だからからだ
https://www.1101.com/dakarakarada/?srsltid=AfmBOorsnZ-xNiZXkXF3Oo2PdS47YbxV-ATOnGqbSM1QaLq21p3PtzMr 【だからからだ 谷川俊太郎と覚和歌子、詩とからだのお話。】より
映画「ハウルの動く城」の後半部分でヒロインのソフィーがはなつ言葉、「未来で待ってて」。この言葉は、覚和歌子さんの書いたある詩から使われたものです。
映画のシーンに原詩の感触がよりそい、観る人のからだをとおして情景がひろがる、印象深いひと言です。
谷川俊太郎さんと覚和歌子さんの、ふたりの詩人によれば、詩の言葉とからだは、密接な関係にあるんだそうです。お互いの詩の秘密にせまるような、とてもスリリングなからだと言葉をめぐるお話をどうぞ。
第1回
からだで知る世界。
ある日、詩人の谷川俊太郎さんに朝日新聞に掲載されていた記事の切り抜きをいただきました。それは、映画「2001年宇宙の旅」のコンピュータHALについての記事でした。
あのHALというコンピュータは、実際には、人間の行為がかんたんには理解できない、
という大阪大学の浅田稔先生の見解が書いてありました。HALがどんなに大容量の解析能力と
知性を持っていたとしても、現実と直に、具体的に向き合う人間と同じ「からだ」がない。
だから、人間の心を真に理解するのは難しいだろう、ということなのです。人が使う言葉には
人間の具体的な体験がくっついているものだから、人と同じからだを持たないHALはその思考を座学で学ぶにすぎない。そのことが原因のひとつとなって、いま現在のコンピュータは、あの映画のHALにまで至っていないのだという考えがあるのだそうです。
── たしかに、明晰な頭脳をもってたくさんの言葉を聞き入れたとしても、ただひとつの風にふれることや病気で寝込んだりする経験にはかんたんに負けてしまうような気がしますね。
覚 この記事、おもしろいですね。私たちは、からだをとおして現実と向かいあっている。
谷川 人間は、ものを感じたり考えたりして、そこからいくらでも抽象的なところにいけるわけでしょ?そして、難解な哲学やなんかをいろいろとやるんだけども。若いころは、それが頭だけでできてるって、僕は思いがちだったんです。「知性というのは頭だけである」と。
だけどやっぱり、からだがないと、この自分が生きている世界を感じることができないと思うんです。
覚 関われないんですよね。
谷川 そうそう、関われないね。「すべてのものに からだが 関わってるんだ」ということは、意外に見落とされてるような気がするんです。「朝目覚めたときに青空があると、すごくいい」という、ある心の状態を、たとえば詩に書くときも、青空が見えなきゃ書けないわけだよね?それから、まわりの物音も聞こえなきゃなんないだろうし。コンピュータには感覚器官がないから、「世界とのつながり」を感じることは無理だ、ということだと思うんです。
僕は近ごろ感じるんだけど、詩を書くときは、普段意識してる頭のなかからじゃなくて、
自分のもっと下のほうから、足かなんかを伝わって言葉が出てくるような気がするよ。意識下、ということに、からだが関わっているんだろうね。ところで、覚さんの書いた詩に、
「いつも何度でも」という歌があるけど。
覚 はい。
── 映画「千と千尋の神隠し」の主題歌になった歌ですね。「呼んでいる 胸のどこか奥で」という言葉ではじまる‥‥。
谷川 うん。あの詩でいちばん気になるのが「ゼロになるからだ」という言葉なんです。
僕はあの「ゼロになるからだ」という言い方そのものが、なんだかわけわかんない。だけど、すごく気になるんだよ。覚さんはあの言葉の前後を泣きながら書いたって?
覚 泣きながらというよりは、勝手に涙が出てきて、自分でも「これは普通じゃないぞ」と
思いながら書きましたね。あの詩の「さよならのときの‥‥」の部分にさしかかったら、
出てきたんですよ、ダラダラと涙が。感情とか、そのとき考えてることとはまったく無関係に。俊太郎さんには、そういうこと、あります?
谷川 あります。
覚 勝手にからだが反応することが?
谷川 うーん、僕の場合にはすこし違って、単にからだが反応するのではなくて、自分の言葉に自分で感動して、というようなところがあるのかもしれないなあ。「ゼロになるからだ」は、前から持ってた言葉なの?それとも、書いてるときに湧き出た言葉なの?
