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メメントモリ

2024.11.23 08:08

thanatology@thanatology_bot

人間は、一日一日をよく生きながら、しかも同時に、常に死に処する心構えの用意を続けなければならない。私は生命をよく生きるという立場から、死は生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から心の準備を怠らないように努めるのである。(岸本英夫)


Facebook西畑 ありさ さん投稿記事

あの世とこの世をつなぐもの 死んだら終わりなのか。この世もあの世もつながっているのか。あなたは何を想うでしょうか。昨日、旧友のシテ、関直美 さん重要無形文化財総合認定記念の能を鑑賞してきました。

その最中、田中さおちゃんの訃報を目にしました。その日のお能の演目、井筒は、この世とあの世に境なく 移りゆく世界が表わされていました。

生きて偉大な芸術を見せてくれる友、天真爛漫な明るさを魅せてくれた友。

あちらもこちらもつながっている。そんなことを思います。#メメントモリ


Facebook西尾仁さん投稿記事

死の間際に人間はしっかり人生を振り返るのだそうです。また、患者たちが語る後悔には同じものがとても多い。人生最後の時を過ごす人々が口にした後悔のトップ5

1. 「自分自身に忠実に生れば良かった」

・「他人に望まれるように」ではなく「自分らしく生きれば良かった」という後悔。

2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」

・仕事に時間を費やしすぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かった

3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」

・世間でうまくやっていくために感情を殺していた結果、可もなく不可もない存在で終わってしまった

4. 「友人関係を続けていれば良かった」

・もっと友達との関係を大切にしておくべきだった

5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

・「幸福は自分で選ぶもの」だと気づいていない

慣習やパターンに絡めとられた人生を「快適」と思ってしまった。変化を無意識に恐れ「選択」を避けていた。

このような人生に気づき、悔いを抱えたまま世を去っていく人が多いようです。

明日からどう過ごしますか。


https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/wa-ku_memenntomori.htm 【死のワークショップ】


Facebook天外 伺朗さん投稿記事

***「死の瞑想」***

高名なセラピスト、玉依 真乙さんが天外塾の「死の瞑想」の感想を書いてくれた。いま日本で、これほど本格的な「死の瞑想」を実施しているところは他にないだろう。

 いまは癌患者を対象とした「死と再生の瞑想ワーク」セミナー(https://officejk.jp/seminar/detail15/)で実施している。

玉依 真乙  2016年9月24日 · 東京都東京都世田谷区 ·《死の瞑想体験》

天外伺朗さんの「死の瞑想」を受けてきた。凄いタイトルだ。「チベットの死者の書」を素材として使った瞑想ワークで、現代人のほとんどが直面できておらずモンスター化しているという「死の恐怖」から、ちゃんと死を見つめて実存的変容を起こしていこうという意図のもの。

起きることは人によって違うはずだけれど、せっかくの機会なので自分なりに起きたこと、体験を書いてみる・・

まず遺書を書くところから始まるのだけれど、あと僅かの時間で死ぬのだと思いこむと、身近な人たちに対して、かなり本気の言葉が出てくるものだ。手が痛くなるほど、制限時間内いっぱいいっぱいに書き綴りたくなる。時間が惜しいほどに。自分はこんなに人を愛してた人間なの?とびっくりするくらい。

まもなく「死の瞑想」が、天外さんの誘導で始まる。

瞑想が進むなかで、改めて時々やってくる「まだやっぱり死にたくない」という思い「できれば逃げたい」とか。バンジージャンプ的なアクティビティの前とか、小さいころに、歯医者さんの椅子に座った時に感じた恐怖みたいなやつが、拒絶感を伴って時々ふっと沸いてくる。「怖い、やだ、帰る!」みたいなやつ。

 そういえば、一休さん「死にとうない」言ってたな・・ええ、私もやっぱり「死にとうない」。よく言った。ほんとそうだ。恐怖がふっと沸いては消え、沸いては消えていく。もう、自分という存在には戻れないのかという・・絶望にも似た、受け入れられなさ。(人生を振り返るとかこれまでの人生が走馬灯のように見えてそこに意味を見出すとか・・そんなのは浮かびすらしなかった。。)涙がつつーと流れてくる。

拒絶感と、何も感じないような無の感覚とをなんとなく繰り返すなか、ある時点、何かがふっきれたのか、平安な感じになってゆくというか、何かにゆだねてゆくような感覚になってきた。流れのままにたゆたう・・軽ーくなる時点がやってくる。静けさと平安。意識がフラットになり、人間関係含め、後ろに残したことがただただ、過ぎ去ってしまった何か、になって意識から遠のいてゆくような。

正直なところ、この時点で瞑想の誘導はあまり聞いてなかった。もっと言えば、多少寝ていたのかもしれない。それくらい緩んでいた気がする。

 本当に死んでゆくときには、またもっと違う体験になるのかもしれないし、それはまたその時のお楽しみとして、今感じるのは・・死は『いつか必ず自分の身に起こる何か』なのだ、という深いところでのサレンダー、実感を伴った理解。死の存在を受け入れたところからやってくる、不思議な・・あきらめにも似た安堵感。そのうえで、『今は確実に生きているのだ』、というあらためての認識。生の感覚。

「死を知ることで、生を知る。。。メメントモリ、死を思え」

言葉にするとこれほど陳腐なことはないのだけれど、体験(疑似体験ではありましたが・・)として知ることと頭での理解はあらためて全く別物であるということも、実感でした。意図されていた「実存的変容」が起きたのかはわかりませんが、いまだに何か重たい感覚はあるものの、どこか静かな腹の座り感みたいな感覚はあるかな。

 あとから腑に落ちてくるものはこれからまだまだありそうですが・・いやきっとあるに違いない。今は熟成させてみたい、そんな体験。貴重な機会をくださった、「愛すべき死神」天外さんに心から感謝を。


Facebook東郷 清児さん投稿記事

あなたは真実の人が死んでゆくのを見たことがあるだろうか?

真実の人が死んでゆくのを見ることはめったにない。が、見たことがあれば、あなたは驚くだろう、死はその人を非常に美しくする。

彼がそれほど美しく見えたことはかつて一度もなかった。

だが、死が訪れると、すべてがくつろいでいる。そして、老年の病、老年の限界の惨めさもまた去っている。

人は肉体から解放されようとしている。大いなる喜びが内奥の中核から湧きあがり、一面に広がる。

死んでゆく真実の人の目のなかに、あなたはこの世のものではない炎を見ることができる。そして、彼の顔のなかに、神のものである気高さを見ることができる。

そしてあなたは、生が彼に与えたすべてのものへの、神がそうまで寛大であったすべてのものへの深い感謝と受容のなかで、ゆっくりゆっくり、死のなかにすべり込んでゆくその人の静けさ、苦闘のない静けさ、無抵抗の静けさを感じることができる。

感謝が彼を取り巻いている。

「一休道歌」より (バグワン・シュリ・ラジニーシ、めるくまーる社 )

在宅医療に携わっていますと、ここに書かれているような場面にしばしば遭遇します。

安らかな死とは、「生」から「死」へ落下するのではなく、ゆっくりゆっくりすべり込んでいくもの。私もそう感じます。