杉並区 12 (30/10/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村 (2) 忍ヶ谷戸
杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村
旧下荻窪村 小名 忍ヶ谷戸 (しのびがやと)
小字 原
- 与謝野公園
- 新田山
- 庚申塔 (118番)
- 銭塚、金塚
- 荻窪不動尊盛運講
小字 忍ヶ谷戸 (しのびがやと)
- 善福寺川、荻窪橋
- 忍川上橋、忍川橋、忍川上橋
- 春日橋、松見橋、田端堰
- 堂前、堂前坂
- 大山
- 本村 (ほむら)、中道寺
- 入口、題目塔
- 山門 (鐘楼門)
- 馬頭観音 ニ基
- 本堂
- 石仏 (聖観音像、地蔵菩薩、如意輪観音像)
- 鬼子母神堂
- 西門
- 妙王稲荷大明神
- 墓地、宇田川家墓所
- 不動堂、不動明王像 (121番 不明)
小字 川南
- 西福寺
- 大南
旧下荻窪村小名本村に引き続いて、旧下荻窪村のもう一つの小名の南側の忍ヶ谷戸だが、一部は今年の4月8日に見終わっているので、残りの史跡を巡る。
旧下荻窪村 小名 忍ヶ谷戸 (しのびがやと)
江戸時代に日枝神社山王領となっていた下荻窪村小名忍ヶ谷戸は1889年 (明治22年) に小字忍ヶ谷戸、小字原、川南の三つに分割されている。その後、1932年 (昭和7年) の町名変更で、小字忍ヶ谷戸と原はそれぞれが南荻窪一丁目、二丁目の一部、小字川南は南荻窪一丁目の一部になり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で旧小字忍ヶ谷戸は荻窪二丁目全域と荻窪四丁目/五丁目の一部、旧小字原は荻窪一丁目、二丁目、四丁目へ分割、小字川南は荻窪一丁目に編入されている。以上は大雑把な行政区の変遷で、かなり複雑な入れ替えがあり、正確な区割りが判る資料はなかった。
江戸時代から明治時代の小名忍ヶ谷戸の民家分布を見ると江戸時代の道沿いに集まっている。大正時代末期から昭和15年頃には小字原で民家分布が拡大し、戦前にはほぼ全地域に住宅地が広がっている。現在ではかつての畑はほとんど消え失せて全土が住宅の密集地となっている。
小字 原
原と呼ばれるようになった由来は見つからなかったのだが、他の地域で「原」と呼ばれたところは民家などはなく荒れ地だったことから層の様に呼ばれたとある。この下荻窪村の小字原も江戸時代には荒れ地だったことからこのように呼ばれたのかもしれない。(明治時代の地図では相当数の集落ができている。)
与謝野公園
環状8号線の荻窪二丁目交差点の西に与謝野公園 (旧南荻窪中央公園 1982年 [昭和57年] に開園) が2012年 (平成24年) に整備されている。この公園は与謝野寛、晶子夫婦がついの棲家として、その晩年を過ごした邸宅があった跡地になる。
1923年 (大正12年) の関東大震災で、東京中心部は壊滅状態となり、晶子が執筆した新新訳源氏物語の原稿が焼失した。この体験で夫婦は震災の被害の少なかった郊外に移ることとし、当時井荻といわれたこの地に土地を得て、1927年 (昭和2年) に麹町区富士見町から引越してきた。敷地には、大正期に建てられた日本家屋の采花荘、秩父連山や富士山、箱根山脈を眺められることにちなむ洋館の遙青書屋 (写真右上) の2棟のほか、弟子から贈られ、茶室や書斎として使用された冬柏亭 (鞍馬山に移築写真右下) が建てられていた。庭にはさまざまな花や植木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でたという。晶子夫妻は、この家を拠点とし、歌会を催したり、編纂や歌誌編集も行っていた。1935年 (昭和10年) に肺炎で夫の寛が亡くなり、1942年 (昭和17年) には、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地で63年の生涯を終えている。
