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詩という仕事について

2024.11.19 12:54

https://nina313.hatenablog.com/entry/2016/05/06/050232 【詩という仕事について】より

 ボルヘスというひとをもっとよく知りたいとき、ぜったいに読んでおくべきだと思う本が個人的に二冊あって、一冊は先日紹介した『The Last Interview』に収められたリチャード・バーギンとの対談(邦訳なら柳瀬尚紀訳の『ボルヘスとの対話』)、そしてもう一冊が、この『詩という仕事について』である。これまで記事にしてこなかったというだけで、じつはこの本を読んだのは今回がたぶん三度目のことだ。全六回にわたって実施された、ハーヴァード大学での詩学講義録。

 これまで二度もこそこそ読んでおいて、一度もこの本について語ってこなかったのは、内容のあまりの豊富さに圧倒されてしまっていたからである。というか、この本の内容の豊富さは「まとまりのなさ」と言い換えても違和感のないもので、話題があまりに多すぎて、ちょっと感想を語る気にもなれなかったのだ。まったく同じ印象を抱いたのが、先日の対談集『The Last Interview』だった。なにかひとつの結論に向かって一直線になるような書き方よりも、こういうふうに様々な話題が取り沙汰されるときのほうが、ボルヘスは輝くようにも思える。

 ちなみに、この文庫本はかつて、『ボルヘス、文学を語る――詩的なるものをめぐって』という題で刊行されていたものである。どちらの題名にも含まれるとおり、話題は詩、この不思議かつどこまでも魅力的なもののことなのだが、ボルヘスは冒頭ですでに、詩というものが何であるかを定義することはできない、と告白している。以下の引用文でアウグスティヌスが「時」について言ったとおりのことが、詩についても適用されるというのだ。

「時とは何か? 人びとに時とは何かと訊かれなければ、私は知っている。人びとにそれは何かと訊かれれば、私は知らない」(アウグスティヌスからの引用、31ページ)

「われわれが非常によくおちいる誤りは、ある事柄を定義できないのだから、それについては無知である、と思い込むことです。ただ今チェスタートン風の気分であれば(これは、結構この上ない気分だと思いますが)、われわれは何かについて何も知らないときにのみ、その何かを定義し得ると、むしろ言いたいわけです」(30ページ)

「詩とは何であるかを、われわれが心得ているということです。非常によく心得ているがために、かえって他の言葉で定義できない。コーヒーの味を、赤い色を、黄色を、あるいは怒りの、愛の、憎しみの、日の出の、日の入りの、愛国心などの意味を、われわれが定義できないのと同じです。こうしたものは、われわれの内部に深く根ざしているがゆえに、そのわれわれが分かち持つ、ありふれた記号によってのみ表現され得るのです」(30~31ページ)

 つまり、この本で語られているのは、すでにその定義からして曖昧なもの、ということになる。しかし、詩とは何であるかを、われわれはすでに「心得ている」。そしてそれは、至るところに潜んでいるというのだ。

「私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。詩は、ことさら風変わりな何物かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時、われわれの目の前に現われるやも知れないのです」(9ページ)

「美は、常にわれわれの周りに存在するのです。ある映画のタイトルとして、われわれのもとを訪れるかもしれない。あるポピュラー・ソングのかたちをとって、やって来るかもしれない。偉大な、あるいは有名な作家の仕事のなかでお目に掛かるかもしれないのです」(26ページ)

 詩が本のなかにしか存在しないものだというのが誤った考え方であるというのは、容易に納得できるのではないだろうか。『伝奇集』に収められた「ハーバート・クエインの作品の検討」でも、「すぐれた文学は非常にありふれたもので、その域に達していないような街の会話はほとんどない」と書かれていたではないか(『伝奇集』94ページ)。俳句や短歌といった日本が誇る短詩も、世界に潜む詩を切りとるための手段、というふうに思えてくる。散文では同じ感動を伝えることができない、という、詩であることの必然性も、やはり日本の短詩を思い出させる。

「私はそれを思い出すことができる、理解することができる(単なる理性によってではなく、より深い想像力によって)、しかし、私はそれを翻訳することはできない」(125ページ)

 だが、ボルヘスが主に語っているのは「広義の詩」、すなわち叙事詩や抒情詩といった、文学の黎明期から続いている潮流、言ってしまえば「文学そのもの」と呼んでも差し支えないもののことである。以下の描写などは、マングェルが『図書館』のなかで書いていたこととそっくり同じだ。すなわち、「キプリングの『少年キム』のあとに読む『ドン・キホーテ』と『ハックルベリー・フィン』のあとに読む『ドン・キホーテ』は別の本である」(マングェル『図書館』178ページ)。

