下灘駅にみる「何もない地域」の魅力のつくり方
青春18きっぷの聖地
平成最後の正月休みを利用して、毎年恒例の「青春18きっぷの旅」で四国を訪れた。特に目的地は決めて行かずに旅を進めながら行き先を決め、リュックひとつ、スマホひとつの旅である。列車本数の少ない四国では、以前は重たい時刻表を駆使しながら計画を立てるのも楽しみのひとつだったが、最近はスマホの乗換案内で一発検索出来てしまって、調べる楽しさを奪われてしまったと感じるのは、旅ならではの感覚かもしれない。
さて、今回の旅で面白い体験をしたのは愛媛県予讃線の海辺にある無人駅「下灘駅」だ。JRのポスターで何度も登場している「青春18きっぷトラベラー」にとっての聖地のような駅である。そのポスターの「前略、僕は日本のどこかにいます」というコピーとその素朴な海辺の写真に目を奪われた人も多いのではないだろうか。
↑ JRのポスターに描かれた下灘駅(2000年)
その下灘駅に実際に行ってみた。確かに田舎者の僕でも何度も写真に収めたくなるほどの絶景である。
最近はインスタ映えスポットだそうで多くの人が来ていた。その様子の写真が下記である。
下灘駅での観光行動
驚きと発見は、ほとんどの人が列車ではなく車で来ている人たちであったのと、また多くの外国人観光客がいたことだ。数名にヒアリングしてみたが、ある香港人男性は「インスタグラム」で見た写真に心を奪われてぜひ行きたいと思ったとその動機を語ってくれた。その男性はもう5回目の訪日であり、今回は母親を連れてジャパンレイルパス(外国人専用乗り放題券)で福岡から広島→愛媛→香川→京都→大阪の10日間の予定だそうで、日本リピーターであった。ちなみに四国ではこれ以外にも香港人にしばしば出会ったことからも、日本への旅慣れた香港人にとっては四国はメジャーになりつつあるのかもしれない。
連日多くの観光客が来るために2年前に駅前にできたカフェの店員にで訊くと、夕陽の時間帯になると連日溢れんばかりの人らしい。確かに、目の前の豊後水道に沈む夕日があれば尚「インスタ映え」は間違いないだろう。
ここで約1時間ほど観光客の行動を観察していると、皆同じような写真を撮っている。大きく分ければ、①プラットフォームの椅子に座る、②立った状態でポーズをとる、おおよそこの2つの行動である。面白いのは、正面を向いて撮る人が若い人ほど少なく、これは前述したJRのポスターやインスタグラムで#下灘駅として掲出される写真のポーズを真似しているようにも思える。
観察している現実の様子と「#下灘駅」のインスタグラムの写真の比較から、ここがジブリ映画の『千と千尋の神隠し』に出てくる海浮かぶ駅のようだとして、物語の世界観を疑似体験できる聖地として訪れていることもわかった。物語を知る人は、主人公の千尋になりきっていたのかもしれない。
しかし、よくよく考えると下灘駅は「何もない」ただの無人駅なのだ。目に前にあるのは海であり、背には山がある。「何もない」駅が、なぜここまで人を惹きつけるのだろうか。その背景を知ることが、観光地のデザインを考えるのに極めて重要な示唆を与えてくれるのではないか。
下灘駅にみる観光地デザイン
これまで観光開発とは、地域の自然・歴史・文化などの地域資源を活用しながらマーケティング活動をしていくもので、その固有性・独自性・真正性の確かさこそが成功の秘訣であると言われてきた。しかし、下灘駅の例でいえば、地域資源は「何もない」のである。ただあるのは、目前の海の景色と無人駅である。地域住民がこれを地域資源であると認識するだろうか。確かに、最近できたカフェで提供してくれる「下灘珈琲」は、確かに豆を挽くところからするこだわりのある一杯で美味しいのだが、しかし、わざわざそのために来るとは思えない。ここからわかることは、「観光資源とは、必ずしも地域住民が知っているものであるとは限らないこと、そして旅行者の方が知っているものがある」という事実である。下灘駅が映画のシーンの舞台であることは、地域住民ではなくあるジブリ映画ファンが発見したのである。地域住民にとっては「何もない」海辺の無人駅が、ジブリ映画ファンにとっては大切なシーンの疑似体験できる舞台なのである。
