(もれ)を降伏させて、2人を平安京に移送した。田村麻呂は2人の助命を嘆願するが聞き入れられず、2人は河内で斬首された。
坂上氏は、飛鳥地方を根拠にしていた東漢氏一族で、坂上氏は武人を多く輩出しているが、東漢氏そのものは西漢(かわちのあや)氏とともに公文書作成などにかかわっていた氏族である。
古事記や日本書紀の執筆にもかかわり、万葉仮名や漢字の「訓読み」を発明したのも東西の漢氏ではないかと指摘する国語学者もいる。漢時代に韓半島に渡った中国系氏族と自称しているが、実際は百済からの渡来氏族である。
田村麻呂の墓京都で特定
その後、彼は蝦夷の地に繋がる京都の東側の入り口を守るかのように、東山山麓に清水寺を建立し近くに住んだ。清水寺の南2㌔に「西野山古墳」があり、1919年に発掘、木棺墓や副葬品などが発見され田村麻呂の墓ではないかとされていた。この度、京大の吉川真司准教授が「清水寺縁起」を文献調査したところ、「西野山古墳」が田村麻呂の墓に間違いないと正式に断定された。
1994年、平安京建都1200周年の節目に、清水寺に阿弖流為と母礼の顕彰碑が建立された。そして、2人が斬首されてちょうど1200年後、田村麻呂自身の墓が特定された。
そこに眠る田村麻呂に、自分が助命嘆願した2人が自ら建立した清水寺に顕彰されていることをどう思っているのか、聞いてみたい。
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銀大国・日本は渡来技術で
石見銀山・博多商人が導入の精錬法…生産、飛躍的に伸びる
石見銀山遺跡に建つ記念碑
世界遺産に登録されたばかりの《石見(いわみ)銀山遺跡》は、16世紀には世界有数の銀山に発展した。その最大の理由は朝鮮から導入した銀精錬法にあった。
この6月、済州島の火山島・溶岩洞窟など世界遺跡がユネスコにより新たに登録された。日本からは島根県の「石見銀山遺跡」が入った。当初は登録が危ぶまれていたが、16・17世紀の銀鉱石採掘中も山に植林を続けていたという「環境配慮への先見性」の指摘が奏功し、世界遺産登録に合格した。
ここでは「環境配慮」ではなく、石見銀山が「世界三大銀山」の一つと呼ばれるまでに大成長した最大の理由に注目してみよう。ここに、「知られざる韓日関係史」の一端がある。産出量が飛躍的に増大した理由は、朝鮮伝来「灰吹法」という銀精錬技術であった。
朝鮮のノウハウ当初から想定か
石見銀山は1526年に博多商人、神谷寿禎(かみやじゅてい)により発見されたとされている。
当時、足利幕府は弱体化し、全国の有力大名が覇を競う戦国時代の真っ只中にあった。中でも西国の有力守護大名・大内氏が商都の堺と博多を支配、幕府に代わって明や朝鮮との貿易を一手に掌握し、大内氏の庇護のもと堺や博多の大商人は貿易により莫大な富を得ていた。一方で、それらの公式貿易とは別に、倭寇による「非合法貿易」も盛んに行われていた。
神谷寿禎は朝鮮貿易を手広く担い、朝鮮で良質の銀が生産され、その精錬技術が当時としては先進的な「灰吹法」であることも熟知していた。堺や博多の大商人は東アジア貿易のネットワークを通して、東アジアだけでなく世界中の情報を最も知り得る立場にいた。
石見銀山も神谷の発見以前から鉱脈の存在は知られていたという説もあり、神谷の石見銀山開発は、初めから朝鮮から灰吹法導入を想定したものであった可能性が高い。
事実、彼は1533年に石見銀山に宗丹、桂寿という灰吹法の技術者を博多から連れて来て、灰吹法銀精錬を日本で初めて実行した。2人の国籍は不明だが、名前から朝鮮人技術者ではないかとも推察される。当時、博多で銀精錬は行われておらず、2人を朝鮮から博多へ移送し、その後、石見へ転送したのかもしれない。
朝鮮では1503年から端川銀山で灰吹法による銀精錬が行われており、石見銀山の稼働以前、東アジアの主要銀鉱山はここだけである。石見へ送られた2人は端川銀山で働いていた技術者である可能性も高い。
一方で、朝鮮の公式歴史書「朝鮮中宗実録」によると、地方役人の柳緒宗という人物が自宅をソウル商人と倭人との密貿易の基地として提供し、そこで倭人に銀を密輸し精錬法まで伝授したとして摘発されている。
その倭人が神谷なのか、銀精錬法を伝授されたのが宗丹と桂寿なのか(だとすれば2人は日本人ということになるが)は確認できないが、灰吹法導入による最大の利益享受者である神谷と、実録に記載されている倭人とは極めて近いところにあると推察できる。
伝えた朝鮮銀山閉鎖の浮き目に
灰吹法導入後、石見銀山では生産量が飛躍的に伸び、早くも1540年代前半にはメキシコとボリビアの各銀山に伍して「世界三大銀山」と呼ばれるまでに生産量が増大した。
日本産の銀は朝鮮や明に洪水のように輸出され、ポルトガル商人によって東南アジアや欧州にまで送られた。
朝鮮では、日本産の銀が大量に出回ることにより、皮肉にも石見銀山に灰吹法を伝えたと考えられる端川銀山が、1542年に何と閉鎖されるはめにおちいった。
