「宇田川源流」【土曜日のエロ】 政界における不倫という話し
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 政界における不倫という話し
今週も「土曜日のエロ」の日になった。今週話題になったのは、一つは今日エロ恩法だ使う「玉木雄一郎国民民主党代表の不倫疑惑」である。まあ、この内容は本日ブログの後半に様々に「私の個人的な話」も含めて書いてみよう。
もう一つは、今度の国会運営であろうか。何しろ11日に第二次石破内閣が少数与党として発足してしまったがために、国会の委員長のポストを7つも野党に明け渡しているということになる。特に、衆議院予算委員会の委員長を立憲民主党の安住淳議員が担当するということになった。このことで、衆議院の予算委員会では予算をしっかりと審議する場所ではなく、自民党のスキャンダルを主に議論する場所になってしまったということになることは必至である。そもそも予算委員会や議事運営委員会など審議日程や審議内容を左右する重要ポストに関して、与党が関与していないなどちうことは前代未聞であり、全く訳が分からない状態になっている。逆にそこまでして内閣総理大臣というポストにしがみつきたいのかというような「哀れな目」が向けられる結果になっている。
しかし、この状態で「辞任必至」などと報道している人々は、あまりにも何もわかっていない。現在の少数与党ということは、国民民主党を合わせた野党が結束した場合、内閣不信任案をすぐに出すことのできる状態になっていると言ことになる。そのことは、「総辞職」だけでなく「解散総選挙」の事由でもあるのだ。
つまり「解散総選挙が近くなった」というような見方も少なくない。解散は内閣総理大臣の大権であり、他の人々がいかに行っても内閣総理大臣だけが実行することのできる権利である。今回もその権利で解散総選挙を行ったということになるが、石破茂氏の性格上、「自分だけが総辞職をするのではなく、自爆型の解散総選挙を行う」という可能性が見えてきたのではないか。ある意味で「内閣総理大臣による解散テロ」がいつ発動するかわからないということになる。どうせ少数与党なのであるから、そのようなことは全く関係ないというような感覚になるのではないか。
さて、そのような内閣の「閣外協力」の強い見方が国民民主党である。しかし、その代表である玉木雄一郎に不倫スキャンダルが浮上した。
<参考記事>
「え?不倫は良いんですか??」今井絵理子の内閣府政務官起用、玉木氏の代表継続が波紋
2024年11月13日 17時40分女性自身
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12268-3560155/
<以上参考記事>
そもそも政治家というのは、「性事家」といわれるほど下半身にはあまり頓着しない状態になっている。そもそも昭和時代までは「下半身に人格無し」といわれ下半身スキャンダルを報道することは「禁止するという不文律」があった。これは、「男尊女卑」などという話ではないので、現代の人々は誤解しないでほしいのであるが、「英雄色を好む」という話であり、そのことから、「下半身スキャンダルなどを問題にするよりも、しっかりと政治を行い、国を正しい方向に導くことのできない政治家を糾弾すべき。国会と政治の報道はスキャンダル報道とは異なる。」というように厳しく私などは先輩に言われていたものである。しかし、その風潮が異なったのは宇野宗助首相の神楽坂千代菊事件からであり、その事件があったことから神楽坂の料亭で遊ぶ人はいなくなり、神楽坂は一時死滅寸前になっていたのである。
さて、「芸能人は体を見せる商売」といわれ、「河原者」という差別用語で昭和時代までさげすまれてきた。実際に、河原者というのは、旅芸人など「定住文化のない人々が、まともな場所で園芸などを披露できず、河原に仮小屋を建てて生活していた」ということからそのように言われていたことであり、芸能人の総称であった。他の河原に住んでいるものは、まさに「ヨタカ」であり、いずれも「身体を売る商売」であった。要するに「芸を見せる」というのは体の隅々までが商売道具であるというイメージがあったのである。そしてそれがテレビなどがない時代には売春などの温床となっていた。ある意味で、芸能事務所が力を持った後、そのようなことが無くなったというように言われている。しかし、逆に芸能人になるには資格試験などもいらないし、性格の判断などもない上に、若いうちからきれいだといわれ、そのうえで、「多額の金銭をもらって金銭感覚までマヒする」状態になってしまうので、どうしても、「価値観が異なる世界に入ってしまう」場合が少なくない。
このような「昭和の政治」と「昭和の芸能界」を考えれば、今回の玉木代表の件も、そして同じように出された元「スピードの今井議員」の話も同じように「芸能と政治の交差する場所で出されたスキャンダル」ということができるのである。
同時に、そのような価値観があったので、「政治家」と「芸能人」に「倫理観」や「道徳観」を襲着けることはなく、「あの人々は若い時から違う価値観で生きている」というある種の区別意識が存在していたと考えるべきであり、その為に昭和の時代は、そのような政治家のスキャンダルがまったく問題にならなかったのである。
さて、玉木雄一郎と、私は、同じ昭和44年5月1日生まれで今年55歳である。
ある意味で1969年生まれで、昭和の時代に高校三年生まで育った世代であり、最後の昭和価値観世代といえる。それだけに、「初老」と言いつつ「昭和価値観でなんとなく進めてしまう」ので、なんとなく、「なんの示し合わせもしていないし、特に親しいわけではない」が同情してしまう部分がある。それが、今の私の内容なのである、同時に、私など最近では誰も相手にしてくれないので「うらやましい」限りである。ただし、私ならば、39歳よりももう少し若い女性がよいかもしれない…と好みの話をしても意味がないが、まあ、そのような感覚になってみてしまう。
どうしても「スキャンダル」といえば「どんな相手なのか」ということが見えてしまい、なかなか面白いことである。しかし、「性欲が衰えていないということは、まだまだ仕事ができるという事であろう」というように考えるのである。
「よく遊び、よく学べ」という標語があるが、まさに「よく遊べる人こそ、良い仕事ができる」モノである。まあ、今回結果的にはあまり良い女ではなかったが、スキャンダルが出て、本当の政治家としての価値は、これからの政治の結果によるのではないか。
我々は「政治は、スキャンダルよりも政策的結果である」と考えるべきではないか。それは今回の玉木の件だけではなく、他の下半身スキャンダルに関しても同じであると思う。