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涙について眼科医語る妙な熱気 金子兜太

2024.11.18 02:38

金子兜太の句  より抜粋

【涙について眼科医語る妙な熱気】    金子兜太

先日、大学時代の仲間が東京から京都に転居するというので、送別会をやった。そこに先月緑内障の手術を受けたばかりの大串章も来ていて、みんなで「とにかく目の病気はこわいな」と、にぎやかな「目談義」となった。大串君によると、手術前のひところには、悲しくもないのに「涙」が止まらなくなって困ったそうだ。最初にかかった眼科医は紫外線にやられたせいだという診断だったが、次の医者は緑内障だから即刻手術せよとのご託宣。度胸が良い彼は、ならばと両眼を一度に手術してもらい、すっきりした表情をしていた。よかった。で、その後で掲句を読んだものだから、なんだかヤケに生々しく感じた。作者の実感だろう。目の前の眼科医は、おそらく目にとっての涙の効用を語っているのだ。しきりに「涙」という言葉を連発して、だんだんと話に熱がこもってくる。それももとより物理的な効用の話で、寂しさや悲しさといった精神作用とは無縁なのである。相槌を打っているうちに、作者はこんなにも精神作用とは無関係な涙の話に熱を込められる人に、感心もしているが、どこかで呆気にとられてもいる。その感じを指して「妙な熱気」とは言い得て妙というよりも、こうでも言わないことには、二人の間に醸し出された雰囲気がよく伝わらないと思っての表現ではなかろうか。どことなく可笑しく、しかしどことなく身につまされもするような小世界だ。俳誌「海程」(2007年4月号)所載。(清水哲男)


https://momotori.com/profile.html 【主宰 大串章  PROFILE】より

◆主 宰 プロフィール

大串 章(おおぐし あきら)1937年(昭和12年)11月6日 佐賀県嬉野町(現、嬉野市)生まれ。1950年「毎日中学生新聞」にて俳句等を投稿。1958年に京都大学経済学部に入学、俳句同人誌「青炎」や「京大俳句会」に参加。大学卒業後は日本鋼管(現JFEスチール)に就職。1959年、大野林火主宰の「濱」に参加。1994年、「百鳥」を創刊し、主宰。 1978年、句集『朝の舟』で第2回俳人協会新人賞、1994年、『現代俳句の山河』で第9回俳人協会評論賞、2005年、句集『大地』で第45回俳人協会賞を受賞。講演集『俳句とともに』で第7回文學の森準大賞を受賞。現在、公益社団法人俳人協会会長。NHK学園「俳句春秋」選者を務め、NHKの俳句番組に度々出演。その他、朝日新聞、愛媛新聞の新聞俳壇選者や俳句総合誌「俳句界」「俳句αあるふぁ」の選者も務める。

代表句に「野遊びの終り太平洋に出づ」(『百鳥』)などがある。俳句を抒情を盛る器として捉え、具象的、かつ人間性に基づく抒情性の高い俳風である。明るさとおおらかさのある叙景句にも長ける。飯田龍太は「常凡をおそれぬ恒心の確かさ」と評し、大野林火は『朝の舟』を評し純粋さと透明さ、詩精神の高さを指摘した(『現代俳句大事典』「大串章」より)。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO89788200X20C15A7000000/ 【俳人・金子兜太氏 「戦争の悪」と「人間の美」詠む(戦争と私)】より

戦後70年インタビュー

独自の作風で人間や社会の深部に迫ってきた俳人、金子兜太さん(95)。海軍主計中尉として出征したトラック島での体験が戦後の作句の原点になった。「戦争の悪」と「人間の美しさ」。前衛俳句の先駆者が生み出す17文字には島で目撃した相反する情景が織り込まれている。創作意欲は今も衰えず「伝達力のある俳句を作りたい」と語った。

――戦地での印象深い出来事を教えて下さい。

金子兜太(かねこ・とうた)氏 埼玉県生まれ。東京帝大卒。戦後は日銀に勤務しながら社会性を重視した前衛的な作品を相次いで発表。現代俳句協会名誉会長。95歳。

「1944年3月に着任したとき、半月前の空襲でやられた施設が真っ黒な残骸をさらしていました。飛行艇で着いたのが夕方だったので、よけいに黒く見える。海の深いところには貨物船や軍艦が沈んでいて、これはもう駄目だなと思う光景でした」