「詩の「初めて」の読みこそ本物であって、以後はその折りの感覚が、印象が繰り返されると信じられがちですが、私に言わせれば、それは単なる思い込みであり、記憶の単なるまやかしであり、今のわれわれの情熱とかつて抱いた情熱の単なる混同です。つまり詩は、一回限りの新しい経験であると言えるでしょう。私が一篇の詩を読むたびに、その経験が新たに立ち現われる。そして、これこそが詩なのです」(14ページ)

 ここから、書物そのものの定義が話題になる。そしてそれは、「美の契機」であるというのだ。

「エマソンがその著作のある個所で書いています。図書館は、死者らで満ちあふれた魔の洞窟である、と。しかも、これらの死者は甦ることが可能なのです。われわれがページを開くと、生命を回復することが可能なのです」(10ページ)

「あらゆる書物は読まれる価値がある、と私は思っています」(18ページ)

「告白しますが、書物はことさら取り上げて崇拝すべき不壊の対象ではなくて、むしろ美の契機である、と私は思っています。当然そうあるべきでしょう。言語は絶えず変化しているのですから」(19ページ)

 言語の変化というのは、文学に対してわれわれが抱く評価にも大きく関わっている。書かれた当時に斬新だった表現が現代の観点からは陳腐、ということは大いにありえるし、もちろんその逆もまた然りである。

「これらの詩行はおそらく、おおよそ八十年前に書かれた頃に比べて、遥かに生彩に富んでいるはずです。われわれは映画によって、視覚的映像の素早い連鎖を追うことを教わったのですから」(23ページ)

「言語は変化します。ラテン人たちはこの事実をよく心得ていましたが、読者もまた変化するのであって、このことは、ギリシア人たちの古い隠喩を思い出させます。いかなる人間も同じ河に入ることはできない、という隠喩もしくは真理ですが、私の考えでは、そこには要素として不安が含まれています」(24ページ)

「"She walks in beauty, like the night" 「夜のように、美のなかを彼女は歩む」。あまりにも完璧なので、われわれはそれを当たり前のことと思うのです。われわれは考えます。「なんだ、こんなもの、その気になっていたらわれわれだって書けたぞ」。しかし、その気になったのはバイロン一人でした」(60ページ)

 言語が変化するもの、という観点に立ってみると、自分と同時代の読者を想定して言葉を綴る、ということの意味が大きく変わってくる。たとえば現代的な言葉、流行の文句などで詩を書こうとしたら、百年後にはだれにも意味が伝わらなくなっているかもしれないし、それゆえに非常に斬新な表現として受け取られることになるかもしれない。また、もしその表現が未来でも広く人口に膾炙していたとしたら、詩としては読まれない可能性だってありえる。時代を意識することの無意味さが際立ってくるではないか。

「一篇の作品が、傑出した、あるいはそうでない詩人によって書かれたか否かという点ですが、これは文学史家たちにとってのみ意味のあることでしょう」(26~27ページ)

「いったん私が書いてしまった以上、詩行はもはや私には何の関わりもありません」(27ページ)

「詩人というのは、恐らく、無名の存在である方がよろしいのでしょう」(27ページ)

「私は作品を書くとき、読者のことは考えません(読者は架空の存在だからです)。また、私自身のことも考えません(恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)。私が考えるのは何を伝えようとしているかであり、それを損わないよう最善を尽くすわけです」(166ページ)

 先日記事にした『The Last Interview』にも、こんな言葉があったのを思いだす。「現代的であろうとする必要などありません。すでに現代を生きているのですから」(『The Last Interview』138ページ)。同じことが、この本でも以下のとおり詳説されている。

「私は非常にありふれた誤りを犯しました。何よりもまず、現代的であろうと精いっぱい努めたのです。ゲーテの『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』のなかのある人物が言っています。「何とでも言えよ。だが、僕が現代的な人間であることを否定はできないさ」。ゲーテの小説中の実に愚かしいその人物と現代人であろうとする欲求との間に、私は差異を認めません。そもそもわれわれは現代人であるのですから、わざわざ現代人たろうと努めることはないのです。主題も、文体も関わりありません」(159~160ページ)

