日差しの暖かさ
Facebookアナンド チャラムさん投稿記事 *チャラムのメタファー解説
まず幸せを定義すべきだ マインドの不平が幸せを欲する マインド/社会にとって 便利で効率的なことは とても有用に思える だが、それは搾取の手口だ 尊厳とは侵せない聖域だ
あなたの本性/真我/実存は あなたというエゴには侵せない
そこへ到達すれば エゴは消えてなくなるからだあなたが本性へとたどり着く方法
唯一の方法は瞑想なのだ
あなたに見えるすべてはあなたの実存ではない それを排除し続けると
最後に観照者としてのエゴが残る それすら本性ではない 我を忘れるとはこれだ
知的とはマインド優先ではない 宇宙の叡智に委ねることだ 必要なすべては今ここに在る
今ここに無ければそれは必要ではない ここに在るものしか あなたは使うことが出来ない
つまり、ここに在るものを使えと宇宙の叡智は主張している
それは次への扉となる そして今ここが、次の今ここへと繋がる これが永遠ということだ
幸せのためにここにいる そのために必要なすべては宇宙の叡智がここに用意してくれている
既に、いつも、そしていつまでも LOVE Charam
片柳弘史@hiroshisj
幸せそうな人の真似をしても、それで幸せになれるとは限りません。大切なのは、その人にはその人にふさわしいものがあり、自分には自分にふさわしいものがあると気づくこと。他人は気にせず、自分にとって本当に必要なものを見つけましょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
Facebookごとう 孝二さん投稿記事「幸せは今ここにある」
目の前に1枚の紙があります。あなたが紙の片面を「こちらが表」と定義するとき、同時に「裏」が生まれます。あなたが「生」まれたとき、同時に「死」が生まれました。
あなたが何かを「美しい」と思ったとき、同時に「醜い」ものも頭の中に生まれました。
もし世界に「男性」がいなければ、自分が「女性」だとはわからない。
「善-悪」「強-弱」「左脳-右脳」「勝-負」「高-低」「出逢い-別れ」…それらは別々のものではなく、すべてワンセットであり、 互いに支えあっている。
凍える寒さを経験した人は、日差しの暖かさを知っていて病気を経験した人は、健康への感謝を知っていて飢えを経験した人は、一膳のご飯の美味しさを知っていて孤独を経験した人は、
絆の大切さを知っていて絶望を経験した者は、希望のありがたみをよく知っている。
でも 自分の弱さを認められない人は、他人の弱さを受け入れることもできず
自分の弱さがわからなければ、自分の強さにも気づくことができないのです。
光が美しく輝くことを 支えているのは「闇」であり、光が存在できるのは、闇がそこに在るからです。
あなたの光の部分を引き出すために、まず闇の部分を認めてみてください。
これは、闇を好きになれ、という意味ではありません。
好きになるのと、存在を認めるのとでは、まったく違う。
長所(光)と短所(闇)、両方あるからこそ、自分なんだと認めてあげること。
自分のダメなところ、カッコ悪いところは、素直に認めればいい。
そうやってプラスもマイナスも両方を受け入れ、それでよいのだと自分を許してあげると
心の余裕が生まれる。
心に余裕が生まれると、そのマイナスの欠点から魅力的な人間力がにじみ出てくる。
そうなれば、人はどんどん、活き活きと輝いてくるんだよ。幸せはいつも今ここにあるより。
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思春期の和多志は生きることも死ぬこともできない、ニヒリズムの深い淵に沈んでいました。生きる意味ばかりを求め、ささやかなレジスタンスを繰り返し続けました。
胎児のように体を丸め息を凝らしてこんな痛みをやり過ごしてきました。
