杉並区 13 (31/10/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧田端村 (2) 高野ヶ谷戸、日性寺、大ヶ谷戸
杉並町 (杉並村) 旧田端村 小名高野ヶ谷戸/日性寺/大ヶ谷戸
小名 高野ヶ谷戸 (こやがいど)
- 荻外荘 (てきがいそう)
- 松渓橋
- 西田町大ケ谷戸遺跡 (松渓公園)
- 暗渠遊歩道 (用水路跡)
- 谷戸 (やと) 遺跡 (成田西ふれあい農業公園)
小名 日性寺 (にっしょうじ)
- 切通し緑地
小名 大ヶ谷戸 (おおがいど)
- 庚申塔 (127番)
小名 田端 (本村) に引き続き、旧田端村にあった小名の高野ヶ谷戸、日性寺、大ヶ谷戸を巡る
杉並町 (杉並村) 旧田端村 小名高野ヶ谷戸/日性寺/大ヶ谷戸
江戸時代の旧田端村には4つの小名があり、その内の高野ヶ谷戸、日性寺、大ヶ谷戸を見ていく。
江戸時代から明治時代にかけては当時からあった大ヶ谷戸と日性寺の境界線でもあった五日市街道 (現在の都道7号) 沿いに民家があり、それ以外も江戸時代の村道沿いに集まっている。昭和初期までは民家の拡張はごく僅かであまり変化はみられない。戦前から戦後昭和30年頃までは高野ヶ谷戸で民家が増えているが、日性寺と大ヶ谷戸ではほとんど変化が見られない。住宅地が整備され、民家が増えるのは1960年代からで、この期間でも高野ヶ谷戸中心に増加している。現在では公園などを除いて、全域が住宅地となっている。
この三つの地域では縄文時代の遺跡跡は多くあるが、人口が少なかったことからか、江戸時代までの史跡などはほとんど無い (残っていない)
小名 高野ヶ谷戸 (こやがいど)
高野ヶ谷戸は荻窪台地からしみ出る湧水路流域の天水田と呼ばれた狭い低湿地で小さな谷戸だったので、小ヶ谷戸と呼ばれていたが、隣村の天沼村にも小ヶ谷戸があったため、高野ヶ谷戸に改称されたと考えられている。
荻外荘 (てきがいそう)
今日前半に訪れた角川庭園のすぐ西側の住宅街の中に荻外荘 (てきがいそう) という邸宅がある。ここは戦前に内閣総理大臣を3度務めた近衞文麿が、内閣総理大臣就任に伴う訪問客の多さから逃れるため、東京郊外に邸宅を求め、1937年 (昭和12年) から1945年 (昭和20年) 12月に自決するまでの期間を過ごした住まいだった。西園寺公望によって荻外荘 (てきがいそう) と名付けられている。荻外荘は近衞家の生活の場であると同時に、第二次近衞内閣の会談など首相官邸に準ずる政治空間として機能した。元々は東京帝国大学医科大学教授や宮内省侍医頭などを歴任した入澤達吉の荻窪別邸の楓荻荘 (ふうてきそう) を建てた楓荻凹處 (ふうてきおうしょ) として1927年 (昭和2年) に造られた。
2014年 (平成26年) に荻外荘の保存の為、杉並区がが購入している。当時の建物は半分が残っているが、残り半分は豊島区に移築されていた。近年、残っていた部分の解体復元、残り部分の復元工事が行われ、終了間近だが見学ができるかはわからないが訪れた。正門に着くと工事は終了していたが、門は閉まっていた。
そこにいた工事業者に聞くと公開再開時期はまだ決まっていないという。坂道を下ると完成した全景が見えるとアドバイスをされ、丘を下ると見事な邸宅が見れた。内部は見学はできず、外からしか見れなかったが、十分に堪能できる邸宅だった。
松渓橋
荻外荘から南に進むと善福寺川にぶつかる。川には松渓橋が架かっている。川沿いには小さな松渓橋公園が整備されている。
西田町大ケ谷戸遺跡 (松渓公園) (2024年4月8日 訪問)
荻外荘から南に善福寺川を渡った西田小学校の北隣松渓公園がある。ここには今年の4月に訪れた。松渓公園は、1976年 (昭和51年) に縄文遺跡を地下にそのまま保存してつくられた公園だ。1974年 (昭和49年) に現在の松渓公園の場所で隣の西田小学校のプールを造成するための事前発掘調査が行われ、縄文時代中期 (約4500年前) の土器、石器が出土し、西田町大ケ谷戸遺跡と名付けられた。プール工事は中止になり、遺跡の保存のため埋め戻され、その上に松渓公園が作られた。公園の中奥にはコナラの木で覆われた塚があり、遺跡はこの下に埋蔵されている。塚の上には園山俊二のはじめ人間ギャートルズのイラストが置かれていた。園山俊二がこの漫画創作の為に色々な遺跡を訪れたそうだ。イラストは区内で三カ所設置されており、上井草の切通し公園でも見かけた。
暗渠遊歩道 (用水路跡)
松渓公園の西側には南北に遊歩道が整備されている。南は都道7号に、北は大きくカーブして善福寺川の松見橋付近に合流している。昔、存在していた水田への給水に使われていたのだろう。この地域にはこの様な用水路が多く存在していたが、殆どが昭和40年代に暗渠化され、遊歩道として整備されている。
谷戸 (やと) 遺跡 (成田西ふれあい農業公園)
旧小名 高野ヶ谷戸の南端にも4000~5000年前の縄文時代の住居跡から石器や土器が発見されている。1941年 (昭和16年) から数回発掘調査が行われ、2015年 (平成27年) に公園として整備する際の調査では、住居跡や土坑などが発見されており、多数の縄文土器や石器が出土している。谷戸遺跡 (やといせき) と命名されている。現在では成田西ふれあい農業公園となっている。善福寺川の両岸には無数の遺跡がある。縄文時代には善福寺川という水の便が良い土地に多くの人が暮らしていた事がわかる。
小名 日性寺 (にっしょうじ)
この小名日性寺には日性寺という寺院が存在していた事からこの様に呼ばれていたが、この日性寺は現在は存在せず、かつての場所つ不明だそうだ。
切通し緑地
谷戸遺跡の南には都道7号線 (杉並あきる野線、新五日市街道) が東西に走っている。この都道沿いに小さな公園がある。切通し緑地という。ここからは北側の善福寺川緑地公園入口への坂道がある。この坂道がかつては切通しとなっていたのだろう。
小名 大ヶ谷戸 (おおがいど)
都道7号線の南側が大ヶ谷戸になる。この地域は善福寺川両岸の台地に挟まれた本村田圃と呼ばれた広い低湿地で、大きな谷戸に面していたので、大ヶ谷戸と呼ばれていた。
庚申塔 (127番)
切通し緑地から都道7号線 (五日市街道) を挟んだ場所に庚申塔が置かれている。1708年 (宝永5年) に造立された唐破風笠付角柱で、正面上部に日月が刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛立像と三猿が浮き彫りされ、両脇にはニ鶏が刻まれている。石塔下部には奉納庚申供養爲二世安楽也と刻まれている。
これで本日の予定は終了。
参考文献
- すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)