公園内の歌碑14基には、夫妻の短歌が刻まれている。
新田山 (しんでんやま)
西荻窪駅から五日市街道に伸びる神明通りの途中、大宮前体育館が建っている辺りには以前は、直径で約300mの山林があり雑木林となっていた。神明通りは江戸時代にその西側が新しく開拓され大宮前新田と呼ばれていた。当時は神明通りではなく、新田道、北街道と呼ばれていた。この道沿いには家が一軒あっただけで、寂しい土地だったそうだ。現在は昔の面影は無く、大宮前体育館が建てられている。
庚申塔 (118番)
新田山から神明通りを東に少し進んだ所、民家に前に庚申塔が置かれている。1676年 (延宝4年) 造立の笠付角柱型の庚申塔で表には上部に日月が浮き彫りされ、中央には「奉寄進庚申二世安樂」と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りされている。「武刕た麻郡 下荻久保村」銘で10人の願主の名が彫られている。
銭塚、金塚
神明通りを進むと環八神明通り交差点で環状八号線に交わる。交差点から環状八号線を北に少し行った所には、かつて銭塚 (金塚) と呼ばれた塚があったという。昔この地に住んでいた人が、金銀財宝を埋め、「掘出す者に祟る」と言っていたので、誰も手をつけず長くそのまま塚となっていた。環状八号線建設の際に崩され消滅している。
荻窪不動尊盛運講
銭塚/金塚跡の北側の住宅地に荻窪不動尊盛運講と表札が掛かった家がある。この建物は不動尊を祀った堂宇で、中には護摩壇が置かれ、その奥に不動明王を祀っている。表札から見ると、不動尊盛運講という講中により管理されているのだろう。
小字 忍ヶ谷戸 (しのびがやと)
江戸時代の初期、下荻窪村は伊賀忍者 (伊賀組) の隊長服部半蔵正成の領地で、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地だった。忍びの者が領有する谷戸 善福寺川沿いの低地 (台地に挟まれた善福寺川沿いの低地) という事で、「忍び者の谷戸」 と呼ばれ、後に「者」 が省略されて、忍ヶ谷戸 (しのびがいど)になり、大正時代から「しのびがやど」と呼ばれるようになった。
江戸時代の初期に、荻窪の東部(下荻窪村)は、伊賀忍者(伊賀組)の隊長服部半蔵正成、西部(上荻窪村)は伊賀同心八名の知行地となっていた。正成の死後、嫡男半蔵正就が伊賀組の隊長を継いだが、伊賀同心達とは上手くいかず、伊賀同心は正就の隊長罷免を幕府に訴え、寺院にたてこもり抵抗をした。この事件で幕府は半蔵正就を罷免し、荻窪村は幕府が没収して天領となった。その後、三代将軍家光は、幼いときから日枝神社を霊神と崇め、 1635年 (寛永12年) に、下荻窪、阿佐ヶ谷、天沼、堀ノ内の四ヶ村を寄進し麹町日枝神社領になり明治維新まで続いた。
善福寺川、荻窪橋
小字 忍ヶ谷戸内には善福寺川が流れている。戦後は流域の河川整備と低湿地の埋め立てが進められ、川筋は江戸時代と比べかなり変わっている。川沿いの道を走る事にした。忍ヶ谷戸内の北には荻窪橋が架かっている。
忍川上橋、忍川橋、忍川下橋
善福寺川を南に進むと北側から、忍川上橋、忍川橋、忍川下橋が架けられている。
(忍川橋)
(忍川下橋)
江戸時代初期には、小名 忍ヶ谷戸には服部半蔵の支配下にあった伊賀者 (忍者) が住んでいた。この事からこの地域は忍びが谷戸と呼ばれていた。忍川橋に近い場所には10戸ほどの伊賀者が住んでおり、忍組と呼ばれていた。昔の忍川橋 (しのびかわばし) は現在の忍川上橋あたりにあったが、大正時代終わり頃から、誤って「おしかわばし」と呼ばれている。