「われわれは現在に生きているという、まさに単純な事実によって現代人なのです。過去に生きるすべを発見した者はまだいませんし、未来主義者でさえも未来に生きる秘訣を見いだしてはいないのです。欲すると欲せざるとに関わりなく、われわれは現代人なのです。私のように現代を攻撃するという遣り口そのものが、現代人たる一つのありかたなのかもしれません」(160~161ページ)

「私がもっとも高く評価する研究の一つですが、文学史の研究によって、われわれはかえって惑わされるのではないか、と私は考えます。われわれは、歴史にあまり注意を払わない方がいいのではないでしょうか(言い過ぎでなければ良いと思いますが)。文学の、ついでに言えば、その他すべての芸術の歴史を意識するのは、実は、不信の、懐疑の一つのかたちなのです」(162~163ページ)

 また、言語の変化ということに関連して言えば、あらゆる言葉は異なる出自を持つ唯一無二のものである、という点も、詩における「その表現である必要性」を強く意識させることだろう。以前、堀田季何の歌集『惑亂』について書いたとき、文語短歌の必然性について長々と書いた記憶がある。語源や、ある単語が抱える微細なニュアンスに無頓着なひとは、けっして詩人にはなれない。

「歴史的に考えていくと――もちろん、この例は適当に選んだもので、世界各地に類例が見いだせるでしょう――、言葉は抽象的なものとしてではなく、むしろ具体的なものとして始まったことが分かります。私の考えでは、「具体的」というのはこの場合、「詩的」というのとまったく同じ意味です。例えばdreary「もの寂しい」という言葉について考えてみましょう。drearyという言葉は「血まみれの」を意味しました。同じようにglad「嬉しい」という言葉は「磨き上げた」を意味し、threat「脅し」という言葉は「険悪な群集」を意味しました。現在では抽象的なこれらの言葉も、かつてはどぎつい意味を持っていたのでした」(113~114ページ)

「例えば英語には――いや、むしろスコットランド語には――eerie「不吉な」とか、uncanny「神秘的な」とかいった単語があります。これらの単語は他の言語には見いだせません(そうですね、もちろん、ドイツ語にunheimlich「不吉な」がありますが)。これは、なぜでしょう? 他の言語を話す人びとがそうした単語を必要としないからです。ある国民はそれが必要とする語彙を産み出していきます。チェスタートンによって――ワッツに関する本のなかだと思いますが――提示されたこの発言は、辞書でそう思わせられるように、言語は学士院会員もしくは文献学者の発明品ではないという趣旨であります。それはむしろ、時間を、長い時間をかけながら農民によって、漁民によって、猟師によって、牧夫によって産み出されてきました。図書館などで生じたものではなく、野原から、海から、河から、夜から、明け方から生まれたものなのです」(115~116ページ)

 ちなみにこの引用文中に登場してくる単語、「eerie」あるいは「uncanny」は、ボルヘスお気に入りの言葉で、英語で行われたバーギンとの対談でも実際に使用していた。以下の箇所。

「BURGIN: You like Alice in Wonderland, don't you?

 BORGES: Oh, it's a wonderful book! But when I read it, I don't think I was quite as conscious of its being a nightmare book and I wonder if Lewis Carroll was. Maybe the nightmare touch is stronger because he wasn't aware of it, no? And it came to him from something inner.

 I remember as a child I, of course, I gently enjoyed the book, but I felt that there was – of course, I never put this feeling into words – but I felt something eerie, something uncanny about it. But now when I reread it, I think the nightmare touches are pretty clear. And perhaps, perhaps Lewis Carroll disliked Sir John Tenniel's pictures, well, they're pen-and-ink drawings in the Victorian manner, very solid, and perhaps he thought, or he felt rather, that Sir John Tenniel had missed the nightmare touch and that he would have preferred something simpler.」(『The Last Interview』pp.72-73)

「バーギン:『不思議の国のアリス』、お好きですよね?

 ボルヘス:ああ、すばらしい本です! でも初めて読んだときに、あの本が抱える悪夢めいた様子に気づいていたとは思えません。ルイス・キャロル自身も、気づいていたかどうか。気づいていなかったからこそ、あれほどまでに悪夢めいているのではないでしょうか? あれはなにか作家の内面から発露したもののように思えるのです。