朝鮮朝役人と日本の大商人との「癒着」実態は不明だが、朝鮮の先進技術が何らかの方法で日本に伝わり、それが結果的に朝鮮に災厄を及ぼすことになった。朝鮮と日本と間の、様々な文明・文化・技術などの「逆転の歴史」がここにも見られるようだ。
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七夕発祥は大阪・百済の里
機織り女と共に…故国の行事をそのまま移植
飾りつけ日本一といわれる仙台の七夕祭りのにぎわい
織女と牽牛が年に一度だけデートする七夕(たなばた)は、本来は旧暦の七月七日である。新暦では、中国でも韓国でも日本でも梅雨が明けておらず、デートが叶わないことが多い。日本各地の夏祭りが八月初旬に多いのも、旧暦七夕祝いの名残りである。日本の夏祭りの起源の一つともいうべき古代の七夕行事は、大阪府の百済の里(交野市と枚方市とその周辺)から始まった。
天野川原に架かる逢合橋
「狩り暮し 棚機(たなばた)つめに 宿からん 天(あま)の川原に われはきにけり」
平安初期の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)が、天野川のほとりで詠んだものである。天野川とは、夜空に輝く銀河ではなく、大阪府を流れる地上の川である。
川は生駒山地北麓に発し、交野(かたの)市と枚方(ひらかた)市を縦断し淀川に注ぐ。この天野川沿いには、不思議なことに星にまつわる地名や伝説が多い。
交野市南部、私市(ささいち)の天野川対岸を星田といい、ここには星田妙見宮(小松神社)がある。妙見とは北斗七星への信仰である。その北側の京阪河内森駅近くには、天田神社がある。交野市東部の倉治(くらじ)には天棚機比売(あめのたなばたひめ)を祀る機物(はたもの)神社があり、そこから枚方市茄子作(なすさく=現・香里が丘12丁目)の中山観音寺まで一本道が通っている。
中山観音寺は廃寺になっているが、境内跡に残る自然石が牽牛(彦星)とされ、一本道が天野川を渡るところに逢合橋(あいあいばし)が架かっている。また、枚方市の百済寺跡と百済王神社があるあたりを中宮(なかみや)というが、この地名が、北斗七星の中宮(ちゅうぐう)=北極星に由来するとされる。
さらに天野川と淀川の合流点手前に鵲橋(かささぎばし)があるが、カササギは織女を渡すために翼を広げて天の川に橋を架け、愛の橋渡しをする鳥とされている。
七夕は、中国の後漢(西暦25 ~220年)頃の伝説がもとだ。天空の織女星と牽牛星はもともと夫婦だったが、織女が機織りを怠って天帝の怒りに触れ、夫婦星は天の川の両岸に引き離される。後に年に一度、7月7日の夜、カササギの翼を広げて橋とし、織女はそれを渡り夫に会うことを許されたというものである。
これが宮中で行われていた、少女が裁縫や文筆の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」の行事と結びつき、韓半島や日本へと伝わった。
平安時代から伝わる京都の冷泉家では、今でも旧暦七月七日に「乞巧奠」儀式を行っている。このように、七夕伝説は機織りの技術と密接に結び付いている。
韓半島の徳興里壁画古墳(高句麗・409年築造=現・北韓南浦市)には織女と牽牛が描かれており、5世紀はじめにはすでに七夕が行われていた。日本で七夕行事が行われたと分かるのは734年(聖武天皇天平6年)からだが、それ以前、機織り女(技術)渡来とともに七夕行事も渡来したと考えるのが自然だろう。
王族の根拠地交野と枚方市
『日本書紀』によると、応神紀14年(5世紀初頭頃か)「百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)真毛津(まけつ)を奉った。これがいまの来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である」との記述があり、これが機織り女(技術)渡来の始めとされる。ここに百済王とあるが、日本渡来の百済王族の根拠地が、交野市と枚方市なのである。
日本列島に渡来した百済王族は大きく3つのグループがある。ひとつは武寧王の流れをくむもので、6世紀に渡来し、日本では和氏(やまとうじ・わうじ)と名乗った。その血脈の和乙継(わのおとつぐ)の娘・高野新笠が桓武天皇の母親であり、和氏の根拠地が現在の交野市である。
ふたつ目は、天智朝の頃(7世紀前半)に渡来した余自信(よじしん)など、「余」という名前を有しているグループ。そして三つ目が、百済滅亡後(660年)に渡来した百済王(くだらのこにきし)氏である。
枚方市の百済寺や百済王神社は、このグループに由来する。交野市・枚方市では第一グループと第3グループが重層し、まさに《百済の里》そのものである。ここでは百済そのままの七夕行事が古くから盛大に行われ、在原業平が歌に詠むほどに《星の里》としても有名だった。
(2007.7.25 民団新聞)