元横綱北の富士死去
相撲は、昔から結構好きで見ている。
昨今は、横綱(照ノ富士)が満身創痍で出てこないことが多いが、大関以下が結構実力が伯仲してきており、だれがこれから飛び出して行くのか、群雄割拠の時代と思う。
売り出し中の大の里(今場所は苦戦しているが)のほか、目下一敗で並走中の豊昇龍、琴櫻の両大関、関脇以下でも阿炎、若元春&若隆景の兄弟、大関陥落したが巻き返しを図る霧島、ぶちかまし一筋の大栄翔、隆の勝、意表を突く宇良、翔猿、下の方だが尊富士、等々、結構目を引く力士も多い。
最近はちょっと太り過ぎの力士が多くなっており、一瞬でバターンと倒れて終わりのような相撲も少なくないが、そんな中でも早い相撲、また力相撲で見せてくれるものもまた出てきている。体を絞った力士の肉体のぶつかり合いはやはり魅力的である。
そんな中、元横綱北の富士死去の報に接した。
この人は、長く相撲放送の解説者として、洒脱なトークでならしていた。
しかし、個人的には何と言っても、大相撲で一番最初にファンになった力士である。
小学校1年生だった1971(昭和46)年10月、横綱玉の海が急死した。この出来事があってすぐの場所が、11月の九州場所。私はその場所からその後長く、新聞の相撲記事の切り抜きを続けるようになった。玉の海が死んだときのニュースはなぜか未だに覚えており、幼いながらショックだったのだと思う(なお、大鵬については、名前は当然知っていたが、現役時代のことはほとんど知らない。同年の5月場所で最後に貴ノ花に負けて引退している。)。
玉の海と北の富士は、同時に横綱に昇進し、「柏鵬時代」に次ぐ、「北玉時代」と呼ばれる時代を形作っていた。1970~71年ころは、大半の場所で、この2人のいずれかが交替で優勝するという状況だった。1971年は、初場所、春場所が玉の海、夏場所が北の富士、名古屋場所が玉の海、秋場所が北の富士、という感じで優勝をわけあったのではなかっただろうか(一部不正確かも)。
玉の海の死去は、北の富士にとっては大変なショックだったようで、直後には人目も憚らず号泣する姿がテレビでも報じられたようである。
私が大相撲を本格的に見始めてからの北の富士の成績は、次のようなものであった(毎場所食い入るように見ていたのだと思う。下のデータは何かを見て書いたものではない。頭に入っているもの。)。
1971/九州 13-2(優勝)
1972/初 7-7 1休(優勝は平幕栃東・・父)
1972/春 9-6(優勝は関脇長谷川)
1972/夏 3-6 6休(優勝は関脇輪島)
1972/名古屋 全休(優勝は平幕髙見山)
1972/秋 15-0(全勝優勝)
1972/九州 10-5(優勝は琴櫻・・祖父)
1973/初 10-5(優勝は琴櫻・・祖父)
1973/春 14-1(優勝)・・琴櫻横綱昇進場所で奮起?
成績のブレがすさまじい。
当時は、「お天気横綱」などと言われ、強いときはとても強いのだが、弱いときは本当に不安定で、当時若手だった輪島とか貴ノ花、人気だった髙見山、それに実力者の長谷川、魁傑、等々にバタバタと負けていた。速攻相撲が持ち味だったのだが、腰高のまま出ていくので、そこをつかれることも多かった。私は、北の富士の相撲が始まるときは、いつもとても緊張していた。そして、負けると「また負けた・・」という、なんとも言いようもない失望感(その後、いろいろな場面で味わうこととなるあの感覚)に苛まれていたのである。
死亡記事の関連でも出ていたが、貴ノ花(若貴の父親)とは1972/初場所で、「かばい手」が問題となった有名な一番があったが(北の富士が勝利。木村庄之助が行司差し違えだったか?)、翌春場所で、今度は「勇み足」で貴ノ花が勝ったという話は、忘れられているのかもしれない(この一番も、上記した「腰高」で外掛けをかけながら強引に出ていって、貴ノ花よりも前に足が出てしまった、というものであった。なお、当時の相撲の取り組みをビデオで見ると、立会の時に誰も手なんてついていなかったことがよくわかり、感慨深い(笑)。)。
親方としては、千代の富士、北勝海という2人の横綱を育て、その後解説者としても人気を博した。現役時代に好きだった人がいつまでもテレビ等で元気な姿を見せてくれていたのは、個人的にも嬉しいものだった。
期せずして、火野正平の訃報にも接したが、なんというか、自由人を謳歌していた人があいつでなくなり、なんとも寂しい。