 子どもだった時分、もちろんあの本を楽しみはしたのですが――当然ながら、その感覚を言葉にはしませんでしたけれど――なにか不気味な、薄気味悪いものを感じもしたのです。しかし今になって読み返してみると、あれははっきりと悪夢ではありませんか。おそらく、ええ、これは推測なのですが、ルイス・キャロルはジョン・テニエル画伯の挿絵を嫌っていたのではないか、と考えてしまいます。ヴィクトリア朝らしいペン描画で、非常に細密な絵です。きっとルイス・キャロルは、ジョン・テニエルは悪夢めいた様子を見逃している、もっと簡潔な絵のほうが良かった、と思っていたに、いや、感じていたにちがいありません」

 辞書的な解釈では同意語で代替可能な単語も、その出自まで鑑みると「これしかない!」という表現になる。すると、その単語の代替可能な部分、つまり意味については、じつはなにか決まった回答を用意する必要さえないのだ。ただ、詩を感じられればいい。

「言語が記号の代数学であるという、われわれの考えは辞書に始まると考えられます。辞書に対して恩知らずな振る舞いをする気は私にはありません。私が好んで読むのは、ジョンソン博士、スキート博士、簡約オックスフォード辞典の共同編集者らの仕事ですから。しかし私の考えでは、単語と定義の長々しいカタログを所有するという事実のせいで、われわれは、定義が単語を説明し尽くしていると、そしてこのコインの、この単語のすべてが互いに交換可能であると信じ込まされているのです。しかし、われわれは心得ている、そして詩人たちは感じていると思われます。あらゆる単語は自立していること、また、あらゆる単語は唯一無二のものであること、をです」(131ページ)

「私が強調したいのは、われわれは一つの意味に、多くの意味のなかの一つにこだわる必要はないということです。こうした仮説のいずれかを、あるいは両者を受け入れる前に、われわれは詩を感じる。"The mortal moon hath her eclipse endured, /And the sad augurs mock their own presage" という詩行は、少なくとも私にとっては、それがどう解釈されるかという単なる事実を超えた美しさを備えているのです」(120~121ページ)

 また、翻訳ということについて言えば、逐語訳がもたらす「ささやかな驚き」が強調されていて、これらの箇所は非常に興味深く読んだ。思えばホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』に何度も登場し、もはや決まり文句のようにさえ思える、「ムーサよ、語れ」というとびきり美しい日本語は、逐語訳による収穫そのものである。

「逐語訳は、マシュー・アーノルドが指摘したように粗野で奇異なものになるだけでなく、新しく美しいものになる可能性があると言えるでしょう。これは皆さんが感じておられることだと思います。ある異国風の詩の逐語訳を検討した場合に、何か未知のものをそこに期待するわけで、仮にそれが見いだせなければ、われわれはいささか落胆します」(96~97ページ)

「実際に、われわれの多くが逐語訳だけを認めています。あらゆる人に公平でありたいと願うからです。これは過去の翻訳者たちには、「犯罪」と思われたかもしれません。彼らはもっと有意義なことを考えていました。その望みは、自国語が原語と同程度に、優れた詩を産むことが可能であることの証明でした」(101ページ)

「聖書の実に見事な翻訳が行なわれるのを見て、人びとは、外国風の表現のなかにも美があることを発見し、そのように感じ始めました。今日では、すべての人が逐語訳を好みますが、その理由は、われわれが期待する、あのささやかな驚きを逐語訳が常に与えてくれるからです」(103ページ)

 ただ、翻訳という所業があらゆる時代を通じて逐語的に為されてきたわけではない。「既知の可能性のなか」にも、「外国風の表現のなか」にも、まさしく詩はどこにでも現れるのだ。インドでの哲学に対する姿勢からも、同じ美学、確信が感じられる。

「私の推測ですが、読み手たちは、いずれにせよ最良の読み手である者たちは、詩作品そのものを念頭においていました。彼らは『イーリアス』や『オデュッセイア』に関心はあっても、瑣末な言葉の問題に注意を払わなかった。中世全体を通じて、人びとは逐語的な移し替えとしてではなく、再=創造される何ものかとして翻訳を考えていたのです。ある作品を読んで、自分の力のおよぶ範囲で、自分の物した言葉の既知の可能性のなかで、自分なりの作品を産んでいく、そうした詩人の仕事としてです」(101~102ページ)

「インド人は古代哲学の用語を今日の哲学の新しい表現に翻訳するのですが、これは素晴らしいことです。これは、人が哲学を信じるという、あるいは詩を信じるという、そして昔美しかったものは今も美しくあり続けることができるという、そうした考えを保証するものです」(163ページ)

 詩として書かれることの必然性、という話題もある。以下の引用文中で登場してくる古代スカンジナビアの詩、とりわけ「ケニング」と呼ばれる暗喩は、『永遠の歴史』というボルヘスの別の本で詳説されているものだ。表現についてはほかにもたくさんの話題がある。

