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江戸純情派「チーム江戸」

<江戸グルメ旅>練馬大根と犬公方綱吉 ②

2024.11.16 07:25

<犬公方綱吉編>延宝8年(1680)5月8日、4代家綱は世継ぎがいないまま、後継者を指名しないまま40歳で病没した。家光の第3子綱重は毎晩の深酒がたたって既に亡くなっていた為、その遺児綱豊(当時19歳)が、徳川政権安定期ならば長兄(系)相続で、当然5代将軍綱豊が誕生するはずであったが、開府から幕府は関ケ原の戦いのツケを取り戻そうと、諸藩、特に西国大名たちに問題を押し付け、改易、取り潰しになった大名家は100家近くに上っていた。その結果として職を失った浪人たちは江戸はおろか全国に満ちあふれていた。こうした事情でこの世継ぎ問題は揉めに揉めた。4代家綱に仕え政権を欲しいままに動かし、下馬将軍とまで呼ばれた酒井忠清は、家綱亡き後も引き続き政権の一翼を担うことを画策、朝廷との摩擦を和らげるという大義名分をあげ、鎌倉幕府に倣って京より皇子を呼び寄せ、傀儡政権の成立を目論んだ。これに真っ向から反対したのげ、当時老中末席であった堀田正俊である。正俊は家光第4子である綱吉の正当性を説き、死ぬ間際であった家綱の誓紙を取り付け、末弟である上野国(栃木県)館林藩25万石領主綱吉を、徳川5代将軍に据えた。

 綱吉は館林にいた頃、食生活の不摂生から「脚気」になった。野菜や雑穀などを取らず白米飯の美食からくるビタミンB1不足による機能障害である。多くの田舎の子が江戸に住む来て奉公人となって、食生活が雑穀から白米に変わると脚気になった。故に脚気は「江戸患い」ともいう。身体にむくみが生じ悪性化すると、14代将軍家茂もこれに罹り若くして死んだ。綱吉は健康面では気を配ったとみえ、陰陽師の占いを聞き信じて練馬に移住、ここに尾張より取り寄せた大根を栽培させ、これを食して摂生に努めた処、脚気の症状が緩解したという。これにより練馬で育った大根「練馬大根」はメジャーとなった。練馬の台地は関東ローム層に覆われているため、土壌が柔らかく根の長い大根の栽培に適した土地である。この地で育てられた大長大根は、沢庵用や生でおろしたり、飢饉に備える救荒作物用として、切干大根としても加工され保存された。大根は食生活において、重要な農作物であった。さて、西武池袋線石神井公園駅から北東へ向かうと愛染院という艶っぽい名のお寺がある。この寺の参道には「練馬大根碑」が建っており、その礎石は沢庵用の漬物石、鐘楼の石垣も漬物石で積まれている。練馬の土地と大根の結びつきがここでも立証されている。尚、石神井は社宮司、三宮司とも書き、しゃくじい、しゃくじとも読む。昔々、村人たちが井戸を掘ったところ霊石が出土、これを石神として祀ったこと事が地名の由来となっている。この石神信仰は信州諏訪が発祥の地で、古代から中世にかけての土地の神様への信仰ではないかと思われている。(柳田邦男 地名の研究)

 鎌倉末期、石神井城を築き、豊嶋郡野方領練馬の土地を支配した豊嶋氏は、文明9年(1477)太田道灌によって滅ぼされた。江戸期になるとこの地域を流れていた石神井川は暴れ川の異名をとり、三宝池と石神井池を水源として渓谷を作りながら王子まで流れ込み、地域の農民たちはその豊かな水を利用して、大根、麦、そば、牛蒡、芋類などを栽培していた。川は現在ではそのまま直進して隅田川に流れ込んでいるが、江戸の頃は王子で右に折れ、不忍池、お玉ヶ池を結んで小網町、堀留界隈で江戸の海に流れ込んでいた。家康は江戸入府後、この石神井川の上流中流部分を埋め立て、下流部分を堀割りとした。通常、江戸の堀割りは「埋め残し」といって、低湿地を埋め立てる際に、縄張りをして水路となる部分を少し掘り下げ、その土を両脇に埋め立て土地を造成していく工法をとる。石神井川は全く逆転の発送で水路化された。伊勢町堀跡、堀江町入り堀跡は石神井川の、日本橋堀留の地名はその土地の名残りである。