こんな時、偶然キリスト教と出会いました。これまでの「生きる意味を問う在り方」から「神から生き方を問われるものになろう」と決め、その規範を聖書に求め、聖書の学びをし始めました。そしてクリスチャンワーカーになるべく、日本基督教団のキリスト教教育主事として 活動を続けてきました。しかし教会の働き人は 教育の専門家であったり、各社会分野の専門家であったりしました。その人たちは 無給の奉仕者です。思春期の私は生きることも死ぬこともできない、ニヒリズムの深い淵に沈んでいました。生きる意味ばかりを求め、ささやかなレジスタンスを繰り返し続けました。胎児のように体を丸め息を凝らしてこんな痛みをやり過ごしてきました。こんな時、偶然キリスト教と出会いました。これまでの「生きる意味を問う在り方」から「神から生き方を問われるものになろう」と決め、その規範を聖書に求め、聖書の学びをし始めました。そしてクリスチャンワーカーになるべく、日本基督教団のキリスト教教育主事として 活動を続けてきました。
しかし教会の働き人は 教育の専門家であったり、各社会分野の専門家であったりしました。その人たちは 無給の奉仕者です。和多志はそのころ二児の母として 子連れの(パートタイマーとはいえ)有給職員でした。教会生活には家族全員がかかわる羽目になりました。和多志が心理療法を学び始めたのは そんなコンプレックスの中で 自分の専門性を高めるためでした。 そんな和多志にブレークスルーが起きたのは サダナ黙想会への参加、各種心理療法の学び、ブレークスルーテクニックへの参加etc.でした。そんな体験の中から「生きる意味は探すのではなく 自分が選び取るもの 創造するもの」という実感を得ていきました。幸せの青い鳥を探し続けたチルチルミチルのお話をご存知でしょうか?幸せは外に探し求めるものではなく、氣づくこと!ちょうどそんなお話の実感と重なります。 阪神淡路大震災の前後から キリスト教会の様々な問題、人間が織りなす交わりの大問題などから 教会の仕事をやめる氣持ちになっていきました。 残された人生を図らずも学び、出会った心理療法を生かすことで人生へのお返しをしたいと願い みなみ心理健康オフィスを立ち上げることにしました。 よき援助者になるためには 自分のクリアリングが必要です。仕事のようにセルフヒーリングをし続けました。一番大きなスタックポイント・肩甲骨の下(生きてきてごめんなさい)を外した途端、立っておれないほど体が震え 「アメジスト色と、白昼光のセットの光」が三度輝き クンダリーニが覚醒し激しい霊現象が起こり始めました。
この死の淵をさまよい続けることになった霊現象で今までの人生観、神観、価値観のすべてが覆されることになりました。
Facebookアナンド チャラムさん投稿記事
「決心することでのみ、あなたはますます意識的になる 決心することでのみ、あなたはますます結晶化するようになる 決心することでのみ、あなたは機敏になる さもなければ、人は怠惰になる 」インドの神秘家OSHO
*チャラムのメタファー解説
決心とはきっかけの行動だ あなたが何かを決め動き出すとき 0.01に99.99が反応する
結晶化とは0.01の99.99を使ったクリエイトだ あなたが0.01としての使命を果たさないことを怠惰と呼ぶ LOVE Charam(スピリチュアル講座での解説参照)
#osho
Facebookディヤン ムディト投稿記事
56、愛より大きなチャレンジはない<OSHOの講話より>
決心することでのみ、あなたはますます意識的になる。決心することでのみ、あなたはますます結晶化するようになる。決心することでのみ、あなたは機敏になる。さもなければ、人は怠惰になる 。
人々はグルを渡り歩く、師を渡り歩く、寺院を渡り歩き続ける・・・彼らが偉大な求道者だからではなく、彼らは、決心することが出来ないからだ。だから、彼らは渡り歩く。これは、関わりもつことを避けるための、彼らのやり方だ。
他の人間関係でも、同じことが起こる。ある男が女を渡り歩く、変え続ける。人々は、彼のことを素晴らしい愛の人だと思う。彼は、少しも愛の人ではない。彼は、避けている。
深く関わることで、問題に直面しなければならないし、多くの痛みを味わわなければならないから、彼はどのような深い関わりも、避けようとしている。
だから人は、安全を第一に考える。誰かに深く立ち入り過ぎないように、心掛けている。深く行き過ぎたら、あなたは簡単には戻って来られないかもしれない。
そして、もしあなたが誰かに深く立ち入ったら、他の誰かも、あなたに深く立ち入るだろう。それは、常に比例している。