「言葉は、とスティーヴンソンは言います、生活のありふれた日常的なやり取りのためのものだが、詩人はそれを魔術的なものに変えてしまう。私はスティーヴンソンと同じ意見であるような気がしますが、しかし彼の誤りを証明することがひょっとするとできるのではないかとも思います。あの孤独だが素晴らしい古代スカンジナビア人たちがその悲歌によって、彼らの孤独感、彼らの豪気、彼らの忠誠心、荒々しい海と荒々しい戦いに対する彼らの感情などを伝ええたことを、われわれは知っています。しかし私は、われわれにとってきわめて近しい、そして何百年もの歳月を生き延びてきた、あの詩篇を物した人間たちを想像します。仮に散文で考えなければならなかったら、あの人間たちは大いに困惑しただろうと思うわけです」(112~113ページ)

「肝心なのは、若干のパターンが存在するということではなくて、それらのパターンによって無限に近い変奏が可能であるという事実です」(51ページ)

「われわれには二通りの詩の書きかたがあるのです。人びとはよく、平易な文体とか凝った文体と言います。が、私はこれは間違っていると思う。肝心なのは、本当に意味があるのは、詩が生きているか死んでいるか、ということであって、文体が平易か凝ったものであるかではないからです。それは詩人しだいです。例えば、平易に書かれた非常にショッキングな詩があって、その種の詩は私にとって、別種のものに劣らず素晴らしい。実を言うと、私はしばしば、より素晴らしいと思ったりするのです」(128~129ページ)

 それ自体は微細な、しかしそれによって決定的な「精確さ」をもたらす表現というものもある。これを読んだとき、わたしはただちに『ムッシュー・テスト』の一文を思い出した。「あの眼は、眼に見えるどんなものよりもほんのすこし大きい」(ヴァレリー『ムッシュー・テスト』66ページ)。

「"A rose-red city, half as old as Time" 「時とおおよそ同じほど劫を経た、薔薇色の都市」。もし詩人が"A rose-red city, as old as Time" と書いたとしたら、何も書いたことにはならないでしょう。しかし、"half as old as Time" という言い回しは、絶妙な精確さを印象づけます。あの異様ながら一般的な英語の表現"I will love you forever and a day" 「私は永遠と一日、あなたを愛します」で得られるのと同種の、あの不思議な精確さです。foreverはa very long time「非常に長い時間」の意ですが、人間の想像力にとっては抽象的でありすぎるわけです」(55~56ページ)

 それから、ボルヘスは暗示のもたらす効果についても何度も書いている。断定するよりほのめかすほうが、読み手には伝わりやすいのだ、と。

「私の理解によれば、はっきりした物言いより、暗示の方が遥かにその効果が大きいのです。人間の真理にはどうやら、断定に対してはそれを否定しようとする傾きがある。エマソンの言葉を思い出してください。"Arguments convince nobody" 「論証は何ぴとをも納得させない」と言うのです。それが誰も納得させられないのは、まさに論証として提示されるからです。われわれはそれをとくと眺め、計量し、裏返しにし、逆の結論を出してしまうのです」(49ページ)

「今の私は、表現なるものを自分はもはや信じていないという結論――これが結論では惨めな気もしますが――に達しました。私が信じているのは暗示だけです。結局のところ、言葉とは何なのでしょうか? 言葉は、共有する記憶を表わす記号なのです。仮に私がある言葉を使えば、皆さんはその言葉が意味するものを、なにほどか経験することになる、そうでなければ、言葉は皆さんにとって何の意味も持たないわけです。私の考えでは、われわれは暗示することしかできない、つまり、読み手に想像させるよう努めることしかできない。頭の回転が速ければ読み手は、われわれのちょっとしたヒントで満足するのです」(166~167ページ)

「「われわれは夢と同じ材料で作られている」。冒瀆と思われるかもしれませんが――もっとも、私はあまりにもシェイクスピアを愛しているので、そんなことは気にしません――この言葉を読めば(それほどじっくり読むまでもないと思います。むしろ、これを含む沢山の贈り物をしてくれたことに対して、われわれは彼に感謝すべきでしょう)、われわれの生は夢に似ている、あるいはそこには夢に似た本質が潜んでいるという事実と、「われわれは夢と同じ材料で作られている」という、あのやや断定的な物言いとの間には、きわめて微妙な矛盾が存在します。仮にわれわれが夢のなかで現実的な存在であるならば、あるいは単にかずかずの夢を夢見る者であるならば、あのような断定的な物言いが果たしてできるのでしょうか? このシェイクスピアの文章は、詩よりはむしろ哲学に属しています――もちろん、文脈によって詩にまで高められている、かさ上げされておりますが」(44~45ページ)