春日橋、松見橋、田端堰
更に進むと春日橋と松見橋が架かっている。この辺りから、善福寺川の川筋は大きく変わっている。忍川下橋から善福寺川を南に進むと春日橋
その南には松見橋
春日橋の下流、松見橋との間には田端堰があったという。この堰の所で用水堀が分岐して田端田圃を灌漑していた。
堂前 (どうめえ)、堂前坂 (どうめえざか)
荻窪橋の北側に光明院観音堂があり、善福寺川の南側一帯は観音堂の前の地域という事で堂前 (どうめえ)と呼ばれていた。
荻窪橋からの環状八号線は緩やかな坂道になっている。この坂は堂前にあるので、昭和初期までは堂前坂 (どうめえざか) と呼ばれた。
大山
堂前の南は御不動山の対岸で、斜面となっており大山と呼ばれた。ここにあった坂は難所であったが、今はその面影はない。この坂を下りそして御不動山を登るのが青梅街道に通ずる唯一の道であった。大山と呼ばれた由来は、ここに宇田川家があり屋号が大山だったことによる。
本村、中道寺
環状8号線を更に南に進むと日蓮宗大光山千葉院中道寺がある。この寺には今年の4月8日に音連れている。掲載している写真はその時に撮ったもので、まだ桜が咲いていた。
1582年 (天正10年) に、日道上人が荻窪の地に草庵を営み、日蓮の教えを説いたのが、この中道寺のはじまりで、その弟子の二世日法が 1616年 (元和2年) に、草庵を大光山中道寺と称えた。1636年 (寛永13年) に、宇田川茂右衛門が寄付した土地に、本堂その他の建物を建て三宝を安置している。宇田川氏は鎌倉時代から戦国時代まで房総地方下総で栄えた千葉氏の家臣で、千葉氏滅亡後、この地に移って土着し、千葉氏の菩提を弔うために本堂を建立したと伝わる。宇田川氏の屋敷は中堂寺の東隣にあり屋号を本村 (ほむら) と呼ばれていた。
入口、題目塔
この寺院には山門の手前に扉のついた入口があり、その前には南無妙法蓮華経と刻まれた題目塔が建っている。
山門 (鐘楼門)
山門は欅作りの二階建てで、二階には梵鐘が吊ってあり、鐘楼兼山門という珍しい型式になっている。この鐘楼門は、1773年 (安永2年) に19世凌善院日喜上人が発願し、日蓮宗総本山身延山久遠寺の第56世の法主を務めた20世太沖院日精上人の代の1781年 (天明元年) に完成している。鐘楼門の両脇にある仁王堂は、2002年 (平成14年) に40世教道日惠上人が発願、日蓮宗立教開宗750年慶讃事業として2010年 (平成22年)に完成したもの。
鐘楼門には1742年 (寛保2年) 鋳造の梵鐘が吊されていたが、大平洋戦争中に金属資源回収で国へ供出され、その為に山門が軽くなり、風の被害が起こる惧れが生じ、梵鐘と同じ重量のコンクリート製の重しを作り、鐘楼に吊していた。現在では、戦後に他寺より譲り受けた梵鐘を吊している。戦時中の重しが山門を入った所に残っている。
馬頭観音 ニ基
石の重しの斜め後ろに2基の馬頭観音の石塔が並んで置かれている。向かって右の馬頭観音は1926年 ( 大正15年) 造立の角柱石塔で表に馬頭観音と文字が刻まれている。その隣のものは1909年 (明治42年) の駒型石塔で、これも文字型で馬頭観音と刻まれている。
本堂
本堂は1709年 (宝永6年) と1857年(安政4年) に再建され、現在の本堂は1967年 (昭和42年) に新築された総欅作りの大堂で、頂上には火炎宝珠を頂いている。本堂は地域住民から 「黒目のお祖師様 (願成の祖師)」 と呼ばれた日蓮聖人像が祀っている。
境内は広くは無いが綺麗に手入れがされている。桜の木も数本植っているが、既に花は散り始めていた。満開時はもっと見応えがあっただろう。
石仏 (聖観音像、地蔵菩薩、如意輪観音像)
本堂の横には堂宇の中に石仏や石塔が並べられている。
