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ダンス評.com

Aokid, etc.「これはダンスで?これはダンスで!これはダンスで、、、」こまばアゴラ劇場

2019.01.19 02:08

『これは演劇ではない』関連イベント(3)。

演劇フェスティバルの関連イベントとして、ダンサーのAokidさんが、「劇場公演以外のダンス活動をしている」人たちに声を掛けて開催された。

前半では各参加者(出演者)がパフォーマンスまたはプレゼンを行い、後半では参加者たちがダンスについてトーク。

出演者たちのダンスはそれぞれ全く異なるが、劇場以外の場でのダンスを模索している(劇場での公演も行うダンサーも含まれているが)ところが共通しているわけだ。

笑いが起こるなどの客席の反応から、観客には出演者の友人・知人も多かったと思われる。後半のトークでは、「自分たちが楽しくやっているはずのダンスが内輪受けで終わっていて、他の人に広がっていっていないのではないかという危機感がある」という話が出ていた。確かにそうかもしれない。しかし、私のような部外者がなぜかやって来て、一緒に面白がるということもあり得る。そういった意味でも、こまばアゴラ劇場のような小劇場であっても、劇場でたまに上演することにも意義があるのではないだろうか。

チケット代が2000円というのも素晴らしい。こまばアゴラ劇場からの援助が結構あったのだろうか?

以下では、出演者たちのパフォーマンスやプレゼンテーションについて述べ、その後に、トークで出た話題を記す。

※上記画像は下記サイトより。

<Aokid>

マイムのような動きもあり、少し大道芸っぽいと思ったら、屋外でパフォーマンスをすることも多かったそうだ。道端であのように踊っていて、通り掛かった人が足を止める場面をなんとなく想像しながら見た。

今回はいかにもストリートダンスっぽい動きはあまりなかったが、ラップで歌ったり、物を壁などに打ち付けてリズムを刻んだりしていた。

いったん舞台から去り、突然叫び出したと思ったら、大きなブルーシートを抱えて再登場。ブルーシートの中に向かって歌ったり叫んだり。ブルーシートといえば工事やホームレスの人を連想する。Aokidさんは、外でブルーシートを広げてパフォーマンスをすることがあるそうだ。

今回のようなパフォーマンスを劇場で行うと、どう反応していいのかといった妙な空気が流れる。しかし、そのちょっと落ち着かないモゾモゾ感がよかったりする。ダンスとは、心地よさだけでなく、そのような「何だろう、これは」という感覚を味わうためにも、存在するのではないだろうか。

下記画像は、Aokidさん手書き・手描きのイベント紹介とアンケート。演劇では鴻上尚史さんの手書きの「ごあいさつ」が有名だが、Aokidさんはアンケートも手書き!インターネットやコンピューターの時代だからこそ、手書きの価値は大きい。

<アグネス吉井(KEKE、白井愛咲)>

アグネス吉井の2人は唯一、パフォーマンスではなくプレゼンテーションを行った。「劇場というシステムの中で踊ることに抗っている(劇場へのアンチテーゼ)」そうなので、今回の会場である劇場では踊りません、ということもあるのだろう。

このダンスユニットを初めて知ったのだが、定期的に知らない駅に出掛けていって町歩きをし、気になる場所を見つけたら、その風景の中で自分たちがダンスしているところを動画撮影し、ウェブサイト(「note」というブログサービス)やSNS(インスタグラム)で無料で公開しているのだそうだ。「もやよし」という名のプロジェクト(「もやもや」するのを「よし」とする?)。

「もやよし」のルールとしては、「カメラは固定」「服は上が白、下はアースカラー(適度に周囲の景色になじみ、適度にきれいに見える)」「ダンスは、自分たちが上手に踊れることを見せるのではなく、景色や物の存在が際立つように踊る」。このように景色や物の形などを際立たせることを「マッピング」と呼んでいる。例えば、直角の物があったら、その角に自分の腕を沿わせてみる。そうしたら、直角であることが際立つ。

どんな動きをする(または「動かない」)かについても、大体の法則ができてきている。次のような法則だ。

【周囲のものが動いているとき】の自分たちの動きの選択肢は、(1) 止まる(そうすると動いている物が際立つ。「沿う」シリーズ:上記の、直角の物の例)、(2) 別の動きをする(前向きに速く走っている車がたくさん通っている道路の手前で、自分たちはゆっくり後ろ向きに歩く、など)、(3) 同じ動きをする(小刻みに動いている遊具をまねして自分たちも小刻みに振動する、など←これ、動画で見ると笑えます!)。

