供養
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
50年 100年先を考えるのが政治家です。地球では絶滅種のようです。
小人は、今日、明日のことに一喜一憂している愚衆です。50年先のことを考えているかたがいらっしゃいます。母親です。有難いです。母親は受精したときから子育てに専念します。
子育て以上に崇高な働きはありません。
胎児 赤ちゃんが 嗅いでいます 傾聴しています 見ています 感じています
父親も 理屈抜きで 夫婦愛和に努めます。
胎児 赤ちゃん 喜びます。「お母さんを選んで生まれてきて良かった」と。
この達成感・満足感こそ人間のスタートです。
出産しましたらすぐ赤ちゃんを腹に乗せます。赤ちゃんは乳首に食らい付きます。
お母さん 喜んで「生まれてきて ありがとうございます」となります。
母乳 どんどん出ます。赤ちゃんは母乳で育てます。哺乳類ですから大丈夫!
赤ちゃんは母親が頼りです。子どもはお母さんが大好きです。
子どもが小学生を卒業するまでは子育てに専念します。母親は君子です。
母親は政治家です。50年先100年先 大丈夫️
https://heartful-moon.com/message/6995 【「供養には意味がある」】より
先日、『供養には意味がある』という本を産経新聞出版から刊行いたしました。同書には「日本人が失いつつある大切なもの」というサブタイトルがついています。
タイトルのように「供養」についての本ですが、「終活」についてもたくさん書かれています。なぜかというと、日本初の終活専門誌である『終活読本ソナエ』(産経新聞出版社)に連載した原稿を収録しているからです。
超高齢化国でありながら、「死」をタブーとする傾向の強い日本において、同誌の創刊は非常に画期的であり、その内容はすべて興味深いものばかりでした。その『終活読本ソナエ』で、わたしは複数の連載コラムを担当させていただきました。
終活について考えると、日本人の寿命はついに男女とも80歳代を迎えました。言うまでもなく、現代日本は超高齢社会ですね。いま、年間140万人以上の人が亡くなり、2030年には160万人を超すと言われています。超高齢社会は「多死社会」でもあるわけです。多くの人々が死を意識しながら、延びた寿命を生きていくことになる。そこで終活というわけです。
仏教は「生老病死」の苦悩を説きました。いま、「人生100年時代」とやらを迎え、「老」と「死」の間が長くなってきました。「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか――そのための活動が「終活」です。というわけで、日本に空前の「終活ブーム」が訪れ、『終活読本ソナエ』も創刊された次第ですが、「終活」という言葉を嫌う人も多く存在することを知ってしまいました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしは「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいますね。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味でもあります。また、供養について考えてみたいと思います。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションであると考えています。そして、供養においては、まず死者に、現状を理解させることが必要です。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。
古代から、日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世にいくと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。
夢幻能も、此岸彼岸を往還する霊の話です。昔の日本人はみな、直観的に「人の死後の存続」を信じていたのかもしれません。「人の死後の存続」を信じる心が、今日のような盆などの風習を残しているわけです。
日本人は、古来、先祖の霊によって守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」なのです。
盆行事に代表される供養は、仏教の僧侶によって執り行なわれます。「葬式は、要らない」とか「葬式消滅」などと言った人がいました。その人の言説の効果もあったのか、「葬式仏教」と呼ばれる日本仏教への批判の論調が盛り上がったこともあります。