 さて、ここからは先述した「広義の詩」の解剖後、すなわち「叙事詩の堕落したもの」としての小説について。

「詩は分裂してしまいました。つまり、一方に抒情詩と悲歌があり、他方に物語が、小説があるわけです。ジョーゼフ・コンラッドやハーマン・メルヴィルのような作家もいますが、小説は叙事詩の堕落したものと考える誘惑を感じることもあります。小説もさかのぼれば高貴な叙事詩なのですから」(71ページ)

「ある意味で、人びとは叙事詩を渇望しています。私の印象では、叙事詩は人間たちが必要としているものの一つです。あらゆる場所のなかでハリウッドこそは、世界に叙事詩を提供してきた場所です」(77ページ)

 現代における小説の窒息状態については、いつもどおり、ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』で詳説されている、と書けばそれで済むことだろう。ただ、わたしはいつも、小説というのはそれほど古い文学形式ではない、と考えてきたのだが、叙事詩から連綿と繋がる、と言われてみると、もはや古くないなどとは考えられない。小説(ここではとりわけ長篇小説)の危機的状況については、ボルヘスも以下のとおり警鐘を鳴らしている。

「私の考えでは、小説は完全に袋小路に入っています。小説に関連した、きわめて大胆かつ興味深い実験のすべての――例えば、時間軸の移動というアイデアや、異なる人物たちによる語りというアイデアの――行き着くところは、小説はもはや存在しないとわれわれが感じるような時代でしょう」(78~79ページ)

 

「今日では、仮に冒険が試みられたとしても、それは失敗に終わることをわれわれは知っています。『アスパンの恋文』――自分が感心した例を考えているのですが――を読むとき、われわれはその恋文が決して見つからないことを知っています。フランツ・カフカの『城』を読むとき、われわれは男が城のなかに決して入れないことを知っています。すなわち、われわれは幸福や成功というものを本気で信じることはできないのです。これこそが、われわれの時代の貧しさの一つであるのでしょう」(72~73ページ)

「ルベン・ダリーオの指摘のとおり、文学に関しては誰もアダムではありません。しかし、物語は最後の文章のために、詩は最後の一行のために書かれるべきだ、と述べたのは他ならぬポーでした。これが堕落して生まれたのがトリック・ストーリーであり、十九世紀と二十世紀の人間たちはあらゆる種類のプロットを創造したのでした。これらのプロットは時には大変に巧妙です。ただ話として聞くだけならば、叙事詩のそれより巧妙なものがあります。しかし、何となく技巧的な感じが、いや、むしろ瑣末な感じがつきまとうわけです」(73~74ページ)

 とりわけおもしろいのが、ボルヘスがどう見ても感心していないフランス文学について。なんでそんなに毛嫌いするんですか、と、だれか尋ねたりはしなかったのだろうか……。

「現代文学のいわば罪障の一つは、過剰な自意識であります。例えば、フランス文学は、世界でも優秀な文学の一つであると私は考えています(この点を疑う人がいるとは思えません)。しかし、フランスの作家たちはおおむね、自意識が過剰であるという印象を私は抱いています。フランス作家は、何を書くのかはっきりする前に、まず自己の定義づけを行ないます。彼は言います。これこれの地方に生まれ、社会主義者の気味もある(例えば)カトリック教徒は、果たして何を書くべきだろうか? あるいは、第二次世界大戦を経た今日、われわれはいいかなる書きかたをすべきだろうか? 私の考えでは、こういう迷いのなかで仕事をしている者が世界中に大勢いるのです」(168ページ)

 でも、これは的外れな批判、というわけではぜんぜんない。わたしが思いだすのは、ロジェ・グルニエの「沈黙」に出てくる描写である。「この私が書きたいのは、むしろ新しい『感情教育』なのである」(ロジェ・グルニエ「沈黙」『フラゴナールの婚約者』197ページ)。この一節が単なるフロベール礼讃にとどまらないのは明らかで、ロジェ・グルニエはやはり、「フロベールが『感情教育』を書いてしまったあとに、果たして何を書くべきだろうか?」と自問したにちがいないのだ。ウリポやシュルレアリスムといった文学運動と呼ばれるようなものも、それまでの文学に対する非常に強い意識ゆえに組織されたものである。そもそもロラン・バルトの『零度のエクリチュール』のような書物についても、文学を直線的な歴史として描くという発想そのものがフランス的だ、と、ボルヘスなら言ったかもしれない。前掲の、現代的である必要などない、という意識の問題とも通じている。