このように考えると、ジブリ映画ファンにとっては、既に映画という「虚構空間」の中で「精神的な旅」していて、またそれを疑似体験するために「非日常の現実空間」で「物理的な旅」していることになる。そして、下灘駅で写真を撮り、SNSで配信・共有して「情報空間」でコミュニケーションを図り、新たな旅行者を生み出しているのだ。つまり、住民とは関係なく自律的に旅行者が観光地開発をしていると考えることもできる。
下灘駅での観光行動を紐解くと、下灘駅は、『千と千尋の神隠し』というアニメ映画を「コンテンツ」として、同好の人々が集う「コミュニティ」であり、SNSなどの「メディア」を通じて旅行者自身の自律的な行動によって既存の旅行者と潜在的旅行者のコミュニケーションを活発化させていると考えることができる。まさに情報社会の要素である「コンテンツ」「メディア」「コミュニケーション」を成立させている観光地であると言ってよい。観光地をコミュニティと表現するのは、全く背景の異なる旅行者が、同じような写真の撮り方をするような行動に表れている。実際、僕自身も不思議と連帯感にも似たような感覚を感じたからこそ、お互いに写真を撮り合ったり、違和感なく話をすることができたのだ。
観光の再定義と観光開発
もともと「観光」とは、ある旅行者が自らの日常の定住地から「物理的な移動」をして、一定期間滞在して、再び日常の定住地へ戻ってくる行動のことを指してきた。しかし、ここで述べてきた下灘駅の観光現象はどうも今までの「観光」の定義では、説明がつかない。旅行者の方が地域住民より観光資源の価値を理解していることを、これまでの観光の定義では説明できない。旅行者は、物理的な移動と体験だけが観光なのではなく、ジブリ映画というコンテンツの物語の「虚構空間」の中で「精神的な移動と体験」をし、さらに開拓者によって配信された情報をもとに潜在的旅行者はインスタグラムという「メディア」の「情報空間」でも「精神的な移動と体験」をしていると考えるのが妥当ではないか。
この前提に立つと、観光開発の担い手は、地域住民だけではなくコンテンツの関心者であると考えるべきであり、地域における魅力づくりを考える際にまず行うべきは、地域資源の発掘というよりは、地域を舞台にした「コンテンツ」の発掘にあるのではないか。コンテンツとは、フィクション・ノンフィクションを問わず、神話、伝承、史実、演劇、映画、テレビドラマ、小説、アニメ、漫画、ゲームなどにのことであるが、それらのストリーによってある場所に意味が与えられることで、観光地としての魅力が創造されるのである。香川県庵治町(あじちょう)の住民にとってはただの堤防が、『世界の中心で、愛を叫ぶ』のファンにとっては大切な価値ある舞台となる。埼玉県鷲宮町の住民にとってはただの神社が、アニメ『らき☆スタ』のファンにとっては聖地になる。ドラマや映画の舞台だけでなく、PokemonGoで観光行動が起こるのも同じような説明ができる。そして、この現象は、『東海道中膝栗毛』の弥次さん・喜多さんの珍道中の物語の読者が、伊勢参りの旅へと出かけた江戸時代となんら変わらない観光行動の本質ともいえる現象なのだ。消費者にとって全く関係のない地域をコンテンツという物語によって意味を与えて、自分事化する仕掛けこそが、「何もない地域」の魅力づくりの必勝パターンかもしれない。
このあたりの詳しい話は、1/25(金)開催のさめたく塾「メタ観光と地方創生」で話したいと思う。今回のゲストは、トリップアドバイザー・ジャパン社長の牧野友衛さんである。牧野さんは、訪日外国人が望む日本と日本人が紹介したい日本にはズレがあると言う。このことも、前述したことと繋がると考えている。「メタ観光」という切り口で新たな観光資源の文脈と地方創生に活かす観光デザインの手法を考える機会としたい。
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