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あざみの歌

2024.11.15 05:48

https://blog.goo.ne.jp/yama1411/e/7aba2894451aa13ab6e7543ebfa7952f 【花の詩「アザミ(薊)」】より

[花言葉]:独立、厳格、復讐、満足、触れないで、安心。

『薊の花も一盛り』(あざみのはなも ひとさかり)という言葉がある。

 これは、「器量のよくない女性であっても、年頃になるとそれなりの魅力や色気が出るものだ」という喩えとして使われた言葉のようだ。

こんな言葉はもう死語となっているだろうし、現代ではもはやセクハラの疑いを受ける言葉でもあろう。

 アザミはその喩えのごとく愛される美しい花として受け止められていなかったということなのだろうが、数年前、乗鞍岳へ写真撮影旅行に出向いたとき、白樺林を背にした一輪のアザミが目に留まった。それは楚々としてまた凛とした姿が鮮烈に目に焼き付いた。その魅力、魔力に魅せられ引き寄せられるかのように私はカメラのシャッターを切った。

 こんな切ない歌がある。読者の方々もよくご存じだろう。

「山には山の愁いあり  海には海のかなしみや  ましてこころの花園に

咲きしあざみの花ならば

高嶺(たかね)の百合のそれよりも 秘めたる夢をひとすじに くれない燃ゆるその姿

あざみに深きわが想い

いとしき花よ 汝(な)はあざみ こころの花よ 汝はあざみ 

さだめの径(みち)は果てなくも 香れよ せめてわが胸に」

 そう、「あざみの歌」である。この歌、私は大好きで若かりし頃の十八番の歌で、歌手気取りで朗々と歌っていたものだ。

 あざみを直接挿入した詩ではないが、建築家・立原道造氏がうたったものがある。

『薊の花のすきな子に』

「風は 或るとき流れて行った  絵のやうな うすい緑のなかを

ひとつのたつたひとつの人の言葉を はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

ありがたうと ほほゑみながら 開きかけた花のあひだに 色をかへない青い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた 気づかはしげな恥らひが そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた… 何もかも あやまちはなかつた

みな 猟人も盗人もゐなかつた ひろい風と光の万物の世界であつた」

 薊は葉や総苞にトゲが多く、頭状花序は管状花のみで作られていて、花からは雄蘂や雌蘂が棒状に突き出し、これも針山のような状態となる。花色は赤紫色や紫色をしている。

 芽吹き育ちはじめたころは根出葉があり、次第に背が高くなり、茎葉を持つが、最後まで根出葉の残る種もある。草原や乾燥地、海岸などに出るが、森林内ではあまり見かけない。別名刺草。名前の由来は、アザム(傷つける、驚きあきれる意)がもとで、花を折ろうとするととげに刺されて驚くからという説がある。

 それ裏付けとなる一説が、沖縄の八重山地方で、とげを「あざ」と呼ぶことから「あざぎ」(とげの多い木)と呼ばれ、それが転じて「あざみ」になったとか。

[俳句]

「富士に在る花と思えばあざみかな」(高浜虚子)

「花は賎のめにもみえけり鬼薊 芭蕉(詞林金玉集)

「石原やくねりしまゝの花あざみ」(白雄「白雄句集)

[和歌]

「口をもて 霧吹くよりも こまかなる 雨に薊の 花はぬれけり」(長塚 節)

「あざみ草 その身の針を 知らずして 花とおもいし 今日の今まで」(作者未詳/続鳩翁道話)


https://ameblo.jp/noriko-r0/entry-12825965099.html 【6 新  (詩 橫井弘 / 曲 八洲秀章)】より

山には山の 愁(うれ)いあり  海には海の 悲しみや   ましてこころの 花ぞのに

咲きしあざみの 花ならば   

高嶺(たかね)の百合の それよりも  秘めたる夢を ひとすじに  くれない燃ゆる 

その姿   あざみに深き わが想い

いとしき花よ 汝(な)はあざみ  こころの花よ 汝はあざみ

さだめの径は 涯(は)てなくも  香れよせめて わが胸に

詩の意味

1連

山にも海にも憂い悲しみはあるだろうけど、僕の心に咲いているあざみにはもっと深い悲しみの思いがある。

2連

高い嶺に咲いている高貴な百合の花の美しさより、質素だけどくれないの色に咲くあざみに、僕の秘めたる思いがある。

3連

愛しい花よ、それはおまえ、あざみ。

心の花もまた、おまえはあざみ。

この世のさだめは厳しく、添えることはないけれど、せめて心の中でだけは薫り高くいてくれ。

「さだめの径は涯なくも」を考察

理想の女性像をあざみの花にだぶらせて歌っている歌だ、と解釈する意見をあちこちで目にしますが、ただあざみの花を見て僕の理想の女性のイメージの花だなぁ、と詩を書いたとしたら、最後の「さだめの径は涯なくも 香れよせめてわが胸に」の解釈ができないと思うのです。

