「貪欲警戒注意報」
ルカの福音書12章13―21節
13. 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
14. すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」15. そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
16. それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17. 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
18. そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
19. そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
20. しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21. 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
礼拝メッセージ
十戒シリーズ ⑪
2024年11月24日
ルカの福音書12章13―21節
「貪欲警戒注意報」
クリスマス・お正月また誕生日を前にして、子どもたちの期待は高まります。「あれがほしいな。これが良いな!」と物欲が高まります。大人も似たり寄ったりかもしれません。そんな私たちに神様は、十戒の最後十番目の大切な戒めとして、
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト記 20:17)、
また、少し表現が異なりますが、
「あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」(申命記 5:21)
と語りかけてくださいます。「人のものを見て、うらやましい・欲しいと思ってしまうこと。神様があなたに与えてくださっているもので満足できず、よけいにほしがること。貪(むさぼ)ること。貪欲に陥ってはいけない。それが、多くの罪の根っこにあるのだから!」と神様は、私たちに「貪欲警戒注意報!」を発してくださっています。
これは戦時中の日本で言われていたような「欲しがりません。勝つまでは」とか「ぜいたくは敵、質素倹約を旨とせよ」、「いつも無私無欲でいなさい」または「身の丈に合った生活をしなさい」といった道徳でも生活の知恵でもありません。私たちに我慢を強いたり、無理をさせ苦しめようとする戒めではないはずです。私たちに本当の幸せ・祝福に気付かせるための神様からのみ教えだと思います。
神様は私たちのために、この地上に本当に良いものを沢山備えてくださいました。暖かな日差し、安心して吸うことの出来る空気、豊かな実りをもたらす大地、美味しいお水や食べ物、素晴らしい最高傑作品として造られたこの身体と心、そして大切な家族や隣人などなど。それらを私たちが願い求め、喜び、満足し、与えてくださる神様に感謝することを願っておられます。
創世記2章9節で、「神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた」そして、16節で、神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と呼びかけてくださる神様です。唯一食べることを禁止されていたあの「善悪の知識の木」も、エデンの園を造られ、私たちを造り生かしてくださっているお方を忘れないでいるために。神様の主権の下で生きる私たちであることをいつも確認し、神様に感謝し、神様とともに歩むために備えられていた良い木でした。みんな良いものでした。
使徒パウロも、人間的禁欲を強いる宗教家に対抗し、「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」(Ⅰテモテ4章3―5節)と教えています。
私たちは生きていくために:健康を維持し、日々力を得て学び・働くために、飲み食いをし、休息を取ります。そのために「食欲」や「睡眠欲」が与えられています。また孤独にではなく、誰かと語り合い、分かち合い、愛し合って、ともに生きるために、「誰かとつながっていたい」という願いも与えられています。
神様が私たちのために備えてくださった良き思い・良きものを、けれども悲しいかな、私たち人間はそれらを悪用してしまっています。私利私欲でそれらを奪い取ろう、独占しようとしてしまいます。心配の種を持ち出し、将来への不安を解消しようと、また自分の欲望を満たすために、自分のためだけふところにしまい込んでしまうのです。
ルカの福音書12章16節からのイエス様のたとえ話に登場する「愚かな金持ち」もそうでしたね。主イエス様はこの場面、貪欲を戒め(15節、21節、)、心配しなくて良いのだと励まし(22―32節)、そして天に宝を積みなさいと勧めます(33,34節)。
事の発端は、親がのこしてくれた「遺産」を巡って起こった兄弟喧嘩を仲裁してほしいと、一人の男がイエス様のもとにやって来たことからです。彼の心にあったのは、イエス様に「自分に有利な判定をしてもらいたい。そして少しでも多くの遺産を手に入れたい」という願いでした。
イエス様はその男に、さらに周りにいた人たちにこう言われます。14,15節
すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
神様が人にいのちを与えられた目的は、自分のためだけに財を築き、お金儲けをするためではないと、イエス様は語られるのです。このことを、16節からのたとえ話で教えてくださいます。小さな倉を壊して、大きな倉に建て替えようと考えた金持ちがいました。広大な土地を持っていた大地主だったのでしょう。彼の過(あやま)ち、考え違いは何だったのでしょうか?
