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キツネノマゴ/「狐」と「孫」の関係とは?

2024.11.19 05:24

http://blog.livedoor.jp/zassounojikan/archives/66717914.html 【キツネノマゴ/「狐」と「孫」の関係とは?】より

キツネノマゴ(狐の孫)/キツネノマゴ科/キツネノマゴ属

在来種 アジア各地に分布する 1年草 花期は8〜10月 草丈は10〜40㎝ 学名はJusticia procumbens

面白い名前の植物である。さぞや面白い話や逸話があるのではと大いに期待したのであるが、名前の意味は不明だそうだ。この草は本州の道端で普通に見られる(この辺りではここでしか見かけないが)植物のようだが、それが「キツネ」と、どう結びつくのか。いくら田舎でも道端にキツネがそうそういるわけがない。犬でも猫でもカラスでもスズメでもなく、なぜ「キツネ」なのだろうか。この植物の頭頂部にある穂を「キツネ」の尻尾に見立てたという説がある。また「マゴ」は「ママコ=継子」が訛って「マゴ=孫」になったという説があるが、なぜ「ママコ」なのかが分からないという。まあ「マゴ」でも「ママコ」でも意味が分からないのであるが。

学名の「Justicia procumbens」の「Justicia」は人名で「procumbens」は「伏臥した,這った,倒伏形の」という意味なので和名とは関係ない。また「キツネノマゴ」は漢名だと「爵床」となるが、検索すると中国語の「キツネノマゴ」の解説しか表示されない。この漢字に他の意味はなさそうである。

「狗尾草/エノコログサ=ねこじゃらし」「トラの尾」「ネズミの尾」など、植物の穂の部分は動物の尻尾によく例えられる。だが、それらは実際の動物の尾と見間違えるほど似ているわけではない。「エノコログサ=コロコロとした子犬の尻尾」「トラの尾=大きい」「ネズミの尾=細くて長い」のような象徴的な意味合いが強い。ならば、そこに特徴的な尾を持つ「キツネ」があったとしても不自然ではないし、それがこの草であっても問題はない。不自然なのは名前が「キツネの尾」にならなかったことだ。キツネの尾は長く太くフサフサとしているが、この草では少し物足りない気がする。

素直に「キツネノオ」と名付けていたら納得しそうだ。

「子供は親のイコン(アイコン)である」というのは昔読んだ記号論の入門書にあった言葉である。一般に「子」は親の小さなコピーといえるだろう。親とよく似ているのだが、いかんせん小さい。キツネの立派な尻尾は、あの「サイズ感」があってのものだが子供だとやや劣る。「孫」になるともっと小さいだろう。それが血の繋がりがない「ママコ」ともなると、ほとんで似てはいないだろう。つまり「キツネの尻尾にはあまり似ていませんよ、けれど雰囲気はあります」という意味の名前なのではないか。得意げに書いているが、ただのオッサンの意見であるので真に受けないように。

「キツネノマゴを正しい名とする」という条件付きだが、この名前はどことなくユーモアを感じさせる。江戸時代に入ってからの命名ではないだろうか(いつもの勘である。ただの思い込みともいう)。意味がはっきりしていないのが難点であるが、そこに江戸時代に花開いた庶民文化の影響があるような気がする(またもや勘である)。俳句や川柳、頓知や洒落のような言葉遊びに影響されているのではないか。と、素人は考える。けれど調べない。素人は気楽である。ところで、こんな素性の分からない名前をそのまま科名や属名にするのはおかしいのではと思われるかもしれない。実は日本には「キツネノマゴ科キツネノマゴ属」の植物はこれしかいないのである。そりゃあ「キツネノマゴ」を使うしかないわな。歴史ある名前は変えられないのだから。

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マントラ瞑想・2【呼びかけ&名を呼ぶということ】

「名は体を表す。」と言われます。姓名判断も「自分がどう名乗るかで運命が大きく左右される」と主張します。名は実体を生んでいくということでしょうか?

観測者がいなければ 現象は不明とされることと類似しています。

あなたの世界では あなたが意識したものだけが この世に存在するものとなります。

地動説を主張したガリレオは宗教裁判にかけられました!!

地動説は多くのものが意識で承認して初めて、真実だと言われるようになりました。

顕在意識で認めることができたものだけが存在を許される。実態を与えられるとも考えられます。

また「名を知るとは相手に勝つこと」のようにも考えられてきました。

名の知れない化物が 化けの皮をはがされることを「名を呼ぶ」と表現するのでしょうか?

名を呼ぶことに纏わる二つの物語の概略をご覧ください。

「大工とおにろく」 あらすじ

大雨が降るとすぐに橋が流されてしまう川があった。

困った村人たちは相談して橋造りの名人の大工に頼むことにした。

大工が流れの速い川を眺めていると、川から鬼が現れて、目ん玉をよこせば立派な橋を架けてやるという。

翌日大工が川にいくと、既に橋は半分できあがっていた。(略)

鬼は自分の名前を当てれば目ん玉を諦めるという。

鬼の名前がわかった大工は 翌日鬼にお前の名前は鬼六だ!と言うと鬼は姿を消してしまった。

鬼六の架けた橋はどんな大雨でも流されることはなかった。

「スフィンクスの謎」 あらすじ

スフィンクスの謎かけとは「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く者とは誰のことか?」です。答えられないものは殺されてしまいます。

そこに、勇敢な若者オイディプスが通りかかります。

スフィンクスはその前に立ちはだかり、同じ謎をかけました。

聡明なオイディプスは直ちに「それは、人間だ」と答えました。

スフィンクスは恥ずかしさのあまり、丘の上から身を投げ出して死んでしまったという話です。

タロットカードの13には名前がありません。

その理由を「秘伝カモワンタロット」では「13という数字と同様、言葉に出して呼び出してはならないほど恐ろしい存在だから」だと述べています。

13日の金曜日はイエスが処刑されたとする「不吉な日」のいわれがあるからでしょうか?

旧約聖書でも神の名をみだりに呼んではならないと説きます。

いずれも名を呼ぶことの力を連想してしまいます。

フォーカシングにおいても「漠然とした体の感じ・フェルトセンス」にハンドリングしながら、ぴったりした名前がつくと「す~」とします。

これをシフトが起きるといいます。

名を知ることで意識の統合が起きるということでしょうか。

神の名を呼ぶとは 祈りの対象を定めることであり、内の神を知ることとなり、神と一つになることへの希求と取れるのでしょうか。

祝詞、呪文、言霊、スートラ、マントラの違いはどこにあるのでしょう?

創世記は全ては言葉によって産まれたと記しています。

ヨハネ福音書の最初にも「はじめに言葉があった」と記しています。

大和言葉は音が大事、漢字は意味が大事ともいわれます。

「名」・「言葉」の瞑想は集合無意識に出会う扉を叩くことかもしれません。

「名」・「言葉」連想ゲームで楽しむことは グループでのマインドマップ 作りにな

り、放射思考力を回復しながら、みんなで自分たちの集合無意識に触れ始めるきっかけになることでしょう。

それをコラージュメーキングで表現する、あるいはスートラ作りをするなどの活動に展開すると瞑想からワークショップに連動するプログラムとなります。