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ただ眺める

2024.11.18 02:42

Facebook吉野 太さん投稿記事

自分軸

この言葉は並木さんがよく使っていた。並木さんの佇まいと声が好きで講演会を企画していた。

矢作先生と並木さんの講演会は年2回行っていた。矢作先生が誰より楽しむ講演会だった(笑)

さて「自分軸」どの自分を軸にしてますか?って話。

自分であることに拘る自分を軸にする限り解放は起きません。軸とは「真ん中」です。

新しいノンデュアリティでの真ん中は「あちら」になります。神様と呼んでもいい。

神様としての自分 こう設定してもいい。

神様としての自分は、自分であることに拘りません。名前?は持たないと思います(笑)

ただ眺めている それが「神」です

対話が可能なのは「高次元意識の自分」になります。神の正面に居る自分ね。

高次元意識の自分も、自分であることに拘りません。

自分であることに拘る自分は「外周の自分」だけです。

親であり子であり、夢があって、個性があって、好き嫌いがあって、長所と短所があって、寿命があって、病気して、

この自分が「外周の自分」です。

マグセブンを手放すタイミングを外して悔しがるのが「外周の自分」です(笑)

前回のブログにも書きましたが、真ん中は「あちら」です。新しいノンデュアリティでの自分軸は「あちら」になります。

ただ眺めているこれが自分軸になります

自分に拘る私と、様々に反応する気持ちは「狛犬」になります。

自分軸の周りに置いてあるのが「私と気持ち」になります。

たがら私は自由!!!と喜ぶ自分は、自分軸にはなりません。

私は無限!!!と発する自分は、自分軸にはなりません。

この自分を自分軸にするということは「狛犬」が神社の中心だと言っているようなものです。

狛犬、神社の中心ですか?

狛犬は、神様の道を守る「控えめな存在」です。

新しいノンデュアリティでの「私と気持ち」は真ん中に居座らない「控えめな存在」になります。

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控えめな存在だけど堂々とそこに居るそれが私であり、気持ちです

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従来のノンデュアリティのように「私は居ない」なんて表現しません。

私と気持ちは狛犬です(笑)だから堂々と両端に置いておく。

真ん中の神を敬うのが「私と気持ち」という「狛犬」になる。道の両端で堂々とさせてやらないとカッコつかないね(笑顔)

***

エネルギー感覚の目覚め

【一つになる体験 】

五感を磨くといわれますが、五感で受け取る情報は断片的であり、過去の記憶(相、自分の作り上げた情報)に則って 自分なりの解釈を加えたものとなります。

情報をありのままに受け取るにはエネルギー感覚(直感・第六感といわれたりもします。)に目覚めることが大切です。

五感の働きは意識を外に向けます。

五感のうちでも最もエネルギーが強いのが視覚です。

視覚と意識を切り離すために 目を開けたまま 内部感覚に意識を向けるエクササイズをします。(頭の後ろ,手等身体の部位に意識移動しながら意識と視覚を切り離す。)

眼を半眼にし、焦点付けをしないで対象を観る事も有効です。

一つになる(共鳴する)ためには意識を対象に留める必要があります。

そのためには、過去の記憶に戻らない。視覚ではなくエネルギー感覚をつかう。

このエクササイズの目的は「一つになる」のみにおかない。

「意識のコントロール」、「集中力」、「洞察力」、「感情、ストレスのコントロール」、

「リラックス体験など」:できた、できないに縛られると無心になれない故。

<自分の体験を通しての氣づき>

*雨など、視覚、聴覚二つの感覚を使うと意識の移動が重い。(意識の傾き)

*認知できないもの、動きのあるものが視覚に入ると 新皮質に意識が戻る。(意識の傾き)

*一度小さな対象に焦点を合わせ 視野を広げると意識はすぐに対象に移動。一つとなった実感。

*視野を広げたままで、意識を自然に留めていると、魂が震え涙が溢れ始めた。宇宙のエネルギーと共振。

*カーテン、壁など人工のものを見ると視野が閉じる。(見えなくなる)

観念が問題かもしれないという示唆を受け、また壁と一つになる。

自然、ありのままを好む自分が明確になる。

自分を作る人間に対しても 距離を置いてきた自分に氣づく。

和多志も壁も同じ元素、波動を共有しあい、宇宙として一つだと思いながらも、「役割は?」と思う自分がいる。

和多志であり、宇宙である、個であり全体であると思わずにはおれない自分がいる。

自然であれば何故思わないのかと尋ねられ、もう一度人工のものと一つになる。

【自己イメージを無に戻す。】 (下記の「無我体験))

自分だと感じているもの(ポジテイブもネガティブも)を 前頭葉、後頭葉を手で押さえ(FOフォルディング:前頭葉、後頭葉を結ぶ)ながらイメージで消す。

消したものは疑うと復活するので 唯、消してゆく。

シャワーで流す、

消しゴムで消す、爆破して霧散さす、燃やすなど。

恐怖症のように強烈なものは、その引き金となった出来事を映画を観るように思い浮かべる。それを白黒に変える。出来事のタイムラインを逆に回す。ビデオテープを引きちぎり燃やす。

自分に合った方法を見つけ(筋肉反射テストで確認)全ての情報を消してゆく。

<和多志の無我になる体験>

全てを消していく。

思いつく情報は金色のバラに入れ、呼吸とともにふっと飛ばし金色の光に戻していく。

消している自分を消すにはその自分をイメージで対象化し 消しゴムで消すのが有効であったが、主体と思っている自分をデジカメで撮り、パソコンで消去する(脳の情報は瞬時に消すほうが消しやすい)ほうが効果的だと思った。

自分を消すと魂が震え、身体のエネルギーが一挙に動き始める。

魂を消すと、胸の湧き立つエネルギーが渦になり、身体の感覚が消え、限りもない平安が訪れた。

五感に意識を傾けると(目を開くと)渦は消え去り、キラキラ光る光の海が広がる。

「自ら宇宙である」涙が溢れました。

消すとは脳の自分が生んだ情報のみであり、存在そのものを消すことではないことにも氣づきました。

魂もエネルギーでした。(勝手な、定かではない魂イメージを消すと胸からエネルギーとして立ち現われました。)