しかしながら、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。そして、その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。「葬式仏教」は、一種のグリーフケアの文化装置だったのです。
わたしどもサンレーでは、紫雲閣を中心に日本各地のみなさまの供養のお手伝いをさせていただいております。これからも、心をこめてお手伝いさせていただきたいと願っています。
https://heartful-moon.com/message/10199 【「死と葬と供養の新しいかたち」】より
このたび、わたしは、ペンネームの一条真也ではなく、本名の佐久間庸和として二冊の本を書きました。『ロマンティック・デス 死をおそれない』、『リメンバー・フェス 死者を忘れない』です。
まず、ロマンティック・デスとは何か。直訳すれば「美しい死」ということになるのでしょうか。わたしは、「死を美化したい」と思いました。死は美しくなければならないと思いました。なぜなら、わたしたちは死を未来として生きている存在だからです。
未来は常に美しく、幸福でなければなりません。もし死が不幸な出来事だとしたら、死ぬための存在であるわたしたちの人生そのものも、不幸だという事になるからです。
わたしたちはこの世に生を受けた瞬間から「死」に向かって一瞬も休まずに突き進んでいます。ですから残された時間を幸福に生き、幸福に死にたい。これはわたしだけではなく誰もが願うことでしょう。
わたしたち全員が「死」のキャリアであり、あらゆる人々が「死のロマン主義」を必要としているのではないでしょうか。
死は決して不幸な出来事ではありません。なぜなら誰もが必ず到達する「生の終着駅」だからです。死が絶対の存在なら、死を避ける、あるいは死を考えないのではなく、素晴らしい終着駅にするべきではないでしょうか。
わたしは『ロマンティック・デス』に三つのテーマを与えました。まず一つは「死」とは何か。わからない死をイメージするための手助けになればという思いです。二つ目は「月」としました。死後の世界観を示す試みです。三つ目は「葬」です。現代社会において、「葬」の役割を、普遍的なものと変わるべきものでとらえなおす作業となりました。
次に、リメンバー・フェスとは何か。それは供養のアップデートです。「盆と正月」という言葉が今でも残っているくらい、「お盆」は過去の日本人にとって楽しい季節の一つでした。一年に一度だけ、亡くなった先祖たちの霊が子孫の家に戻ると考えたからです。
日本人は古来、先祖の霊に守られて初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちを「供養」という形で表したものが「お盆」です。
一年に一度帰ってくる先祖を迎えるために迎え火を焚き、各家庭の仏壇でおもてなしをしてから、送り火によってあの世に帰っていただくという風習は、現在でも盛んです。同じことは春秋の彼岸についても言えますが、この場合、先祖の霊が戻ってくるというよりも、先祖の霊が眠っていると信じられている墓地に出かけて行き、供花・供物・読経・焼香などによって供養します。
それでは、なぜこのような形で先祖を供養するのかというと、もともと二つの相反する感情からはじまったと思われます。一つは死者の霊魂に対する畏怖の念であり、もう一つは死者に対する追慕の情。やがて二つの感情が一つにまとまっていきます。
死者の霊魂は死後一定の期間を経過すると、この世におけるケガレが浄化され、「カミ」や「ホトケ」となって子孫を守ってくれる祖霊という存在になります。かくて日本人の歴史の中で、神道の「先祖祭り」は仏教の「お盆」へと継承されました。
サンレーは冠婚葬祭互助会です。毎年、お盆の時期には盛大に「お盆フェア」を開催して、故人を供養することの大切さを訴えています。しかしながら、小さなお葬式、家族葬、直葬、0葬といったように葬儀や供養に重きを置かず、ひたすら薄葬化の流れが加速している日本にあって、お盆という年中行事が今後もずっと続いていくかどうかは不安を感じることもあります。
特に、Z世代をはじめとした若い人たちは、お盆をどのように理解しているかもわかりません。お盆をはじめとした年中行事は日本人の「こころの備忘録」であり、そこにはきわめて大切な意味があります。
お盆が古臭い、形式的なもので、なぜあるのかわからない。お盆って夏休みじゃないの。お盆なんかなくなってもいいのでは―でも、わたしは先祖を供養してきた日本人の心は失ってはいけない、と思っています。お盆という形が、あるいは名前が現代社会になじまないなら、新しい箱(形)を作ればいいのでは。そんな思いに行きつきました。それが「リメンバー・フェス」です。「リメンバー・フェス」は「お盆」のイメージをアップデートし、供養の世界を大きく変えます。