動的平衡
Facebook池谷 啓さん投稿記事
細胞は、受精卵が二つ、四つ、八つと分裂して増えていって、数百個ぐらいになった時、初めて自分がどんな細胞になるかを決めはじめます。
つまり、細胞一つ一つは最初から自分の天命を知っていて、私は脳になる私は肝臓の細胞だ、と決めているわけじゃない。 指令書も持ってないし、誰かに命じられるわけでもない。
では、どうやって決めるのか? 実は前後左右の細胞とそれぞれ空気を読み合うんです。
空気というのは喩えですけれど、隣り合う細胞同士が接していて、情報や物質を交換したり、細胞表面の凸凹を互いに差し出したりしてコミュニケーションをとって、「きみが脳になるならば、私は心臓になろう」「きみが皮膚の細胞になるなら、私は骨の細胞になりましょう」と文楽人形のパーツのように細い糸で結ばれながら、互いに他を律して、自分の分担を決めていく。
(中略)
細胞一つ一つは全体のマップを持っていないのに、関係し合いながら、つながりながら、全体としてはある秩序を作れてしまうことが生命現象の最大の特性なんです。
(『せいめいのはなし』福岡伸一著 新潮社 2012年)
▽
自分の生き方は、いつも先が見えない。しかとしたビジョンなんてない。これまでは、「盲ヘビにおじず」「出たとこ勝負」でやってきた。まあ、それでなんとか切り抜けてきたんだなあと思う。
最初からきちっとした設計図とかビジョンがあるわけではない。
それだと、その実現に向けて努力することになる。
「ねばならない」というプレッシャーがあると、不自由でうまくいかない。疲れる。パワーが落ちる。
▽
「数珠つなぎ」ですすんでいくというのが、近ごろの感覚。
何かの縁をきっかけ、あるいはひらめきによって、ひとつ形にする。なんとか形になる。
するとそこから、それを縁として、なにか呼応したものがやってくる。
それでまた、形を作る。するとまた、響き合ったものがやってくる。
それでいろいろ繋がていって、最後のあたりに「おお、こういうことをつくろうとしていたんだ」ということがわかる。そんな気がしている。でも、いろいろとまだ見えない。たぶん、ずっと見えない。
Faceook向後 善之さん投稿記事
「動的平衡ダイアローグ」 福岡伸一 著 小学館新書
生物学者の福岡伸一さんの対談集。対談相手は、小泉今日子、カズオ・イシグロ、平野啓一郎、佐藤勝彦、玄侑宗久、ジャレット・ダイアモンド、隈研吾、鶴岡真弓、千住博。
本屋で見つけて、これは、読まなきゃ!と思って、すぐ書いました。
面白かった。
小泉今日子さんは、すごい!
「過去や未来がぱあーっとと綺麗に並んで横にあって、私が一歩歩くと、過去や未来もみんな一緒にぴょーんと歩くみたいな、そんなふうに捉えたらすごく楽しくなるんじゃないか、なんて考えていました。(p.38)」
ということを若い頃から考えていたのだそうです。
僕には、この発想はなかったですねぇ。
小泉理論を多世界理論に当てはめてみると、新しい宇宙が誕生するたびに未来だけではなく過去も変わってしまうということになります。それは、あり得るのか?なんて考えていたら、物理学者の佐藤勝彦さんが、「一つの宇宙から多くの宇宙が次々に誕生するという論文を書きましたが、最近はその部分の理論が大きく進歩し、それらの宇宙では、物理法則までがそれぞれに異なると考えられています。(p.107)」なんてことをおっしゃっています。
そうか!物理法則が変わるっていうことは、過去も異なっていいんだってことで、小泉理論は、多世界理論で説明できるかもしれません。
福岡さんは、「人間の体はかちっとした個体みたいに思われているけど、じつはたえまなく入れ替わっているんです。蚊柱のようなものです。(p.25)」と言います。人間は、いや生物は全て、蚊柱みたいなもの・・・だとすると、アイデンティティって?本当の自分って?自己実現って?ということになります。
平野啓一郎さんは
「別に意識してキャラを演じているんじゃない。自分の意識とは関係なく、その場の対人関係に合わせて、ごく自然に、異なる自分になっているわけです。そのどれかを「本当の自分」だと決めつけることに、強い違和感がありました。(p.84)」
「アイデンティティは固定したものではなく、さまざまな人や物との出会いによって分化するものです。こうした変化を、「分人化」と表現できると思うのですが。(p.87)」
と言います。
それを受けて福岡さんも
「もし人の本質がそのように動的なものであるなら、確固たるアイデンティティがあると信じ、それをひたすら求め続ける「自己実現」の物語も、非現実的な虚構でしかないことがわかります。(p.87)」
と言っています。
心理学、ピンチ!!!