【周囲のものが止まっているとき】は、(1) いつも同じ動きをする(「巡礼」シリーズ:一人がもう一人を抱えて運ぶ)、(2) 場違いな動きをする、(3) その場所にいる幽霊・亡霊になって動く。

これなら私もまねできるかも?と思わせるような動きをしているのがポイントなのかな?と思ったら、トークで「まねしてほしい」と語っていた。そうか、まねしていいのか!早速、翌日、動画撮影用のカメラを物色しに電気店を訪れた(笑 まだ購入までは踏み切っていない)。

「3500円で、あなたの町で『もやよし』やります」の募集も行っているのだそう。まだ応募はないらしい(実は、私は依頼しようかなと少し考えているところだ)。

プレゼンの冒頭で、2人がふっと止まって上方に顔を向けたので、何かダンスが始まるのか?と思ったら、壁に文字が映写されるのを持っているだけだった(!)舞台上にいたせいなのかもしれないが、ダンサーは、日常の動きも少しダンスしているように見えたりする(今回のイベントで、他の出演者たちを見ていても同じように感じることがあった)。

<荒悠平>

「4畳半+ロフトの一人暮らしの自宅で踊りを見せるということをしてたんですよ。1回につきお客さんは4人まで。ダンスの後に、昼間作っておいた食事を出して、お客さんと一緒に飲み食いし、おしゃべりする。そっちの時間の方が長いんですけど(笑)。それでお客さんが『おいしかったです』と言って帰っていく(笑)。2014年から3年間で、70回くらい行った『訪問』というシリーズです。引っ越したので、もうできなくなっちゃったんですけど」とおもむろに話しながら、準備体操のように体を動かす。動く彫刻みたいな人だな、と思わせる、リラックスしているようでいて、コントロールされた動き。

「大きな劇場で踊るのもいいんですけど、そういう『外食』のようなダンスだけじゃなくて、『自炊』のダンスをやりたくて。では、ここから真面目にやります」と言って、踊り出す。

踊ろうとするときに一呼吸置く、それだけでもうその場がダンスの空間になる。あの一瞬の場の作り出し方に、息をのんだ。体幹がかなり強くて安定した、訓練された体のダンス。動きと動きの間(ま)のようなものの入れ方も絶妙だ。

背景に流れていたのは、虫の静かな鳴き声のような音。騒がしい街の中心部からは少し外れたアパートの一室で、夕方、遠くで鳴く虫の音を聞きながらダンスを見ているような錯覚を覚えた。

体一つでダンスの空間を作り出せるのが心底うらやましい。

<田村興一郎>

荒悠平さんが身軽に舞台上にあるバルコニーのようなところに登り、田村興一郎さんが荒さんの求めに応じて、荒さんが舞台上に置いていたコーラのペットボトルなどを手渡してあげる。

続けて、虫の音のような音が流れ、今度は、どこか屋外でキャンプをしているような場面を想像した。田村さんがビニール袋を持っていて、舞台の隅にはAokidさんが使ったビニールシートが置きっ放しにしてあったことも、そのイメージに関係があるのかもしれない。

田村さんがどちらかといえば日常のような動きをする中で、突然、客席にいた1人の人が「~~って知っていますか?」と声を出し、繰り返し言いながら立ち上がり、舞台に上がる。共演者だったらしい。

共演者の男性は、災害地域での(やや宗教的、精神的な意味での)鎮魂、を思わせるせりふを述べ、その後、いかにも「踊っています」という動きをする。アグネス吉井さんが自分たちの動きについて言っていた「場違いな動き」という言葉が思い浮かんだ。なぜあんなに「語り過ぎている」ような言葉と、「いかにもダンス的な踊り」を取り入れたのだろうか?

共演者が去った後、田村さんは怒りのように見える感情を表すようにせわしなく動く。さっきの共演者が誘発した動き、と見えるが、災害が起こると騒ぎ立てるマスコミや「部外者」として好き勝手言う者たちへの、実際に直面している「当事者」たちの怒りだろうか?(そのような二項対立的な見方は、個人的には普段しないようにしているが)。それとも逆に、共演者が表現したのは「善き何か」だったのか?そんな社会的テーマを感じた。

田村さん自身が共演者のダンサー岡本五さんの役割についてTwitterで書いていらっしゃったので、リンクを載せておく。

「客に作品をぶち壊されたい」というのが興味深い。演劇も小劇場であれば何か突発的なことは起こり得るかもしれない。そんなときにそれも取り込んでしまうのが小劇場の演劇。映画館で音や声を出してOKの「応援上映」があるが、ヤジを飛ばしたら駄目だろうし、映画は生ではないので作品自体に変化は起こらない。