さだめの道は<果てなくも>ではなく、<涯てなくも>とした漢字が気になります。

ただの終わり、果ててしまった、ではなく、もっと厳しい終わり、断崖のイメージが含まれている気がするのです。

それほどに厳しい<はて>とは、戦争で終わらされてしまった、二度と会えなくなってしまった人への思い、と解釈したいのです。

<せめて、僕の胸の中で香り高く咲いていてくれ>、との切ない思いは、やっぱり戦争のような厳しい現実があってこそ、「径が涯ててしまった」、と解釈できるかと思います。

詩の解釈はある程度、読み手にゆだねられますが、私は、戦争で添えなくなった人への歌だと解釈して歌っています。

詩の3連目は詩人の心

すべてとは言えませんが、3連目に詩人の心が歌われているケースが多いようです。

そう思っていろんな詩を見てみると、当てはまる場合がたくさんあります。

「あざみの歌」の詩もまた、3連目に詩人の深い心が込められています。

        3連目に詩人の心が歌われている例を2つ

  赤蜻蛉     三木露風 詩

夕燒、小燒の/あかとんぼ/負はれて見たのは/いつの日か。            

山の畑の/桑の實を/小籠に摘んだは/まぼろしか。           

十五で姐やは/嫁に行き/お里のたよりも/絶えはてた。           

夕やけ小やけの/赤とんぼ/とまつてゐるよ/竿の先。

  この道     北原白秋 詩

この道はいつかきた道。/ああ、そうだよ、/あかしやの花が咲いてる。  

あの丘はいつか見た丘、/ああ、そうだよ、/ほら、白い時計台だよ。     

この道はいつかきた道、/ああ、そうだよ、/お母さまと馬車で行ったよ。

あの雲はいつか見た雲、/ああ、そうだよ、/山査子の枝も垂れてる。

詩の誕生

昭和20年に戦争から復員して帰ってきた横井弘が、長野県霧ヶ峰にある八島ケ原湿原(八島高原)に疎開していた時、高原に咲くあざみの花を見て書いたものです。

この詩人、<豪華でも、高貴でもなく、雑草のけなげさ>、を持つあざみのような女性がもっとも素晴らしいと思っていたようです。

歌の誕生

昭和21年(1946)に始った NHKの<ラジオ歌謡>からは、さまざまなヒット曲が生まれていますが、この歌も昭和24年8月8日から放送されヒットしました。

<ラジオ歌謡>でヒットした歌の数々は現在もまだ色あせることなく歌われているものがたくさんありますので、数曲あげておきます。

朝はどこから/山小屋の灯/夏の思い出/

雪の降る街を/さくら貝の歌/森の水車/

白い花の咲く頃/山のけむり   等々

後日談

下諏訪地方の温泉『みなと屋旅館』の主人・小口惣三郎さんが、橫井が何度か『みなと屋旅館』に泊った時に、横井から「あざみの歌」の話を聞き、それで、「あざみの歌」の故郷がここだとわかって、まずは、歌碑を建てる運動を起されたそうです。

八島湿原のわきに歌碑が建てられ、毎年5月頃の山開きの折には登山する人と関係者と全員で、あざみの歌を歌われますとか。

<地元の歌>というのは、町を活性化させますから、きっと登山に訪れる人も増えたのではないでしょうか。

蛇足の笑い話

私は小さい頃からとにかく歌が好きで、日がな一日歌っている子でした。

姉や母から教えてもらった歌、学校で習った歌を大きな声で、きれいだなぁ、と一人悦に入って歌うのです。

その内楽譜が読めるようになると、音符の下に書いてある ひらがな の文字だけで気持ちよく歌っていました。

意味など考えもせず。(^^;)  というか、わからず、かな。

「あざみの歌」はいつ頃覚えたのか、はっきり思い出せませんけれど、「たかねのゆりのそれよりも」、ってところで、いつも不思議な歌だな、と思いながら歌っていました。

・・・昔は百合が高かったのかなぁ?・・・と。

確かに、戦後の頃は、百合は花の中で最も高貴な立派な花、とされていたのですけど、それにしても、歌になるほど高いんだ!・・・と思っていたのです。(^^;)