自己実現とは、「何かを付け加えるのではなく、余計なものを取り去った状態」ですから、無の状態ってことでしょうかね?
そして、マズローさんは言っています。
「自己実現は静的状態ではない。個人の能力を創造的に楽しみながら十分に生かしていく絶え間ないプロセスである。(自己成長の基礎知識2より)」
ということは、世間の「自己実現」に対する捉え方が、ちょっとずれているのでしょうね。そして、福岡さんは、本来の意味ではなく、少々ずれた一般的な自己実現の概念について語っているのでしょう。もっとも、心理の専門家にも「ずれた自己実現の概念」をお持ちの方は少なからずいるのかもしれませんが・・・。
さて、じゃあ、自分とは何か?
福岡さんによれば、
「何を根拠に、自分が一貫した存在だといえるのか。それを支えるのが「記憶」なのではないでしょうか。(p.63)」
カズオ・イシグロさんも「私にとって小説を書くと言うことは、薄れゆく記憶を永遠に固定する手段でした。(p.63)」と言われています。
人は、記憶を根拠に自分という存在を理解しているのでしょう。でも、その記憶も動的に変化し得るのかも。
カズオ・イシグロさんは、さすが小説家、「私にとって大人になるとは、いまいったように、世界が教えられてきたような優しく素晴らしい場所ではないと気づくことです。(p.67)」など心に残る言葉をさらっと、おっしゃいます。
ジャレット・ダイアモンド(生物学・人類生態学者)さんは、「多くの伝統社会では「体罰」が行われていない (p.153)」と言います。そして、「価値の高いものを所有している集団ほど、体罰をする傾向があるのではないか (p.155)」と考えています。
大人が価値があると考えるものを子どもが無くしたり壊したりすると体罰を加えるということで、要は、体罰は子どものためじゃなくて、大人のエゴによるものなんですねと思いました。
ダイアモンドさんは、「例えば、6550万年前にメキシコ湾に落ち、恐竜を絶滅させたといわれる隕石の落下点がわずかにずれていただけで、私とあなたのような人間同士が今こうして語り合っている状況はなかったかもしれない。(p.168)」とも言っています。
因果律で全てを説明しようとするのは、無理があるのでしょう。先のことはわからない。複雑系のみらいは予測不能です。
さて、福岡さんが主張している「動的平衡 dynamic equilibrium」の、「秩序は守られるためにたえまなく壊されなければならない」という考え方ですが、とても興味深いです。
生命体は、「率先して自らの一部を壊すことで、「エントロピー増大の法則」に抗っている。(p.28)」ということになるのですが、だとすると、なんで、最後に「エントロピー増大の法則」に負けて、死を迎えるのかという疑問を持ちました。
・・・と、いうわけで、ChatGPT先生に聞いてみました。以下がその答えです。
Q:福岡伸一さんは、「生命体は、率先して自らの一部を壊すことで、「エントロピー増大の法則」に抗っている。」というのですが、だとすると、生命体はどんな時に死ぬのですか?あるいはエントロピーの増大の法則に屈するのですか?
A:福岡伸一さんの生命観に基づくと、生命体は常に自らの一部を壊し、再構築することでエントロピー増大の法則に抗っています。これは、細胞の新陳代謝や損傷を修復する過程などを通じて行われます。しかし、生命体が死ぬ時やエントロピーの増大の法則に屈する時にはいくつかの要因があります。
1. 老化: 年齢とともに、細胞や組織の修復能力が低下します。新陳代謝が減少し、損傷を修復する能力が劣化するため、エントロピーが増大します。この結果、身体機能が徐々に失われ、最終的には生命体が死に至ります。
2. 病気: 病気や疾患は、生命体の正常な機能を阻害し、エントロピーを増大させます。例えば、癌や感染症は細胞の正常な働きを妨げ、新陳代謝や修復メカニズムに異常を引き起こします。
3. 環境要因: 外部からのストレスや極端な環境変化(例えば極度の寒さや暑さ、毒物への暴露)は、生命体のエントロピーを急速に増大させ、修復能力を超える損傷を引き起こします。
4. 遺伝的要因: 遺伝子の異常や欠陥は、細胞の修復や再生の能力に影響を与えることがあります。これによりエントロピーが増大しやすくなり、早期の老化や死を引き起こすことがあります。
総じて、生命体が死ぬ時やエントロピーの増大の法則に屈する時は、新陳代謝や修復能力が低下し、エントロピーの増大を抑えることができなくなる時と言えます。
Facebok岡本 よりたかさん投稿記事「動的平衡」
食事を規則的に摂るのは人間とペットと家畜だけである。