 延宝8年、7月18日綱吉5代将軍の座に座った。11月柳沢吉保を登用。この年は関東地方が大凶作となり米価が高騰した。滑り出しから難問山積であった。翌天和元年(1681)2月、大老酒井忠清が退職、死亡した。綱吉はその死亡原因を探ろうと、忠清の墓を掘り起こしたが何も解らなかった。綱吉らしい行動である。貞享元年(1684)今度は綱吉を祀り上げてくれた大老堀田正俊が若年寄稲葉正休によって殿中で殺された。その稲葉も現場で殺されたため、死人に口なしで動機は解らず仕舞いであったが、綱吉の策謀であると囁かれた。目の上のたん瘤となった正俊の排除して、側近政治体制の確立を画策したものと思われた。翌2年、最初の「生類憐みの令」が発布された。この法令は生きとし生ける物を相憐れむことを趣旨とし、赤子、障害者、動物などの保護を目的とし、儒教の教えを世に広めるための法であった。しかし、綱吉の偏執的な偏った考え方、妄想により、お犬様を異常に大事にし、これを犯すものは厳罰に処せられた。江戸幕府を通じての悪法と云われたこの法令は、綱吉が死ぬまで足掛け15年、延々次々と発布され、江戸に住む四民は多大な精神的、肉体的犠牲を長年に渡って強いられた。元禄元年(1688)柳沢吉保を側用人に登用、歪んだ政治体制は強められ、8年には人間様の住まいが相変わらずの陽もささないナメクジ、どぶ板長屋であったにも拘わらず、お犬様専用の小屋が江戸郊外中野に作られ、この維持、管理に多大な幕府予算が費やされた。先のOlympicで無用とも云える施設が作られ、その維持に子供、老人たちに回されるべき都税が浪費されている昨今と同じ構図である。こうした状況のもと、一方で幕府は庶民に対し衣服を制限、酒屋に運上金を課し、数回に渡って倹約令を出した。江戸市民はこうした矛盾した政策に常に不満を抱いていた。江戸の言葉を借りるなら「てやんでぇべらぼうめ、こちとらだって人間様だぁ、喰うものをろくに腹いっぺぇ喰えず、毎日真面目に働いているでぇ。それを何だぁ何もしねぇで1日中グダグダと遊び回っているお犬様とやらが、何だぁお住まいだぁお食事だって、ちゃんちゃらおかしいや、そんなのこっちから願い下げだぁな、おとといきゃがれ」と、江戸に住む住民たちはキレにキレまくった。

 綱吉治世下では、46の大名が改易若しくは減封、1297名の旗本・御家人が処罰された。その理由は勤務不良が408名、故ありてが315名、故ありてと訳の分からない恣意的な人事が常に横行していた。こうした情勢の中、美作津山藩や丹後宮津藩、出石藩で一揆が発生した。また、奥州飢饉、元禄地震、浅間山噴火と天変地異も相次いだ。世の人々はこうした天変地異は天罰であり、世を治める主君(綱吉)の徳がないためだと囁きあった。こうしたなか、元禄14年4月(1701)江戸城松の廊下で刃傷事件、翌15年12月、赤穂浪士が討ち入った。綱吉、吉保ラインの政治体制に鬱積していた江戸市民は、彼らに大喝采を送った。綱吉、吉保の2人はこの事件の不始末が、江戸雀の口端にのることを恐れ、翌15年2月、ろくに審議を尽くさぬまま46士全員に切腹を命じた。また、刃傷事件と同じ失敗を繰り返した。老耄に陥った綱吉はこのことを常に気にしていたが、それ以上に彼の頭を悩ませてたのは世継ぎの問題であった。天和3年(1683)愛妾お伝の方が生んだ男子徳松が死去して以来、沢山の側室を設けたが子に恵まれなかった。その血を継ぐのは紀州大納言徳川綱紀教に嫁いだ鶴姫だけであった。6代将軍に目されたのは、その綱教と綱吉の兄甲府宰相綱重の遺児綱豊、家康からの直系血筋からみれば綱豊、しかし、綱吉は娘婿の綱教にこだわった。わが娘に御台所の名を与えたかったのである。親としては当然の考えであった。側近吉保もこれに乗った。これが吉保にとって人生最大の大誤算となる。吉保の命運は尽きた。宝永元年(1704)4月、鶴姫は麻疹(はしか)に罹り29歳で急逝、夫綱教もこれに感染してその後を追った。綱吉、吉保2人の全ての夢は終わった。同年12月、甲府宰相綱豊は将軍後嗣として江戸城西の丸に入り、名を家宣と改め6代将軍を継いだ。宝永6年(1709)1月綱吉死去、あの悪法「生類憐みの令」は廃止された。さて次回<江戸瓦版>12月号は、綱吉、吉保ラインが汚名を残した「忠臣蔵の世界」47番目の浪士、寺坂吉右衛門をお送りします。続いて年末年始は 読書諸君諸譲も決して嫌いじゃない「日本酒」の話あれこれです。お楽しみにです。<チーム江戸>しのつか