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美しい皇居を守る力

2024.11.19 03:34

皇居勤労奉仕のはじまりは、昭和二十年十二月に宮城県の奉仕団によってはじまった。

そのことは、宮内庁ホームページに掲載されているが、この奉仕のはじまりを以前に詳しく話してくれたのは、かれこれ十年以上は前になるのだろうか、勤労奉仕団の担当をしてくれていた宮内庁の方だった。

その担当者の方は、昭和二十年にはじまった最初の奉仕団に直接かかわったわけではないと言っていた。しかし奉仕団の担当をする中で、最初の奉仕団に参加されていた方が、今でもご奉仕に来ている事を知って、直にその方から最初のご奉仕の状況を聞いたそうである。

筆者は、その担当者の方から聞いた話と当時の日本の状況を鑑みて、皇居勤労奉仕団が本来はどういう奉仕であったのかを考えた。

勤労奉仕が始まった昭和二十年は、終戦の年である。だが、戦争が終わったといっても状況が悲惨であったことは歴史で語られるとうりである。だから、米軍の空襲によって焼かれた六十六の都市や、原爆を投下された広島と長崎は荒廃したままで、千島列島と沖縄にいたっては占領下におかれてしまった。また、首都東京でも六十回以上もの空襲にさらされていた為、死者は十万人を超え、都市はかつての面影をみる影もなかったといえる。

そんな状況下において、皇居内でも空襲の被害が著しかった事はいうまでもない。とくに昭和二十年五月の空襲で焼け落ちた明治宮殿の跡はそのままで、その状態を知った宮城県の若い有志の方が勤労奉仕を申し出たことが、今につづく皇居勤労奉仕団のはじまりになるのだそうだ。

そこで考えていただきたい。当時の東京は、十万人以上の死者が出るほどの空襲と敗戦で、秩序も無い無法地帯があちこちに存在する状態。しかも敵国だった米占領軍が支配している。そこに東京にきたこともない宮城県の若者が上京し、奉仕団の中には女性もいるのである。だから最初の宮城県奉仕団の方々は、故郷である宮城県を出発するさいに別れの水盃を交わしたのだそうだ。それから米と味噌を持参して泊まりがけで奉仕作業をおこない、作業以外も炊事から風呂焚きまでをこなしていたというのだ。

「覚悟が違う」筆者はそう思った。終戦直後と現代とではおかれた状況や時代の違いはある。が、しかし最初の宮城県奉仕団は、皇居が空襲でうけたままの状態であることを憂いで、たとえ自身が宮城県に帰れなくてもいいからと、覚悟を決めて勤労奉仕に上京していたのである。

今回、筆者は五年ぶりに皇居勤労奉仕に参加した。なんど参加しても、奉仕を終えたあとの清々しさと奉仕団の一体感は嬉しく、まだ奉仕をやりたい思いに、坊主頭の筆者でも後ろ髪をひかれる思いがあった。しかし今回、奉仕する作業場の担当者の方の話によると、どこかの奉仕団の中に、皇居内で撮影した写真をインターネットに掲載する者がいる事を聞かされた。筆者が所属する「さくら奉仕団」にはそんな者はいないと断言するが、しかしどこの奉仕団であれ、それは皇居で勤労奉仕をおこなう者の心構えではない。言うまでもなく、奉仕団は皇居に奉仕する団体で、お客でも観光でもないのだ。確かに時代の変化もあるので、その時代にはその時代の奉仕のあり方があっても良いとは思うし、一から十まで四角四面であれとは思わない。しかし最低限、規則を守ることは当たり前であって、そこが守れない者には奉仕団に参加する資格はない。さらに言えば、筆者がはじめて奉仕団に参加したのは二十数年前になるが、その頃は奉仕団への身元確認も金属検査もなくて、なんて国民を信頼していておおらかなんだと思ったものだ。しかし、インターネットの書き込みや写真の掲載などが起こりはじめてから、宮内庁の対応も変えざるを得なかったのだろう。

今回の題名である「美しい皇居を守る力」ーそれが勤労奉仕です。これは宮内庁のホームページから抜粋したものだ。筆者はこのスローガンのように、時代が変わっても最初の宮城県奉仕団からつづく奉仕の精神だけは、節度を無くしはじめた現代においても失ってはならないといいたい。