溺れる冬日
神との対話@kamitonotaiwa_
二度とくり返さないために、重要なのだ。だが、二度とくりかえさないと決意したら、過去は手放しなさい。手放すことと忘れることは、ちがう。手放すとはしがみつくのをやめること、それがないと溺れるとでもいうように、過去にすがりつくのをやめることだ。しがみついているから、溺れるのだよ。
Facebook竹元 久了さん投稿記事
🔵右脳と左脳、(+)と(-) 知花敏彦氏紐解く脳についての説明をしてみたいと思います。右脳とか左脳とか、大脳とか小脳とか、役目がありまして、色々の働きをしてるわけです。脳というのは、そこに智慧があるわけじゃないんです。
脳は、あくまで受信機であり送信機であると、いつも言っているわけです。
脳の形からしますと、左脳は左巻き、右脳は右巻きなんですね。ちゃんと、(+)と、(-)の脳があるわけです。だいたい、(-)から来るのは、マイナス思考なんですね。
マイナス思考の人は、左脳が発達してる人。プラス思考と言うのは、(+)の方が、非常に活発化してる人。この脳と言うのは、(-)は受け入れですから、(+)は放出ですからね、
で、受け入れたものを、(+)を通して出さなければならないわけです。これを循環するわけです。本当は、常に循環してなければならないんです。
受信したものは、必ず吐き出すと。それが、頭の回転と言うわけですね、
非常に頭の回転がいい人は、受けたものは即出します。出すということは、・・色々の知識を得ますね、それを詰め込むんじゃないんです。
受信だけして送信しなかったとすると、片一方の、左の頭が重たくなるんですね。
痛くなるわけですよ。だいたい内気の人で、色々の知識や、色々の本を読んで、詰め込んで出さない人は、頭が痛いんですね。
考え込んだりすると、頭が痛くなりますよね。左半分の頭が痛くなる人は、詰め込みの、陰気な人。陽気な人じゃない。 吐き出さないんですね。
吐き出し方には、言葉での吐き出しと、行動での吐き出しがありますね。
考えたことを即、積極的に現していくという、現わし方があるんですね。仕様のない人は、言葉で「べちゃべちゃ」現します。本当は、態度で示せと言いまして。
考え事したことは、使わないと、詰め込んでしまうと、その圧力に押されてしまうんですね。
だから、知識の圧力に”溺れている”人が、多いわけですね。だから、「知識人間」はだいたい頭が重たいんです。
吐き出さないと。自分の得た知識で、圧力で押しつぶされてしまうんです。
こんどは頭だけでは済まさず、肩に来ます。肩がこってくる「かちかち」に。
これでも、持てなくなると、こんどは腰に来るんです。
脊髄にね、腰でも持たなくなると、こんどは足に来るんですね。
これはもう、しょっちゅう嫌なこと、(-)思考だけ考えて、詰め込んでいる人ですね。
本当は、右脳と左脳の循環をして、バランスを取らないといけないんですけれど、
ちょうど、水車小屋があったとすると、その水は流れているから回転するんであって、せき止めたら回転しませんよね。せき止めたら、水車小屋は水で溺れてしまいますよね。
知識に溺れるとは、その意味なんです。知識をいっぱい詰め込んで、知識に溺れてる人間が、世の中に多いということですね。だから、このやすらぎの郷でも、この傾向の人が多いんですよ。知花の話の知識は、いっぱいため込んでいるけど、一向に実践しない、実行しない、働かない。
と、その知識に溺れて、”へんてこ”な人間が出来てしまうと。使わないわけですから。
ドンドン出しておれば、次から次から入ってくるわけですね。
であなたが、嫌なものいっぱい持って、受信機がいっぱいである時は、新しいものは入ってこないわけですよ。新しいものは、入ってこない。
だから、智慧の循環と言いまして、入ってきたものは即出す、実行する。
これは、”積極的”と言いますけれど、積極的に動いて、働いてもらおう。
”動かしてもらおう。”その知恵を、活用してもらおう、そうすると頭の回転が良くなりますから、頭はひじょうに”スッキリ”して、軽くなるわけですね。
考え事だけやって、一向に実践しない人は、体がだるくなって、重くなります。
Facebook市堀 玉宗さん投稿記事
〇生きることは「流れ」そのものです。
道元禅師は「時は有なり。有は時なり」と諭されました。「時」とは「いのちそのもの」ということ。「時」とは「無常」「流れそのもの」であり、それがそのまま「有」「いのち」であるというのです。「無常は仏性なり」という言葉もあります。いのちは「流れ」をその本質、面目、醍醐味、真相としています。「流れそのもの」が全てであるということ。人の一生とは「流れを学ぶ旅」「流れながら流れを学ぶ道程」です。
仏道がありのままに生きることを理想とするのには、流れに逆らって生きようとする本末転倒があるからです。溺れる者藁をもつかむという。その真相は、流れにあって藁を掴むから溺れるのです。世の中には様々な「藁」があります。お金、名誉、肩書、等々。人生という激流を乗り切るのに藁よりも大きな船であるに越したことはないように思えますが、わが身の器以上の舟もあろう筈もありません。小さすぎて流れに翻弄させそうだし、かといって余り大きすぎては座礁するということもあります。
諸行無常の流れを生きるコツ。それは力を抜いて流れに身を任せ、心を任せて生きることが最善です。力を抜けば自然と水に浮きます。身を捨てて浮ぶ瀬が確かにあります。というより、流れそのものが、わが身わが心が浮ぶ瀬ではないのでしょうか。今、ここ以外のどこにも浮ぶ瀬がありはしません。
人は倒れたところかしか起き上がることはできません。今に倒れ今に起き、流れに倒れ流れに起き上がる。いのちは一度だって流れを止めたり、遡ったりはしません。いのちは迷うことなく、生老病死そのときそのときの風景があるばかりです。出会いや別れがあります。迷いや覚りがあります。苦楽や希望や絶望があります。初心があり、末期があり、今があり、永遠があり、眼差しがあり、救いがあります。それもこれもすべて「流れ」の為せるところのものです。
いのちとは流れそのもの。それだけが第一義としてあります。仏法に奇特なし。まさに日々是好日なる所以です。娑婆世界の喧騒とは流れの間に間に浮んだ欲望や妄想の泡沫に過ぎません。何ものにもとらわれず、飄々と流れのままに生き死にする。本来、握るべき藁もありません。「本来無一物」という壮大な流れの世界があるばかりです。いのち、大事に。合掌。