もし私が、あなたにとても深く入るとしたら、あなたにもそれと同じ深さだけ、私に入ることを許すしかない。それはギブアンドテイク、それは分かち合いだ。そうなると人は、あまりにも巻き込まれ、逃げるのは難しく、痛みは大きいだろう。
だから人々は、どうすれば、安全第一でいけるかを学ぶのだ。ただ、表面だけを出会わせればいい・・・当て逃げの恋愛だ。自分がつかまる前に、逃げる。
これが、現代の世界で起こっていることだ。人々は、とても幼稚になった、とても子供っぽくなった。彼らは、成熟をすべて逃している。
成熟は、あなたが、自分の存在の痛みに直面する用意がある時にのみ、訪れる。成熟は、あなたが、チャレンジを受け入れる用意がある時にのみ、訪れる。
そして、愛より大きなチャレンジはない。他の人と幸せに生きることは、世界における最大のチャレンジだ。
独りで穏やかに生きることは、とても簡単だ。他の誰かと穏やかに生きることは、とても難しい。なぜなら、ふたつの世界がぶつかるからだ、ふたつの世界が出会うからだ・・・まったく違う世界が。
どうして彼らは、惹かれ合うのだろう? それは、彼らがまったく違っていて、ほとんど正反対、対極だからだ。 関係性の中で、穏やかでいるのは非常に難しい。だが、それがチャレンジだ。
もしあなたが、それから逃げたら、あなたは成熟から逃げる。あなたがすべての痛みと共に、その中に入り、なおもその中に入り続けたら、その時は、徐々に痛みは祝福になる、呪いは祝福になる。
徐々に、衝突、摩擦を通じて、結晶化が生じる。もがくことで、あなたはもっと油断しなくなり、もっと気づくようになる。
相手は、あなたにとって鏡のようになる。あなたは相手の中に、自分の醜さを見ることが出来る。相手は、あなたの無意識を誘発する、それを表面にもたらす。
あなたは、自分の存在の隠された部分を、すべて知らなければならないだろう。そして、もっとも簡単な方法は、関係性の中で、鏡に映されること、反映されることだ。
より簡単だと私が言うのは、他に方法がないからだ・・・だが、それは辛い。それは辛く、骨が折れる。なぜなら、あなたはそれを通じて、変わらなければならないからだ。
あなたがマスターのところに来ると、さらにもっと大きなチャレンジが、あなたの前にある。あなたは、決心しなければならないし、その決心は、未知なるものに対してであり、その決心は、全一で絶対的、取り消せないものでなければならない。
それは、子供の遊びではない。それは、引き返すことの出来ない地点だ。だから、多くの衝突が生じる。だが、絶えず変え続けてはいけない。
なぜなら、これは自分自身を避けるやり方だからだ。そして、あなたは柔らかいままだろう、赤ん坊の様なままだろう。成熟は、あなたには起こらないだろう。
未知なるものだけが、あなたにとって、魅力あるものであるべきだ。あなたはまだ、それを生きたことがないからだ。あなたはまだ、その領域に入ったことがない。動くがいい! 新しい何かが、そこで起こるかもしれない。
いかにリスクがあろうとも、常に、未知なるものへの決心をしなさい。そうすれば、あなたは絶えず成長するだろう。
だが、既知なるものへの決心をし続けたら、あなたは過去と共に、何度も何度も堂々巡りをする。あなたは、それを繰り返し続ける。あなたは、録音されたレコードになったのだ。
そして、決めなさい。早く、そう出来れば出来るほどよい。引き延ばすのは、まったく愚かだ。明日にはまたあなたは、決めなければならないだろう。そうであれば、なぜ今日ではいけないのか?
それにあなたは、今日よりも明日の方が、自分はもっと賢明になっていると思うのか? 今日よりも明日の方が、自分は元気だと思うのか? 今日よりも明日の方が、自分は若い、今日よりも新鮮だ、と思うのかね?
明日の方が、あなたは年を取っている。あなたの勇気は、少なくなっている。明日の方が、あなたは経験を積み、あなたの狡さは増している。明日の方が、死は近づいているだろう。あなたは震え出し、もっと怖くなるだろう。
けっして、明日に引き延ばしてはいけない。そして、誰に分かるかね? 明日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
決めなければならないのであれば、まさに今、あなたは、決めなければならない。
OSHO:Dang Dang Doko Dang より抜粋