大金持ちの男は、富や財産、目に見える蓄えがたくさんあれば心配ない。これだけ蓄えがあれば、一生、安心して暮らしていけると考えてしまいます。19節で、
そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め、食べて、飲んで、楽しめ」と豪快に言い放ちます。この金持ちは、財産に絶対的な信頼、絶対的な保障を置いてしまったのです。
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)と、神様に感謝することを忘れています。また、畑で実際に汗水流して苦労して働いてくれた従業員に感謝し、その豊作の恵みを分かち合うことも忘れています。
貧しい人たち、生活に行き詰っている人たち、助けを必要としている人たちにささげていこうなどとは微塵も考えません。そういった発想すらないのです。全部自分の功績・そして全部自分のものと倉にしまい込もうと企むのです。
私たち人間に富を与え、豊かな収穫を与えてくださるお方を、彼は見失っていました。財産が自分の安心の源=頼るべき偶像となっていました。
そんな金持ちに、神様は「愚か者!」と厳しくしかりつけます。20節、
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
この世のいのちが取り去られたら、あなたの財産や蓄えに、いったい何の意味があるのか!? 愚か者よ、と神様は言われるのです。イエス様は、マタイの福音書16章26節でも、このように語っておられました。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいでしょうか。」
私たちの生きる目的は、まことのいのちを得ること。それよりも大切なことないと、イエス様は語られるのです。そしてイエス様が「いのち」と言われる時、それは「寿命」とか、「人生」の意味ではなく、命の源なる神様と永遠につながっていること。神様ととも生きることを指しています。
そしてイエス様は、私たちにその「いのち」を大切に生きてほしい、無駄使いしてほしくない願っておられます。富を手に入れるためだけに、そのいのちを用いてほしくない。「何を食べようか、何を飲もうか」と心配し続けるためだけに、そのいのちを用いてほしくないと願っておられます。
神様は、私たちにいのちをどのように用いてほしいと願っておられるのでしょうか? 2つのことです。「神を愛することと、他者を愛すること」です。一つ目は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。二つ目は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22:35-40)ルカの福音書12章でも、イエス様はこの2つを教えます。まず神を愛することを12章31節で、「あなたがたは御国を求めなさい」。そして、他者を愛すること33節、「自分の財産を売って施しをしなさい」と。それこそ神様が、私たちに与えたい祝福、私たちの本当の幸せなのです。
そして「貪り」の悪・誘惑は、この神様からの祝福を見失わせてしまうのです。神様のみことば・み教え、救いの約束よりも、この世の金儲けの話、お得な情報の方がグッドニュース(福音)に聞こえてきてしまいます。
私は年を重ねて来て、若い頃よりは物欲は減ってきたかなと感じています。けれども毎日、主夫をし買い物をする中で「損をしたくない」。「お得に買い物をしたい」という衝動にとらわれていることに今回、気付かされました。ある意味、お金にとらわれていました。それが私の貪りだと気付かされたのです。「○○%引きのクーポン券」をレジで出し忘れないように準備しておきます。「ポイント5倍の日」を狙って買い物に行きます。そういった生き方をしていますと、恥ずかしいのですが、朝、聖書を読んでいる時に、「〇○○円分のお買い物クーポンの使用期限が近付きました」とスマホにメールが届くと、「もったいない、使わなきゃ」と、みことばそっちのけでお得に何を買おうかと、そちらに心が向いてしまうのです。
貪りの悪は、神様よりもこの世のこと:ものやお金に心を向かわせてしまいます。本当の祝福・幸せを見えなくさせます。
また貪りの悪は、この世で素晴らしいものを備えてくださっている神様への感謝を見失わせます。「あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」(申命記 5:21)。
神様があなたのために与えくださった、あなたの妻・夫よりも、お隣りの奥さん・ご主人の方が魅力的に見えてしまったなら要注意です。「うちの旦那も、お隣りさんのように子煩悩で、よく家のこともやってくれて、優しい人だったら良いのに」と、うらやましく思ったなら、あなたの一番大切な隣人をないがしろにしてしまっています。
先週、みことばから見たイスラエルのアハブ王は、隣人の畑:ナボテのぶどう畑に目がくらみ、それを手に入れるために妻の悪知恵で、偽証で正しい人を死に至らせました。「人の畑が欲しい。自分のものにしたい」という貪りの悪が、「偽証」、「盗み」、「殺人」というおぞましい罪に結びついていったのです。
あなたの内側に「貪りの悪」はないでしょうか? まだまだ足りない、不安だ、もっと欲しい、得をしたい。最新式のものでないとだめだ。そんな思いに駆られてしまってはいないでしょうか? 交読したみことば テモテへの手紙 第一 6章 6節からにあったように今、与えられているもので満ち足り、与えてくださっている神様に心から感謝できているでしょうか?
そして、神様があなたに与えくださっている豊かさ・祝福・数えきれない賜物を、隣人のためにささげているでしょうか?
十戒を通して与えられた神様からの祝福の約束をもう一度、それぞれ思い巡らしていきましょう。
― 私は、ただ一人のまことの神のみを拝み、祈り、感謝し、賛美して
生きているだろうか?
― このお方に従って、このお方の喜ばれる生き方を求めて歩んでいるだろうか?
― 日々、与えられたいのちを何のために用いているだろうか?
― 自分のためにだけだろうか? それとも誰かのために生きているだろうか?
アドベント・クリスマスに備えていく今、ひとり子をも惜しまずにささげてくださった父なる神様のご愛・そのいのちまで私たちのためにささげてくださったイエス様のご愛を慕い求め、そのご愛に満たされて、歩んでまいりたいと願います。
祈りましょう。