多様さこそが、世界の彩り
Facebook北條 毅さん投稿記事 多様さこそが、世界の彩り。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉がある。ㅤ
殿様のように駕籠に乗る人もいればその駕籠を担ぐ人もいるしはたまた、その草鞋をつくる人もいる。ㅤ
誰が上でも下でもなくあらゆる役割の人がいてそのすべての人と役割が持ちつ持たれつで、相互に関係しているからこそ世界は組み合わさり、回っていく。
そんな世界観と、この世界を僕はとても美しく尊いものだと思っています。ㅤ
いろんな事業家・活動家の人と対話を重ねているとㅤ事業・活動とひと口に言っても
本当に様々な社会的活動があることをつくづく思い知らされるんです。
世の中には、僕が思いもよらない事やまったく関心を向けたことがないようなㅤ
本当に想像を超えるようなことに人生のある段階でたどり着き心血を注いで取り組んでいる人がいる。
そこに至る経緯や活動が目指しているものㅤそして、その活動に込めた想いなどは
本当に人ぞれぞれでㅤ面白くてのめり込んだ人もいれば 問題意識からやらずにいられない人もいる。
あるいは、家の事情や状況的に取り組むことになっただけという人もいる。
何が良いでも悪いでもない。それがどんなものであってもその人だけの、それぞれの物語がそこに在ることを深く、深く実感するんです。
それが、本当に面白い。ㅤ
例え、人からどんな風に見られたってそれらの活動すべてに存在する意味と意図があって
それぞれが放つそれだけにしか持ち得ない輝きがある。ㅤ
存在を磨き上げ、輝きを解き放つそれだけで、世界はもっと美しくもっと循環していくのだと思う。
欠乏感や劣等感からではなく可能性を信頼するところからはじめよう。
いまがどんな状況でもそんなのは関係ない。あなたが最もダメだと思っているところにこそ
あなたの、そしてあなたの活動の最大の力があるんだ。
お殿様も、駕籠担ぎもそして草鞋作りも みんな等しく、すべて尊い。ㅤ
だから、世界はつながり循環するんだ。
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卑屈やコンプレックスは 自分と他人を区別し、無智ゆえに「自分だと誤解している自分」だけを愛する自我執着によると言われます。
縁起の法ではすべては相互に依存し 他から独立した固定した実態は無いと教えられ、観音菩薩の教えでは 全てのものは仏の胎児であり、仏になる存在だと教えられました。
そうであればこれが本来の自己イメージのはずです。
宇宙の有機的な相互作用はよく 小宇宙といわれる人体に譬えられます。
目には目の役割があり排泄物には排泄物の役割があり それぞれの役割は 善悪を超えて 優劣を超えて 全体のバランスを保ちます。
然し「排泄物になんか なりたくない」と思っている方は多いのではないでしょうか?
それでもカルマの法則に従えば 顕在意識の願いを超えて 自らの願いが 自らを排泄物に仕立て上げているということになります。
昔 結婚式に参列した時 新カップルへのはなむけの言葉として「胸のオシャレなハンカチではなく 足元の雑巾になる喜び」という話を聞いたことがあります。
雑巾は一見汚く、胸の飾りには決してなりません。然し穢れをふき取り、全てを浄化してゆきます。黙って耐える奉仕の心を象徴します。
言いかえれば「愛するものの幸せを自らの幸せとする喜び」を生きる姿とも言えます。ハンカチも雑巾も自らが選択する役割です。
唯識論では 全てのものは心の現れであると説きます。
排泄物であることもハンカチであることも 心の現れであるということです。
言いかえれば自分だと信じている通りに 自分が現れてくるとも言えます。
「自分だと信じている自分」は「自己イメージ」とも言いかえられます。
卑屈コンプレックスを超えるには 優劣に対する視点変更、マナ識の浄化、カルマの清算、自業自得の知恵が大切だと言えます。それにより 誤った自己イメージから解放されるとも言えます。優劣に対する視点変更は 「競争原理に従えば劣って見える人」が 「共生原理に従うと優れて見える人になる」そんな視点変更ともいえます。
自己一致、自分を愛すること(足るを知る=自分の役割個性を知り 利他のために生かす道を歩むこと)がベースにあれば卑屈コンプレックスの罠にはまらずに済むのではないでしょうか?