「戦況が悪化すると、トラック島では武器も弾薬も補給できなくなる。そこで、工作部が手りゅう弾を作って実験するという事があり、これが私の戦争に対する考えを一変させました」

「実験は兵隊ではなくて民間人の工員にやらせました。失敗して工員は即死、指導役の落下傘部隊の少尉が心臓に破片を受けて死にました」

「心に焼き付いたのはその直後のことです。10人ほどの工員たちが倒れた仲間を担ぎ上げ、2キロ離れた病院へ走り出した。腕が無くなり、背中は白くえぐれて、死んでいることは分かっています。でも、ワッショイワッショイと必死で走る。その光景を見て、ああ人間というのはいいものだとしみじみ思いました」

「ところが落下傘部隊に少尉の死を知らせると、隊長の少佐以下、皆笑っているんです。彼らは実戦を通じて死ぬということをいくつも体験してきた。だから死に対して無感動というか、当たり前なんですね」

「工員たちの心を打つ行動があって、今度は死を笑う兵士がいる。置かれた状況が人間を冷酷に変えるんです。戦争とは人間のよさを惜しげも無くつぶしてしまう酷薄な悪だと痛感しました。あの出来事は私にとって衝撃であり、今から思えば収穫でもあります。あれ以来、戦争を憎むという姿勢は一貫しています」

――戦地での創作は。

「手りゅう弾の一件の後、しばらく俳句は詠みませんでした。でも戦死した矢野兼武主計中佐(筆名・西村皎三)が『金子中尉、戦況は悪くなる。皆、暗くなるから句会をやれよ』と言っていたのを思い出し、句会を開くようになりました」

「戦後、放送作家として活躍した西沢実さんが陸軍少尉で島にいて協力してくれました。4、5人の陸軍将校と工員が10人くらいで月2回。工員たちは将校を相手に堂々と批評していました。自分たちが聞いたこともないような例を挙げて説明するものだから軍人にとっても新鮮で面白い」

「この句会は3カ月で終わりました。食糧の芋を作るため、皆が分散配置されることになったからです。食糧事情は悪化し続けて餓死者が相次ぎました。最近、気づいたのですが、この時期は全然、俳句を詠んでいません。切迫した状況では出てこないものなんです」

――終戦の直後にいくつかの代表的な句を詠んでいます。

「あの日のことははっきりと覚えていますね。全将校が集められて、無電で受けた詔勅を聞かされました。それから自分の宿舎へ帰って、日記類を燃やした」

「『椰子の丘朝焼けしるき日日なりき』の句が浮かんだのはこのとき。その後に詠んだのは『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』という句です。とにかく生きて、ばかげた戦争のない国にしていこうという気持ちでした」

――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」

――戦争の記憶が薄れるなかで、文学が果たす役割とは何でしょう。

「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏

「トラック島の記録を作ることが死者をとむらうことになる、それができるのは散文の小説やドキュメンタリーで伝えることだと思っていました。実は結構、書いているんですが、恥ずかしくて駄目。美文調で、青年の客気が露骨に出てしまっていて。これでは戦争の悪なんか伝わるわけがない。自分で決めて永久に葬りました」

「一方で、俳句にはかなり強い伝達力があることを今ごろになって感じます。本気で作った五・七・五は力を持っています。私には『こんなに悪い戦争があって、自分はそれに参加したのだから、俳句を作る資格はない』と消極的になってしまった時期がありました」

「そうではなくて『これほど悪いんだから全力で俳句を作って、俳句で戦争の記録を残していくんだ』という割り切り方ができたら良かったのかもしれません。それができなかった。今でも後悔が残りますね」

――これからの創作に向けての意欲は。

「95歳という年齢に制限される面がありますが、ビビッドで伝達力のある前衛性の高い俳句を作りたい。東日本大震災の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間はそう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」

(聞き手は社会部、稲沢計典)