 ところで、長篇小説については上述のとおりだが、「短篇や物語」については、ボルヘスはもっと叙事詩的なものとして捉えている。このあたり、訳語がちょっとややこしく感じられるのは、英語の「novel」、フランス語の「roman」、スペイン語の「novela」という言葉が短篇を含まない、という考え方は、日本語の「小説」にはないからだろう。

「短篇や物語となると、話は別です。これらは永遠に生きながらえるはずです。人間たちが物語を語ったり聞いたりすることに飽きるとは、私も考えていません。そして、仮に物語を聞く喜びに加えて詩という高尚な喜びが得られれば、素晴らしい何かが生まれたことになるでしょう」(79ページ)

 ちなみにここで、ボルヘスはわたしを大喜びさせることを書いていた。なぜ彼が長篇小説を書かないのか、という質問に対して。「我が意を得たり!」と、小躍りしてしまう。

「これまでにも私は、なぜ長篇小説を書かないのか、とよく訊かれました。もちろん、怠惰が第一の理由です。しかし、他にも理由はあります。私は小説を読んでいると必ず、退屈のようなものを感じるのです。小説には埋め草が含まれています。埋め草こそ小説の本質的な一部かもしれない、とさえ考えます」(167ページ)

 埋め草、という言葉に過剰に反応してしまうのは、すこし前に読んだヴァレリーのせいである。「純粋詩」という、非常にヴァレリーらしい(というか、「マラルメらしい」と言うべきだろうか)概念を、埋め草で薄めたものが小説、という考えがあるのだ。

「わたしは、物理学者が純粋な水と言うときの意味で、純粋という言葉を使っています。わたしが言いたいのは、詩的ではない要素が一切混じっていない作品を、人はひとつでも作れるようになるのだろうかという問いが提起されるという意味です。わたしは、それこそ到達不可能な目標で、詩とは、つねにこうした純粋に観念的な状態に近づいていくための努力であると、いつでも考えてきましたし、今でもそう考えています」(ヴァレリー「一詩人の手帖」『ヴァレリー・セレクション 上巻』200ページ)

 また、「短篇や物語」には叙事詩的なものが色濃く残っているという考え方から、以下のような一節も登場してくる。まったく、これほどまでに『千一夜物語』を家に全巻揃えたくなる言葉もない。

「われわれは大きさなどは野蛮なものと考えがちですけれども、本質的な価値がその長大さにある書物も数多く存在すると、私は考えます。例えば『アラビアン・ナイト』の場合、われわれはこの書物が部厚いとか、物語が延々と続くとか、終わりまでたどり着けないのではないかとか、考える必要はありません。千一夜をすべて読み通したことはないかもしれないが、それらはそこに在ることによって、何となくゆったりした感じを全体に与えているわけです。私たちはより深く探ることができると、あちこちさ迷うことができると、さまざまな不思議や魔術師たち、美しい三人姉妹といったようなものが常にそこに居て、われわれを待っていると、知っているのです」(147~148ページ)

 最終章で、ボルヘスは自身のことについても大いに語っているのだが、これらの箇所はとりわけ『The Last Interview』との関連が強く感じられた。

「私は自分を、本質的に読者であると考えています。皆さんもご存知のとおり、私は無謀にも物を書くようになりました。しかし、自分で読んだものの方が自分で書いたものよりも遥かに重要であると信じています。人は、読みたいと思うものを読めるけれども、望むものを書けるわけではなく、書けるものしか書けないからです」(141~142ページ)

「読者の悦びは作者のそれより大きいと思います。読者はいかなる苦しみも不安も感じる理由がない。悦びを求めるだけなのですから。そしてその悦びは、あなたが読者であれば、頻繁に得られるのです」(146ページ)

 ボルヘス自身の読書体験ももちろん語られていて、何度も目にしてきた作家たちの名と再会することになる。とはいえ、ここではヘンリー・ジェイムズがボロクソに言われているわけでもない。