覚 湧き出たといえば湧き出たんですけれども、これまで自分がからだとつきあってきた期間のなかでフレーズとして蓄積されていたんだと思います。詩を書いているあいだの感覚がニュートラルになったときですね 。
谷川 そういう解釈だと、わりとわかるんだけど、それだけじゃないような気がするんですよ。
覚 うーん。さっきの「意識下にからだが関わっている」という話ともつながると思うんですが、「さよならのときの‥‥」の部分で涙が止まらなくなったのは、今思うと、「すごく大きなもの」とつながったことのあらわれだったような気がするんです。つまり、そういう意識状態になったときに手にした言葉が「ゼロになるからだ」だったのかな、という気がするんです。アイデアとかひらめきみたいなものというのは、大きなものとのつながりのなかで
生まれてくるんだというふうに私は思っています。
谷川 大きなものとのつながりというのは、理性ではできないんですよね。「意識下」のものでないと、つながれないんだと思う。
覚 うん。
谷川 すべてを秩序づけて整理して、切り離して理解して、という今の時代とぜんぜん逆の方向ですよね、きっと。たぶん、詩っていうのはそういうはたらきを持ってるんだね、散文とは違って。
覚 芸能は神様のことと近いので、詩をつくるということも、歌うことも、おなじ分野です。
── 覚さんの出されたCD「青空1号」でとても貴重だと思ったのは、覚さんの「いつも何度でも」の歌と朗読が収録されていたことです。あの曲を何度聴いても歌詞を読んでもつかめそうでつかめなかった何かが、よりいっそうつかめなく、すばらしくなりました。
谷川 うん。論理じゃなく、まさしく「からだ」でね。だいたい詩っていうのは、もともと占いとか口寄せとか、そういうものと同質なんだよ。古代から、狩や採集に行けなくても、
そういう職業の人たちが生きていけたのは、特別な能力があるから、仲間がちょっと尊敬して食べものを持ってきてくれたからだよね。詩人も、ほんとはそれでいいんですよ。
実社会では、役立たずでいいんだって思います。
覚 私もそう思います。だけど、そこに「開き直る」っていう公式ができてしまうと違っちゃうんですけどね 。
谷川 開き直るのはまずいね(笑)。
https://www.1101.com/dakarakarada/2005-02-25.html?srsltid=AfmBOopUaCUBbGc956vaVEcIu0tLRg7fKW-rNHBQM-WoarPrGO_0iAzg 【第11回 青空フリーク。】より
谷川 覚さんは、詩を書くのとほとんど平行して、歌いはじめてたんでしょう?それとも歌のほうが先だったの?
覚 歌のほうが先です。子どものときに合唱隊に入って、それがすごーく気持ちがよくて高校まで続けてしまったんです。そのころバンドもはじめて結局ずっと歌ってるかんじなんですよ。
谷川 覚さんがソロで出したCDのタイトルをはじめて聞いたとき、ちょっとびっくりしたんだけど、なんで「青空1号」なんですか?
覚 極端に言うと、ですね、朝に青空が見えているかどうかってことは、私の生命に関わることだったりするんです。
谷川 へーえ!
覚 目が覚めて、晴れていて、青空が頭の上に広がっていると、血圧の低い私はとてもうれしいんです。「ああ、今日1日、調子よくすごせる」と思って。毎日とても調子がいい、というわけではないので、ときどき調子がいいときには、そのことをとっても謳歌したい、深く深く味わいたいと思うわけです。それから、私の作品にはしょっちゅう青空が出てくるんです。
極端に言うと、出てこない詩はないくらいな頻度で。空がないときは、青空の代替物としての青い海ですね(笑)。どちらかが詩に必ず出てくることを発見して、それでつけたものなんです。
谷川 青空を意識したのは、いくつぐらいのとき?
覚 けっこう早かったです。1ケタの歳のときに、もう青空を見て、涙ぐんでましたから。そのときは、健康とかは関係ないですけど、なんかね‥‥。
谷川 体調やなにやらは関係なく。感動してるわけね?
覚 感動してるんでしょうね。でもそういうところ、絶対、俊太郎さんにも、あったと思うな。
谷川 憶えてませんけど、あったと思うね。ただ、1ケタの歳かどうかはね。‥‥でも、そう言えば朝の光に感動したことはあったな。「ニセアカシアの木にお日さまがあたって、 喜怒哀楽とはちがう感動を覚えた」って、書いたことがある。あれは、小学校の3年生ぐらいのときだから、もしかしたら1ケタかもしれませんね。でもね、覚さんのCDが「青空1号」というタイトルになると聞いてから、なんとなく自分の資料を調べてみたら、「青空」の出てくる詩が、ものすごく多いんです。
覚 ああ。でしょう!
