観照者になる
Facebook上田 一美さん投稿記事
「私たちはほとんど眠っている。私たちは目の前にあるものを見ない、私たちは聞こえるものを聴かない。私たちの心は他の物ごとでいっぱいになっている。無心の人だけが敏感になることができる。空っぽの心で月を見ていれば、あなたはそのほんとうの美しさを体験できる。
空っぽの心で花のそばにいれば、あなたは花のほんとうの美しさを体験する。
もし私があなたのそばにいて、空っぽであれば、あなたの内側になにがあろうと、私はそれを体験する」Osho
Facebookアナンド チャラムさん投稿記事
*チャラムのメタファー解説
禅の基本は意識だそれは自分の内側に在る あらゆる宗教は外側に向かう 禅だけは内側へと誘う 無の中へ入る唯一の道は瞑想だ まったく批判せず、働き掛けず ただ観照者として観る あなたに見えるものは すべてあなたではない それを排除し続けるのが瞑想だ
最終的には観照者すら あなたではなくなる そこには何も残らない それが「無」だ
あらゆるものを存在させ得る「無」だ それを知識として理解していなければ
あなたはそれにすら気付かない「無」を見過ごしてしまうだろう
スピリチュアルクラスとは その知識を理解するための講座だ
https://abetoshiro.ti-da.net/e11893618.html 【観照者の先にあるもの】より
瞑想とは観照者になること。
瞑想中だけでなく、ありとあらゆる事象の観照者でいること。
あなたは事象の登場人物ではなく、その現象を見守る者。あなたは事象が映し出されたスクリーンそのものです。
自分とは何かを説明する時、僕もこのような説明を用いますし、似たようなメッセージは他でも見たことがあると思います。
特に映画のスクリーンへの例えは気に入っていて、そこにどんなドラマが映し出されようとも、スクリーン自体は影響されていないという話は分かりやすいと思います。
しかしこれはまだ十分な説明になっていません。もう一歩先を行く必要があります。
でなければ、最終的な真理が誤解されたままになってしまうからです。
それは何か。
その前に、まずは観照する練習をいま始めるべきです。
これがスタートになります。
いま起きていることを現実だと信じて、その中で右往左往していた態度をやめて、すべてを見届ける側に回るのです。
いつも人生の中で主役を張っている自分のことをも観客席から見ている感じです。
主役の思考や感情さえも外側に湧いている現象になります。
そうやって観照者でいる間は、あなたは物語に埋没していません。
このようにして事象から離れる時間は極めて重要です。
やがてあなたが参加していなくても、あなたを含めた物語は勝手に展開していくことを知ることでしょう。
その時、それまで抱えていた肩の荷がすべて下ろされます。
人生をやっているのは自分ではなく、すべては「起きている」という事を理解するからです。
観照者の先にあるもの
ここまでは何度かお話ししてきました。
今日は最後の仕上げをしましょう。
それは何かと言えば、
あなたは観照者でさえもないということ。
人生映画の観客でもないのです。
あなたという人が、出演者から観客に変わるわけではないのです。
観客はいません。
物見はいません。
観照者はいないのです。
あなたは観照者ではなく、観照そのものだから。
観照者というと、観照している何者かを連想してしまいますが、そのような人はいません。
観照という質そのものが万物を有らしめています。
それを「気づき」とか「意識」とか「認識」とかの言葉に起き変えることができます
何一つ分離していません。
あなたは分離した存在ではなく、存在の全てです。
全体が、分離したあなたという夢を見ています。
その夢さえも見届けているのが本当のあなたです。
もう一度言います。
あなたは観照者ではなく、観照そのものだということ。
これがどういうことなのか、心を静かにして感じてみてください。
***
瞑想体験~暗闇の瞑想~
ある人の話に刺激され 暗闇の瞑想をしてみたくなりました。第三道場は窓もなく 燈明も灯されてなく 暗闇そのものです。朝のお掃除の後 5分くらいの積りで中に入って見ました。
黴臭い臭いがつんと鼻をつき すぐに消えました。
最初はエアコンの指示ランプだけが 見えていましたが あたりに金色に輝くプラウナが 見え始めました。
時計の時を刻む音が 異常に耳に付き 煩わしい感じになりました。
身体はリラックスし 眼を閉じると 瞼の裏に安らかな紫光が広がり続けました。
そのうち 後ろから光がさしているのに氣付き、畳や自分の足が見えました。
振り向くと指示ランプが2つ、こうこうと輝いていました。
みぞれの降る朝でしたので 少し寒くなり、その日の予定も氣になり 外に出ると 30分の時が経過していました。
和多志たちの脳への刺激は 日常的には 視覚から入るものが圧倒的に多いと言われます。
視覚刺激を極度に減らすと 視覚、聴覚が敏感になるとともに 脳波が下がり 身体はリラックスし、時の感覚までなくなるといわれます。
その実体験を味わったということでしょうか?
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無刺激の体験をしてみたくなりました。しかし無刺激とは何でしょう?
母の胎に遊ぶということでしょうか?
ある人が お風呂にお酒とお酢とお塩を入れて入浴すると 浄化ができると教えてくれました。
もしかしたら 羊水に近いものができるのかと連想してしまいました。
幸か不幸か 風呂には窓がない故 今晩無刺激の実験をしてみたいです。
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お風呂の実験結果は ただのお風呂でした。
お水に浮かぶとリラックスするというのに 不思議でたまりません。
道場の真っ暗闇で 雪の降る朝 暖房なしの実験が超リラックス体験になり 身体の感覚も
なくなりトランス状態になったのに 、、、!!
わざわざ内緒の料理酒を 買いに出かけての実験でした??わざわざ超高価な竹塩を入れたのですよ。羊水もどきに浮かぶのかな?と期待したのに 当て外れでした。
イスラエル旅行の時 死海に浮かんだことがあるのですが・・・その後の身体の心地よさは抜群でした。そんな満ち足りた思いもできませんでした。これから何を学べというのでしょうね?
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ある人に以下のように尋ねました。
「暗闇の瞑想の実験をしました。漆黒の道場での体験は至福の心地よさになったのに お風呂での暗闇体験が唯のお風呂の実感しかなかったことが解りません。」
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返事は 「 そういった実践は、一時的な宗教体験をもたらす場合もありますが、 逆に妄想的な体験が生じて、良くない人もいるでしょう。ですから いずれの場合にせよ、重要なのは、日常生活でいかに 健全な精神で生きるかだと思っています。」
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違いについての回答はないままです。
人によって体験内容が違うから返事のしようがないという意味でしょうか?
それでも不思議な思いに引っかかり続けます。道場とお風呂の違いは???
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お風呂の方は「お風呂に入る」という目的がありました。寒い冬の日なので 手探りで とにかく浴槽に入る必要があります。ぬるま湯を温めるために お湯の蛇口を手探りで探しました。
ということは 丁度ブラインドウォークのように「自分の身の安全を 保つために エネルギーを外に向けなければならなかった。」ということになるのでしょうか?
現実適応を司る顕在意識に エネルギーが傾いたということなのでしょうか?
顕在意識に傾けば 全てとの一体感を失い 安全で安心、そしてくつろいだリラックスを失う
ことを示すのでしょうか?
両脳が目覚めているとは 覚醒シーター波になっている状態を言うのでしょうか?
皆様試して メッセージを頂けないでしょうか。