「当時の私は非常に不幸な若者でした。若者は不幸を好むものであると私は思います。若者は不幸であるために全力を尽くす。そして一般に、それに成功するのです。ところが、私はその頃、間違いなく非常に幸福な作家を発見しました。1916年だったはずですが、私はウォルト・ホイットマンに近づき、自分自身の不幸を恥じるようになりました」(150ページ)

「ボードレールやポーを楽しみたければ若くなければならない、と言ったら冒瀆になるでしょうか? 時が経ってからでは、それが難しいのです。非常に多くのことを我慢しなければならない。歴史その他も考えなければならないわけです」(153ページ)

「暫く前に、私はドン・キホーテについて、また、シャーロック・ホームズについて話しました。人物は信じられるが、その冒険は信じられない。作者らがその口で喋らせる言葉をほとんど信じられない、と言いました。反対にキャラクターは信じられないがストーリーは信じられる、といった本が果たして見つかるものでしょうか? ここで私は、衝撃を受けた別の本、メルヴィルの『白鯨』を思い出します。エイハブ船長を信じているかどうか、私には自信がありません。白鯨との闘いを信じていることにも自信がありません。登場人物をいちいち区別することもできません。しかし、私はストーリーを信じています。つまり、一種の寓話として信じています(もっとも私は、それが何の寓話なのかを正確には知りません。恐らく、悪に対する闘いの、悪との間違った闘いかたの寓話でしょう)」(156ページ)

 先に引用してしまった「現代的であろうとする必要はない」という箇所も、じつは以下の「文学的過ち」という文脈で語られていたことである。

「グノーシス教徒らは、罪から免れる唯一の道は罪を犯すことである、なぜか? あとは悔悟あるのみだから、と言いました。文学に関連しても、彼らの言いかたは本質的には正しかった。仮に私が十五冊もの駄作を書いたのちに、まあまあの作品を四冊か五冊物したとすれば、それは、長い歳月だけではなく試行錯誤によって得られた、めでたい結果なのです。私は、考えられる過ちのすべてを犯したとは思いません。過ちは数に限りが無いのですから。ただし、多くの過ちは犯しました」(157ページ)

「もし私が作家たちに助言をしなければならないとしたら(その必要があるとは思っていません。物事は皆が自分で解決すべきですから)、ただ、これだけは言いたい。自分の作品をいじるのは、できるだけ少なくしなさい、と。あれこれひねくり回すのは、いい結果を産まないと思います。自分に何ができるか、それが分かる時がやがて来ます。自分の本来の声を、自分自身のリズムを見いだす時がきっと来ます。少し手を加えたくらいで、それが役に立つとは思えないのです」(165~166ページ)

 同じことが異なる文脈・言葉で語られているため、相乗効果で『The Last Interview』で語られていたことまで、よりよく理解できるようになる。だが、一冊の本として見たとき、この『詩という仕事について』の豊潤さはちょっと比類ない。

「空白のページを前にするたびに私は、文学は自分で再発見していくもの、という気がしています。過去は何の役にも立ちません」(8ページ)

「私はしばしば、自分はしばらく前に読んだものを引用しているに過ぎないことを実感します。そしてそれが再発見にも繋がるのです」(27ページ)

「私の考えでは、知恵は愛より大切なものであり、愛は幸福より大事なものです。幸福には何となく軽々しいものがあります」(118ページ)

 いちばん最初に書いたことの繰り返しだが、ボルヘスをもっとよく理解したいと思っているひとなら、ぜったいに読むべき一冊である。この作家になんの興味がなくっても、詩が好きなひと、その定義の不可能性さえも愛しているひとは、きっと楽しめるにちがいない。なにかの結論を得られるわけではない、というところが、またたまらないではないか。いつでも手の届くところに置いておきたい、これは世紀の名著である。

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

作者: J.L.ボルヘス,鼓直

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2011/06/17

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〈ものすごく気になった引用文の数々〉

「新しい問題を見つけるのは、古くからの難問の解法を発見するのと同じ程度に重要なことである」(トマス・ド・クインシーからの引用、8ページ)

「四人の福音伝道者がイエスを創造した劇作家であるように、プラトンはソクラテスを創造した劇作家である」(バーナード・ショーからの引用、15ページ)

「無知な人間の手に書物をゆだねるのは、子供らの手に刀をにぎらせるのと同じくらい危険である」(アレクサンドリアのクレメンスからの引用、17ページ。正しくは「一冊の本に何から何まで書き込むのは、幼な子の手に槍をにぎらせるようなもの」だそう。訳注より、206ページ)

「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」(ウォルター・ペイターからの引用、111ページ)