ダンスの場合、今回の田村さんの演出のように、例えば観客がダンスを見ているうちに自分も踊りたくなってダンサーの脇で踊り出したらどうなるか?歌い出したらどうなるか?後述の小暮香帆さんのダンスでも、たくみちゃんさんが「侵入」していた。私は小暮さんが踊っているときは、「世界」を壊したくなくて写真を撮るのさえはばかられたが、でもちょっと「壊し」てみると、余計その世界が「際立った」り(←前述したアグネス吉井さんの別の文脈での表現を借用)、コンテンポラリーダンスに距離を感じている人に面白そうと思ってもらえるきっかけになったりするかもしれない。

田村さんが室田敬介さんと一緒に行っているという「地域福祉型のお笑いダンスユニット ムロタムラ」の活動にも注目したい。

<たくみちゃん>

すたすたと姿勢悪く客席側から舞台に上がったと思ったら舞台脇に消え、再登場したときはフンドシ一丁だった(!)そして、短髪アフロ的な髪型?!

もともとはダンサーというよりアートパフォーマンス的な活動を行っていたそうだが、舞台の手前にとどまったままゆっくりと腕などを動かしていく様子は、「舞踏(ぶとう)」を思わせた。少しずつ声や言葉も発していく。

その姿だけでも面白いのに、妙な動きや発声をするので、「え~~、どうしよう、これ、笑っていいの?」という、ちょっとした居心地の悪さを感じる。でも、いいよね?笑っちゃうよ?という感じで、徐々に私含め観客から「ぷっ」という笑いが漏れ出す。

「15分、短け~!」というような叫びで終了(笑)。

<小暮香帆>

下品な言い方で恐縮だが、「2000円(の一部)でこれ見せてもらっちゃっていいの?」というくらい、すてきなダンスだった。

小暮さんはまず、たくみちゃんさんにジーンズを投げてあげて、「(その場で)着ていいよ」と促す。自分が来ていたニットのようなものを脱いで黒のワンピース姿になり、そのニットをたくみちゃんさんが着る。たくみちゃんさんは荒さんのジャンパーも貸してもらって着て、舞台下手に座る。後で小暮さんがシリアスに踊っているときにたくみちゃんさんがコミカルな動きで入っていき、音楽の歌詞とたくみちゃんさんの様子から、小暮さんに「憧れ」ているような演出。こういうダンサー同士の絡みの演出は、Aokidさんが当日提案して作ったのだそうだ。

暗転し、薄暗い照明がつく。主に舞台上手で小暮さんが踊る。何と表現したらいいのだろうか?薄暗くて顔や表情はあまり見えないのだが、その体を見ているだけで、見ていられる喜びが私の中にあふれてくる。

西洋のダンスの基礎がみっちり入っている体の動きだが、踊りを見せつけるようなところは全然なく、さりげなく踊っているように見える。しかし、緻密に計算され組み立てられた踊りだと思う。壁、木箱、ハーモニカ(?)などの使い方にも感性の鋭さが光る。

終盤で、涙が出そうになったのはなぜなのだろうか?「存在していることの美しさ、愛しさ」という言葉しか浮かばない。貴いものを目撃しているようだ。

小暮さんは顔も体も(つまり容姿が)美しい人だが、それだけでは美しいダンスは作り出せない。容姿やスタイルのよさやテクニックも存分にあるが、それだけではとても説明のつかない美しさが彼女のダンスにはある。なぜあんなに美しいダンスを踊れるのだろうか?


トークでは、今回のイベントではAokidさんが「劇場以外で積極的に踊り、発信している人」という基準で出演者を決めたこと、Aokidさんはいろんな表現活動をしている人と一緒に「どうぶつえん」というパフォーマンスをしていることなどが最初に話された。

他に出た話題は、ストリートダンスにはやはり自由な文化があり、それがAokidさんの土台にある。

劇場で踊るか、その枠組みの外で踊るか。踊る場によって作品になるかならないかが決まるのか?劇場で成り立つダンスと劇場の外で行われるダンス、両方あるのがいいのではないか。でもどうしても劇場内のダンスが主流になりがちだから、そうでないダンスがあることも知ってほしい。一方で、後者のダンスがなかなか広まっていかないという焦りもある。

ダンスについて話せる場も大事。企業とかでダンスを使った企画をダンサーが行ったりできると、ダンサーが経済的にも生計を立てられるようになるかもしれない(これは、コミュニティーダンスのような活動を指す?)。動画で見せるか、生で見せるか、両方やるか。

最後に、観客との質疑応答も少しあった。

イベント全体が、とても有意義な時間だった。