- 右の聖観音像 (右中) の造立年は1706年 (宝永3年) で阿闍梨順珍大覚位と刻まれている。
- 中央は地蔵菩薩 (中中) で、1711年 (正徳元年) 造立で、「清光院道照日義信士」と刻まれいる。
- 左の如意輪観音像 (左中) は、1732年 (享保17年) に造立されたもの。
鬼子母神堂
本堂西側には鬼子母神堂が置かれ、伝教大師作と伝えられている鬼子母神立像が祀られ、江戸中期より盛んに祈祷がおこなわれていた。
西門
境内の西側にも門があり、門を入った右側は墓地になっているので墓参りの通用門となっているのだろう。
妙王稲荷大明神
西門を内側には妙王稲荷大明神が祀られており、この稲荷は関東管領上杉顕定の家臣で矢上城主の中田加賀守 (1590年 [天正18年] 小田原北条氏滅亡の際に矢上城で戦死) の守護神であったとされ、大正時代に中道寺に奉安された。
妙王稲荷大明神の入口脇にも堂宇があり、その中に錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像が置かれている。
墓地、宇田川家墓所
西門の所にある墓地には中道寺を建立した宇田川家の墓所があった。不動堂、不動明王像 (121番)中道寺の裏側には不動堂が建てられている。中道寺の創立以前から、荻窪高校付近にあったが、区画整理で大正末年に現在地へ移された。当時は 「お不動山」 と呼ばれていた。堂内には1756年 (宝暦6年) に造立された「南無妙法蓮華経不動明王下荻久保村別当仲道寺」と刻まれた不動明王の石塔が納められている。これは下荻窪村に熱病が流行し、多くの村人が亡くなった。村人達は「これは火の神様のお不動様をお粗末にしたからだ」と考え、村中で浄財を出して、「南無妙法蓮華経不動明王」と彫った石碑を造り、不動堂に祀って日夜お祈りしたところ、熱病の流行がぴたりと消えたという。それ以後、荻窪村や近在の村でも、熱病が起こると、このお不動様へ願をかけてお祈りしたそうだ。現在の堂宇は1977年 (昭和52年) 再建されたもの。
不動堂、不動明王像 (121番 不明)
中道寺の裏側には不動堂が建てられている。中道寺の創立以前から、荻窪高校付近にあったが、区画整理で大正末年に現在地へ移された。当時は 「お不動山」 と呼ばれていた。堂内には1756年 (宝暦6年) に造立された「南無妙法蓮華経不動明王下荻久保村別当仲道寺」と刻まれた不動明王の石塔 (写真左下) が納められていると資料にはあったが、堂内には見当たらず、不動明王像が置かれていた。これは下荻窪村に熱病が流行し、多くの村人が亡くなった。村人達は「これは火の神様のお不動様をお粗末にしたからだ」と考え、村中で浄財を出して、「南無妙法蓮華経不動明王」と彫った石碑を造り、不動堂に祀って日夜お祈りしたところ、熱病の流行がぴたりと消えたという。それ以後、荻窪村や近在の村でも、熱病が起こると、このお不動様へ願をかけてお祈りしたそうだ。現在の堂宇は1977年 (昭和52年) 再建されたもの。
小字 川南
下荻窪村の南端は小字川南だった。善福寺川の南に位置していたのでこのように呼ばれたのだろう。
西福寺
都道311号 (環状8号線) の環八神明通り交差点の東、住宅街の中に真宗大谷派の清水山妙成就院西福寺がある。この寺は新しく2008年 (平成20年) に設立登記されている。
大南
小字 川南の南端 (下荻窪村の南端になる) は旧高井戸村との境で大南と呼ばれていた。ちょうど、高井戸東4丁目交差点辺りになる。
これで今日予定していたスポットは巡り終えた。これで下荻窪村の散策は終了。今夕は会社勤めをしていた頃の仕事仲間と会食。
参考文献
- すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)