でも、後に日本歌曲を専門にするようになったときに、文学の詩をまず鑑賞するようになって「たかね」って、「高嶺」、峯(みね)のことなのね、「高い値」じゃなかったのね・・・と知って一人で恥ずかしくなりました。

子供の頃歌っていた歌は勝手な思い込みで歌っていることが多いようです。

皆さまには変な思い込みで歌っていた歌はありませんか? (^^)

やっぱり歌曲ってすてき

https://www.youtube.com/watch?v=OdFhBWXXevY&t=41s

https://sf63fs.hatenadiary.com/entry/2020/10/12/114713 【♪ 「あざみの歌」】より

(略)

この歌を知ったのは、高校に入ってからだと記憶しています。歌に興味が向いてきた頃でした。高1の時の担任が音楽の先生で、しかも声楽がご専門。

長年にわたり、各地の第9合唱団や一般合唱団の指導を務めてこられた坂下功一先生でした。

その頃の授業は、鑑賞か理論か歌唱(独唱、斉唱)が主で、合唱の体験はなんと大学に入るまでありませんでした。

1学期末のテストももちろん独唱で、何の歌か忘れましたが、坂下先生から「藤原よ、おまえ音楽部(コーラス部)に入らへんか?」と誘われたときは、正直うれしかったのを覚えています。※部の登録は新聞部でしたが、幽霊部員!

ただ、当時は女子部員ばかりで、「女の園」に一人飛び込む勇気のあろうはずもなく、3学期に、中学と同じく吹奏楽部に入ってしまいました。

しかし、まあ不思議なもので、勧誘を断ってから11年後に私は母校に転勤し、その音楽部の顧問(吹奏楽は副顧問)を以後9年間務めることになりました。

話が横道にそれましたが、この歌にはちょっぴり甘酸っぱい思い出もありまして・・・。

それは、高2の秋の南九州への修学旅行のときのことでした。

たしか、宮崎交通の観光バスだったと思いますが、まだ入社してそれほど経っていないガイドさんが、九州地方の民謡を始め、いろんな歌を唄ってくれた中に、この「あざみの歌」がありました。ハスキーな声の持ち主でした。

私はそれまでに、主に我が家の風呂場でしたが(笑)、この歌をよく練習(?)していたものですから、観光バスの中で次々に歌の指名が回ってきたときに、(ガイドさんが歌ってから少し時間は経過していたでしょうが)、失礼にも、この「あざみの歌」を歌ったのです。

歌い終わったときに、斜め前の席に座っていたC子さん(旧姓が私と同じで、吹奏楽部でクラリネットを吹いていました)が「私、その歌気に入ったわ!」と言ってくれました!!

(可愛い顔に似ず、ストレートな物言いをする人でした)

ただ、その後の高校生活の中で、C子さんと何があったわけではありません。同じクラブの部員というだけでした。

大学3年の時でしたが、高2のそのクラスだけのクラス会があり、C子さんが短大を出て栄養士として、県の給食センターに勤めているということがわかりました。

その給食センターが私の住む地区のはずれにあり、そんなこんなで(途中経過は省略ですが)、その後半年あまりお付き合いさせていただいたことがありました。

といっても、中国地方の某大学に行っていた筆者とは、主に文通(懐かしい響きですね!)で、春休みに映画(「青春の門」)を観に行ったり、土曜の午後に喫茶店で逢ったりしたぐらいの仲でした。

下宿のおばさんは、頻繁に来る郵便も差出人が同じ名字なので、「家族からだろう」とあまり気にしていなかったように思います。

(携帯のない時代は、なかなか今の方にはわかってもらえない気苦労がありました(;。;))

(別府から阿蘇に向かう途中「やまなみハイウエイ」を通りましたが、それ以外の所では、道路が未舗装で道がかまぼこのようなところもありましたね。)

その後は、同窓会で二三度一緒になったぐらいで、昔話をしたことはありませんでした。

卒業後45年が経過した昨年春の同窓会では、幹事から「藤原君に校歌の指揮を頼む」といわれて、恥ずかしながら20年ぶりぐらいに棒(テーブルの上の菜箸だったか?)を振りました。

あとで、C子さんが「藤原君の指揮は47年ぶりやわ」と声をかけてくれました。

47年前の車中のことが思い出された瞬間でもありました。

今回は、40数年前のほろ苦い思い出を長々と書き綴ってしまいました。

肝心の歌の由来などは、次回にしたいと思います。