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かるかや物語

2024.11.16 07:31

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/02-40_kouyasan.htm 【『高野山物語~刈萱』あらすじ(こうやさんものがたり~かるかや)】より

【解説】

 父の苅萱道心(かるかやどうしん)と母の千里(ちさと)、その子石童丸をめぐる親子の悲劇の物語。今も高野山中にある苅萱堂に伝わり、説経節、浄瑠璃、歌舞伎などの作品として演じられる。

 道心と石筑前国の武将、加藤繁氏(しげうじ)は、妻がありながら千里という美しい姫と恋に落ち、石童丸という子をもうける。嫉妬した妻は千里を殺そうとするが、これに巻き込まれて2人が命を落とす。世の無常を感じた繁氏は出家して高野山に登り、苅萱道心と号する。恋しい父親を捜して息子である石童丸は、母とともに旅に出る。父は高野山にいると知ったが、高野山は女人禁制である。母を麓の宿において石童丸が一人で山に登る…。

【解説】

 今から850年前の平安時代の話。加藤繁氏(しげうじ)は筑前博多の守護職で、桂子(かつらこ)という奥方がいる。ある日、領内見回りの際の途中で突然激しい雨が降ってくる。一軒のあばら家に入ると、そこには千里(ちさと)という美しい姫君と、姫のかつての父親の忠臣で朽木祐保(くちきすけやす)という者がいた。姫君の美しさに心を奪われた繁氏は、度々この家を訪れ、千里とはいつしか割りない仲になる。千里は繁氏の住む刈萱(かるかや)の邸宅に迎えられ、やがて懐妊する。

 これに奥方が激しく嫉妬し、暗殺をするよう早足(はやたり)に命じる。しかし早足は千里を前に刀を抜かず、この邸を立ち去って無事に子を産んでくれるよう進言する。すると自分の首を奥方の前に差し出して貰いたいと、祐保は自ら切腹し早足がこれを介錯する。また千里の腰元の呉羽が自分を姫君の身代わりにしてくださいと言い、自らの喉に刀を差し息絶える。

 自らの罪深さを悟った繁氏は筑前を去り紀州・高野山へと出家する。また千里は伯耆国・大山寺(だいせんじ)で無事元気な男の子を出産する。この子は石童丸と名付けられた。寺の住職から教育を受けながら、石童丸は大変に利発な子として育つ。

 14歳の時、石童丸は父親に会いに行きたいと言う。風の便りに繁氏が出家していたことを知っていた千里と石童丸の母子は高野山を目指す。目前まで来たところで、女人禁制との理由で高野山の麓の旅籠で母親・千里は1人待つことになる。長い旅路の間、千里は病に罹り寝込んでいる。

 石童丸は幾度も高野山に通ううちに奥の院でついに今は僧侶で刈萱(かるかや)道心となっている繁氏と出会う。しかし顔を知らない石童丸には彼が父親だとは分からない。一方、繁氏は石童丸の話からこれこそ我が子と知るのであった。だが繁氏は出家した身であるからと自分が父親であるとは明かさない。繁氏は「お前さんの父親は2月前に死んだ」と偽りを言って無縁仏の墓を参拝させ、石童丸に食事をさせてから母親の元へ帰す。山を降り旅籠へ戻ると母親の千里はたった今、病のため亡くなったところであった。母親の手をしっかり握りながら涙する石童丸。

 これから石童丸は刈萱道心の弟子となり、師匠が自分の父親であるとも知らないまま仏道修行に励んで、後には立派な僧侶になったという。高野山・蓮華谷にはこの親子の徳を偲んでいまも刈萱堂と呼ばれる庵(いおり)が結ばれている。


https://xn--7stw62ab5g4q3a.jp/2021/01/03/no09/ 【第9号「苅萱(かるかや)の関跡とかるかや物語」】より

育成団体:かるかや物語を伝える会

 太宰府市坂本の関屋交差点のあたりには、中世に「苅萱の関」という関所があったといわれています。また、この苅萱の関を舞台とした伝説、苅萱道心と石童丸親子の悲しい物語が全国的にも知られています。

