ドキュメンタリー『アート・オブ・コンダクティング』
神々しい英雄か、
それとも蝦蟇の油売りか
625時限目◎音楽
堀間ロクなな
指揮者の仕事とは一体なんだろう? オーケストラの演奏会を目にした者は、こちらに背を向けて両手を振りまわしている存在にだれだって首をひねるに違いない。
そうした疑問に対して、わたしの知るかぎり最良の回答を示してみせたのがドキュメンタリー『アート・オブ・コンダクティング』だ。第二次世界大戦をはさんで約70年にわたる指揮者16名の映像記録と関係者のコメントによって構成されたこの作品は、もともと1993年にBBC他のテレビ放映を目的としたものだったが、のちにパッケージ商品化されると日本のレコード・アカデミー賞を受賞するなど各国で好評を博した。
ここには、伝説的な指揮者ニキシュが催眠術をかけるようにタクトをふるう様子(1913年、サイレント)からはじまって、直立不動で軍隊を一糸乱れず行進させるかのようなワインガルトナー(1932年、ウェーバー作曲『魔弾の射手』序曲)、操り人形のごとく全身をギクシャクさせながら音楽の本流を生みだすフルトヴェングラー(1947年、ワーグナー作曲『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲)、リハーサルで八分音符の刻みだけをえんえんと繰り返すバルビローリ(1965年、ブルックナー『交響曲第7番』)、オーケストラをじろりと睨んだ目つきだけで統率してみせるライナー(1961年、ベートーヴェン作曲『交響曲第7番』)、逆に目を閉じてひたすら自己陶酔に沈潜するカラヤン(1966年、ベートーヴェン作曲『交響曲第5番』)……といった、いずれ劣らぬ個性まるだしのパフォーマンスが映しだされていく。
それら往年の指揮者たちはわたしの目には神々しい英雄のように眺められて、ときの経つのも忘れてしまうのだが、ふとわれに返ると、何やら騙されていた気もしてくるのである。どこか蝦蟇の油売りの大道芸のように。実のところ、指揮者が自分ではひとつの音も出さず、オーケストラの演奏者を意のままに操ってつくりあげた音楽をみずからの芸術とするのには、どこか詐欺師めいたいかがわしさがまとわりついていないだろうか?
そのあたりについて、映像のなかでブルーノ・ワルターはこう語っている。「楽器演奏者は幼いころから自分の楽器を使って勉強しテクニックを磨きます。でも、指揮者はそうはいきません。指揮者の『楽器』は百も頭のある『ドラゴン』ですから、とうてい思うようには扱えず、それを克服するには何年も経験を積み重ねていくことです。指揮の課題は『人をどう動かすか』。それには指揮者の人間性が大きくかかわっています。心温かく誠実な人柄なら、演奏者はたとえ音楽的には自分のほうが上でも素直に耳を傾けるでしょう」。このあとワルターのリハーサル風景(1958年、ブラームス作曲『交響曲第2番』)が映しだされ、ただ「エスプレッシーヴォ(表情豊かに)」と「シング(歌って)」の指示だけでオーケストラを温かく包み込んでいって、かれの言葉を実証してみせる。
しかし、続いて登場するオットー・クレンペラーは、「ワルターは善意にあふれたモラリストだが、わしは違う。絶対に!」と断言する。そして、リハーサルでは指揮台をバンバン叩きつけながらオーケストラに向かって「わしの言ったとおりにやれ!」と怒鳴り散らすありさまが映しだされて、やはりかれの言葉を実証してみせる。だが、そのかれが右半身麻痺の不自由なからだでベートーヴェンの『交響曲第9番』を演奏するシーン(1964年)にかぶせて、スヴィ・ラージ・グラップ(レコード・プロデューサー)はつぎのようなコメントをつけている。
「音楽がどうやって人の心に訴えるか、それは他の芸術と同じです。すべての人間はある意味で孤独な存在であり、自分の殻を破れません。ある演奏を聴いて、それに深い共感を覚えることがあります。あたかも音楽がこう囁くように。『きみは独りじゃない、私がいる』と」
孤独なのは自分だけではない、そのことを音楽をとおして伝えて励ますために指揮者はタクトをふるっているというのだ。確かに、クレンペラーがオーケストラと対峙した背中の孤影は雄弁にそれを物語っていたのである。指揮者がときには神々しい英雄のようにも見え、ときには蝦蟇の油売りの大道芸のようにも見えるのは、われわれが抱え込む孤独という宿命と向きあう仕事のせいなのかもかもしれない。このドキュメンタリーはそんなふうに教えてくれている。もっとも、とわたしはもう一度首をひねりたくなる。今日の現役指揮者のどれだけがこの仕事をこなせているだろうか?