あとの生き物は、生きるか死ぬかの瀬戸際で獲物を見つけて捕獲し食事をする。
そして、多くの生き物の中で、日常的に病に侵されて戦うのは、人間とペットと家畜である。
実にシンプルである。
規則的な食事が病を生み出している可能性がある。
皮肉なものである。生きるための生理的な活動が病と死を呼び込む。
その病を治すために薬を使えば、症状は緩和されるが、人間の身体もペットや家畜も抵抗力を弱らせてしまう。
同じように植物で考えてみる。
植物も規則的に肥料をあげれば病気になるのではなかろうか。
その病気を抑えるために農薬を使えば、さらに植物は病気がちになる。
全く同じ構図である。
開墾された畑で、作物に肥料を与えないと確かに元気はなくなる。
人間も食事をしなければ、身体は弱ってくるが、しかしそれは病気ではない。
畑の土壌を肥料を与えずに自然の力だけで肥沃にすれば、植物は栄養が必要になった時に自分の根で摂りにいく。
そして病気にもならない。
人間も、ただ規則的に食事をするのではなく、また誰が作ったか分からない食べ物を食べるのではなく、自分で作物を作り、お腹が空いてきたら収穫して食べれば、病にならないのではなかろうか。
病にならなければ薬も必要なくなり、抵抗力も弱らない。
野生のように生きろと言う意味ではない。
少なくとも、土に触れ、収穫し、料理し、食べたい時にだけ食べる。
そんな生き方に変えてみたら、今、身体に起きている問題の多くの部分が解決するのではないだろうかと、僕は考えるのである。
それが、自給農。
自給農は自給自足ではない。生き方の変革なのである。
何が起きても、動的平衡によって、全ては良い方向に向かう。
その動的平衡を呼び込むための、自給農である。
※2年前に書いた動的平衡という記事
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4029976543750154&id=100002135434218
※動的平衡
岡本 よりたか2021年5月27日 ·「動的平衡」
自然界には摂理というのがあって、例えば動的平衡(どうてきへいこう)というのがある。
増えすぎた植物や生物は、ある瞬間からその数を減らしていくし、長雨が続けば突然日照りが続いたりする。嫌なことが続けばある日幸運が舞い込んで来ることもある。
生物として一つの遺伝子が傷つけば、それを補完する遺伝子が現れ、人の機能としては作用が変わっても実現できることには変わりない。たとえ目が見えなくても音で判断できるようになるように。
たとえ今の事業に失敗しても、新たな事業が成功に導かれるのも、おそらく同じ現象なのだろう。
つまり、想定していなかった最悪なことが起きたとしても、それは一つの流れの中でバランスを取るために起った事象であって、必ずそれを補完する別な事象が起きるということである。
同じように、ウィルスが流行すれば免疫も強化されるわけで、常に平衡を取ろうとするから、人間は今まで生き延びてきたし、かつ進化には必要不可欠な要素でもあった。
しかし、人間には傲り(おごり)というのがあって、抵抗してきたり攻撃してくる相手を徹底的に潰そうとする面がある。
この傲りは、結局身を滅ぼす原因となるのは歴史が教えてくれるのだけど、傲る人間というのは決して過去からは学ばないものだ。
この動的平衡という概念を理解しなければ、やがてウイルスの蔓延は落ち着いてくるという思考にはならず、最悪の結果を想定することになるだろう。いや事実そうなってしまっているから、今の状況がある。
人間も含めた自然界というのは、必ずや平衡を取ろうとして、様々な現象を起こすものだ。ウイルスの蔓延もその一つに過ぎないと考えられるのだから、力ずくで押さえ込む必要はない。
それよりも、恐れることも、慌てることもやめて、人間の遺伝子が組み換わる可能性のある遺伝子ワクチンなどという拙速的な対応には冷ややかな目を向けるべきだと、僕は思う。
作物が虫食いにあったり、病気で枯れたりしても、拙速的に農薬を撒くよりも、生き残る作物を観察して、生き残らせる術を探し出した方がいい。
作物の生育が悪くても、慌てて肥料を投入するより、その中でも元気に育つ作物を見つけ出して、その理由を探った方がいいと思う。
朽ちていく作物には理由があり、その中でも育っていく作物にも必ず理由がある。
それは人間がどうのこうのできる話ではなく、自然界の動的平衡という摂理によって起きていることなのだから、その摂理を知って、むしろその摂理を利用する術を見つける方が現実的ではなかろうか。
結局、人間なんて自然の中の一員でしかないのだから。
動的平衡とは、絶え間ない流れの中で一種のバランスが取れた状態のこと。
※参考