 苅萱の関跡と、苅萱道心・石堂(童)丸の物語を伝えていきます。

※1.出典や地域によって、人物名や物語の内容が若干異なります。

※2.石堂丸については「石童丸」とも表記されますが、博多や太宰府では「石堂丸」と表記されることが多いことからこの表記を使用しています。

苅萱の関とその位置

 太宰府市坂本の「関屋」の交差点の付近にあったと伝えられる関所のことです。関所の正確な場所や詳細はわかりませんが、文献史料や絵図から関屋の鳥居あたりとみられています。

 関の記述については、菅原道真が大宰権帥として赴任した際に詠んだ歌に登場します。文明12年(1480)には、連歌師宗祇が『筑紫道記』に苅萱の関についての記述と和歌を残しています。また、豊臣秀吉が九州征伐に来た際に関の記述がみられますが、この時には「苅萱の関跡」となっており、すでに関所は機能していなかったことがわかります。江戸時代には、関屋は太宰府天満宮参詣道と日田街道が合流する場所となり、人の往来も多く賑わいをみせていたようです。また、江戸時代の絵図に「苅萱関跡」が紹介されているほか、明治期から昭和初期には観光案内や絵はがきにもみられ、太宰府の観光名所にもなりました。

 かつては石堂丸の姉・千代鶴姫の墓とされる塚があり、その塚の場所に「苅萱の関跡」の看板が建てられましたが、現在は旧道沿いに石碑が建っています。

太宰府におけるかるかや物語

̶ 苅萱道心と石堂丸の悲話 ̶

 苅萱の関の関守であった加藤左衛門尉繁氏(後の苅萱道心)は、花見の席で桜が散ったことに無常を感じ、子を宿した妻(千里)と娘(千代鶴)を残して出家し、苅萱道心として高野山で修業に励みます。

 残された妻は、繁氏の出家後に生まれた石堂丸とともに高野山を訪ねました。しかし、高野山は女人禁制のため、石堂丸が一人山に入り父を捜します。

何日もかけて歩き捜し続けると、ある日一人の立派な僧に出会います。この僧こそ実の父である苅萱道心でした。道心は石堂丸の話を聞き、彼が自分の子であると気づきますが、今は世を捨て仏門に入った身であることから、父だと名乗ることはできず、父は亡くなったと伝えます。石堂丸はやむなく麓の宿にもどると、母は長旅の疲れで亡くなっていました。また、筑紫に帰ると姉の千代鶴もすでに亡くなっていたのでした。

 身よりのなくなった石堂丸は、以前に出会った道心を訪ねて再び高野山に上がりました。そして弟子入りし、修業に励みます。

 石堂丸は苅萱道心を父とは知らずに修業に励みました。苅萱道心もまた石堂丸に生涯父と名乗ることなく修業を続け、この世を去りました。

 この物語は、仏教説話にある八苦の一つ「愛別離苦」のお話です。中世に高野聖によって全国に広められ、浄瑠璃・歌舞伎・文楽・能の題材にもなっています。前半の舞台は太宰府であり物語の特に重要な部分を担っています。

物語に関わる文化遺産

 太宰府市国分の通称「宝満隠し」という丘の西側に稲子地蔵があります。

 繁氏の身代わりとなって命を落とした侍女・稲子を祀ったという話や、宝満山の山伏に恋をした稲子の話など、様々な謂われがあります。

全国に見られる物語ゆかりの地

 物語後半の舞台である和歌山県には苅萱道心と石堂丸が修行に励んだ高野山苅萱堂や石堂丸の母を弔ったとされる学文路苅萱堂があります。また、長野県には苅萱道心が葬られた苅萱塚がある往生寺や二人が作ったとされる親子地蔵が伝わる西光寺があります。各地で伝承活動が行われています。