谷川 もしかしたらこれは、ひとりっ子の特徴なのかもしれない。ひとりっ子は、親兄弟に対面する前に青空と対面してしまうのかな。
覚 じつは、しょっちゅう「青空1号」の名前の由来を訊かれるので、ちょっと自分の心の深いところに訊いてみたんですけど、やっぱりね、青空から自分が「やって来た」っていうかんじがあるからだと思う。
谷川 僕は、20歳ぐらいのときに、こういうふうに書いてるんです。空の青さをみつめていると私に帰るところがあるような気がする
覚 あ。これ、詩集のタイトルにもなってますよね。
谷川 うん。この感覚は、そうとう若いころからあるんです。でも、今のほうがもっとそれに対して裏打ちができたと思う。このころはまだちょっと「頭」で言ってたかもしれない。
あるいは、ただ青空に感動しただけだったのかもしれない。今は、もうちょっと、ほら、なにしろ、そこへ帰るかもしれない年齢になりつつあるわけだから。
覚 俊太郎さんがそれを言うと、リアル。
谷川 ふっふっふ。ただ、僕は、空に対してはアンビバレントなかんじがありましたね。
ふるさとだろうと思うのと同時に、若いころに考えていたことは、これなんですよ。
空の青いところへたどり着くときつと誰もいないあれは恵み深い嘘なのだ
覚 このかんじ、よくわかります。私、ちょっと鬱っぽくなった時期があって、その時期に青空というものに対して、一体感がなくなったんです。すごく苦しいものだったんですよ。
青空に負けてるっていう、この青空と立ち向かえない、というような。
谷川 僕にとっては、青い表面が何かを隠してるという感覚があったんですよ。昼には青空が嘘をつく 夜がほんとうのことを呟く間私たちは眠つている 朝になるとみんな夢をみたという
覚 うん、そう、嘘をつくというかんじ。
谷川 夜の、星がいっぱいあるのがほんとの宇宙の姿であって、それはほとんど虚無みたいな、人間は住めないとこだって思ってたわけです。今は僕は、そう思わないんだけど、若いころはそう思ってた。でも朝になると青空がきれいな青で隠してくれるみたいな、そういう感覚があったんだよ。で、私が最後に、成熟してから辿り着いた青空の定義はこれです。
いろはかるたの「あ」に刷るための言葉でこんなものを書きました。
あ 青空は飽きがこない
── す、すごい!
谷川 永遠の真理でしょ?
覚 うん、そのとおり。
谷川 なんだか青空って、有限の人間の肉体に対して、永久にそこにあるもののような気がします。人間って、そういうものと戦って生きていくみたいな意識が特に若いころの僕にはありました。
覚 ときどき、そういう青空の青さが、自分にとって痛いんだけど、青空自体も痛んでいることを感じるときがありましたよ。
谷川 うん。僕なんか、擬人化して書いてること、あるもんね。空はなんでひとりで暮れていってしまうのか、と。ぼくらの生きている間街でまた村で海で空は何故ひとりで暮れていつてしまうのか
── 怒ってますね、空に対して。
覚 待ってくれよ、ってね。
谷川 ところで、覚さんは宇宙へ行きたいと思います?何千万円か出せば、行けるようになるんでしょう?
覚 機会があればそれは、ぜったいに行きたい。
谷川 うーん、船酔いしそう。宇宙酔いがこわい。
覚 でも、宇宙飛行士の訓練だって、何年もかけてやるぐらいだからそんな簡単には行けないよね。
── おそらく、そんなに深い宇宙までは行かなくて、宇宙ステーションぐらいまで行って、帰ってくるんじゃないでしょうか。
谷川 でも、船酔い以外は、以前よりはこわくなくなりました。
── 宇宙がこわかったですか?
谷川 うん。宇宙は真空だと思い込んでたから。なんにもないと思ってた。でも、今はそうは思わないです。もちろん物理的にも波動があるだろうし、測定できないような微粒子みたいなものもいっぱいあるだろうけども、そういう物理的なことだけじゃなくて、宇宙がからっぽだとは思えなくなりました。
── 虚無じゃない。
谷川 虚無じゃない。もうすごく、満ち満ちている。なんだか、自分はそこに参加するだけだ、みたいなさ。だから、そこへ「帰れる」みたいな感覚がある。
── きっとさみしくないですね、死んでも。空も青いし。
覚 空は青でよかったよね。
谷川 と、思いますねぇ(しみじみ)。それでいて、ときどき夕焼けでさ、すばらしい色になるのは、すごい演出だよね。
覚 プレゼントですよね。
谷川 ねぇ。
覚 ほかの色の空を、例えば一面の赤とか緑とか、想像してみたりするんですけど。
谷川 SF映画でときどきあるけど、ぞっとするね。
覚 池沢夏樹さんだったかなあ。昔、青は憧れの色だから、青空というのは手に入れようとする必要がないから楽だ、って何かに書いてた。憧れていればすむから、って。そのかんじ、すごくよくわかった。憧れていさえすればいいんだから、気楽なんですよね。
── 確かに、手が届かなさすぎな色ですね。
覚 ‥‥そうか。「空(くう)」は「空(そら)」なんだ。
── 色即是空の「空」!「ゼロになるからだ」じゃなくて、「くうになるからだ」。
「青ゼロ一号」。
谷川 ははははは。
覚 すごい発見(笑)。