地元での伝承活動

 かるかや物語はかつて水城尋常高等小学校の『郷土読本』(昭和12年発行)に掲載され、子どもたちに教えられていました。

 また、水城小学校の学芸会の定番の劇として講堂で度々演じられたほか、昭和30年(1955)には、旧太宰府町と水城村の合併記念として、水城小学校の生徒によって「石堂丸」が太宰府天満宮の文書館で演じられています。

 以後も小学校で演じられていましたが、いつしか物語の演劇は行われなくなりました。


https://jlogos.com/ausp/word.html?id=7439558 【苅萱の関(古代〜中世)】より

平安期~戦国期に見える関名筑前国御笠郡のうち刈萱関とも書く「新古今集」に菅原道真の歌として「刈萱の関守にのみ見えつるは人も許さぬ道辺なりけり」とあり,10世紀初頭に大宰府での流罪の身を歌にしているので,これ以前から大宰府の関所として設けられていたものと推定される室町期,永享10年2月16日に大内被官とみられる河内山式部丞某から博多商人の奥堂弥二郎に対して出された書状(筥崎神社文書/博多史料1)には「苅萱関過銭事」と見え,博多の奥堂氏に筥崎宮・櫛田・住吉宮の油の苅萱関過銭を免除しており,大宰府から博多へ通じる交通の要衝である当関は大内氏により支配されていたことが知られるまた15世紀後半と推定される大鳥居信快法印の記した御灯明方目録案文には「従苅萱関所若菜御供料社納候事」とあり,当関所は太宰府天満宮の若菜御供の料所になっていたことがわかる(太宰府天満宮文書/同前3)当関は名所関の1つとして古来より歌枕として知られ,説経や謡曲の「刈萱」に登場する苅萱道心もこの地の人と伝えられる(地下歌合/群書13,常徳院殿御集/同前14,永享十年石清水社奉納百首/続群14下,前大納言為広卿集/同前16上)文明12年,当関を通った連歌師宗祇は「筑紫道記」に「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて,我行末をあやしげに見るも恐ろし,数ならぬ身をいかにとも事とはばいかなる名をかかるかやの関」と記している(群書18)「続風土記」には「通古賀村の域内,宰府往還の道の西の側に其址あり,世に天智天皇の時,置れける関なりといふ」と見え,現在,太宰府市通古賀の関屋に苅萱関跡の標識が立っている

KADOKAWA

「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

JLogosID : 7439558


http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1551.html 【坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)/日本の神々の話】より

平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。

人物

中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫であり、田村麻呂の祖父の犬養、父苅田麻呂ともに武をもって知られた。

子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

征夷大将軍として蝦夷との闘いで有名なのは、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこでアテルイ(阿弖利為、阿弖流為)とモレ(盤具公母礼)ら五百余人の降伏を容れたこと。

しかし田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、二人を処刑したのである。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には806年(大同元年)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。

弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は京都市山科区の西野山古墓と推定される、また山科区勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂の墓」との石碑があり周辺は公園として整備されている。そのほか東山ドライブウェイの展望台側に青蓮院将軍塚大日堂が有る。

後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま、説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大嶽王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、能『田村』、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。

田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県長野市若穂地区の清水寺(せいすいじ)には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。

この辺の田村麻呂伝説としては、嵐山の「縁切り橋」がある。

大蔵館跡、源義賢の墓の辺から鎌倉街道を笛吹峠に向かうと、将軍沢という地名があるが、そこにかかっている小さな橋である。

征夷大将軍の坂上田村麻呂が、軍勢を引きいて、ここ嵐山町に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ、将軍の奥方が京都から心配のあまり訪ねてきた。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で、征夷大将軍として派遣されている私に、妻が尋ねるとは何ごとだ。逢わぬぞ」と大声で怒鳴った。いくら家来がとりなしても許さなかった。

 翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍はこの坂下まで来て、「大命を受けて出陣しているのに追って来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々に立ち去れ。」と宣言した。

田村麻呂を祀る神社は、各地の田村神社、筑紫神社(福岡県筑紫野市)、松尾神社 (宝塚市)創建当初は坂上田村麻呂であった。

坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)