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田中裕明の句

2024.11.26 05:21

田中裕明の句

 冬菜畑同じ本読む姉妹

                           田中裕明

季語は「冬菜畑(ふゆなばた)」。白菜、小松菜、水菜など、辺りの草木が枯れているなかで、これらの野菜の緑は、目に沁みるように美しい。そんな畑が見える室内で、肩を寄せ合って「姉妹(あねいもと)」が仲良く「同じ本」を読んでいる。さして年齢差のない、まだ幼い姉と妹だ。読んでいるのは、絵本だろうか。二人のすこやかな成長ぶりが、窓外の冬菜の健気な姿と通いあっているようで、作者の胸には暖かいものが流れている。ささやかな幸福感をさらりと掬い上げていて、巧みだ。この句を読んで、思い出したよしなしごとがある。敗戦直後の田舎での小学生のころ、容易には本が手に入らなかった時代。誰かがたまに新しい本や雑誌を持ってくると、昼休みにみんなで一緒に読んだ。たいていは東京弁の使える(?!)私が朗読係で、みんなに読み聞かせるということになったが、これがまあ大変な騒ぎ。雑誌の場合には挿絵があるから、音読を聞くだけでは満足できない。読む私の周囲にみんなが額を寄せて密集し、なかには私の背中によじ登るようにして覗き込む奴までがいた。私は、しばしば「ひしゃげ」そうになった。あれが、本当の黒山の人だかり。そうやって、私たちは山川惣治の『少年王者』を読み、江戸川乱歩の『少年探偵団』を読んだのだった。たまのクラス会に出ると、必ずこの話を誰かがする。「ありゃあエラかったが、おもしろかったのオ」。俳誌「ゆう」(2002年2月号)所載。(清水哲男)

 をさなくて昼寝の國の人となる

                           田中裕明

季語は「昼寝」で夏。「をさなくて」を、どう読むか。素直に「幼いので」と読み、小さな子供が寝つきよく、すうっと「昼寝の國」に入っていった様子を描いた句としてもよいだろう。そんな子供の寝姿に親は微笑を浮かべ、ときおり団扇で風を送ってやっている。よく見かける光景だ。もう一つには、作者自身が「幼くなって」「幼い気持ちになって」昼寝に入ったとも読める。夜の就寝前とは違い、昼寝の前にはあまりごちゃごちゃと物を考えたりはしない。たとえ眠れなくても、たいして気にはかからない。とりあえずの一眠りであり一休みであり、すぐにまた起きるのだからと、気楽に眠ることができる。この精神状態を「をさなくて」と言っているのではあるまいか。子供時代に帰ったような心持ち。この気楽さが、作者をすぐに「昼寝の國」に連れていってくれた。そこには、大人の世界のような込み入った事情もなければ葛藤もない。みんなが幼い人として、素直に邪心なく振る舞っている。大人的現実の面倒なあれこれがないので、極めて快適だ。昼寝好きの私としては、後者を採りたいのだが、みなさんはどうお考えでしょうか。ちょっと無理でしょうかね。ともあれ、明日は休みだ。昼寝ができるぞ。『別冊「俳句」・現代秀句選集』(1998)所載。(清水哲男)

 電文のみじかくつよし蕗のたう

                           田中裕明

季語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。電報が届いた。みじかい「電文」だが、実に簡潔で力強い。読者には祝電か弔電かはわからないが、たとえ弔電にしても、作者は大いに励まされている。折りしも、早春の候。いち早く萌え出た「蕗のたう」のように、その電文は「みじかくつよし」と写ったというのである。「蕗のたう」は電文のありようの比喩であると同時に、作者の心のなかに灯った明るい模様を示していて、説得力がある。それにしても、最近は電報を打つことも受け取ることも少なくなった。昔は冠婚葬祭向けにかぎらず、急ぎの用件には電報を使った。例の「カネオクレタノム」の笑い話が誰にも理解できたほどに普及していたわけだが、いまではすっかり電話やメールに座をあけわたしている。電報代は安くなかったので、頼信紙の枡目とにらめっこしながら、一字でも短くしようと苦労したのも今は昔の物語。若い人だと、電報を打ったことのない人のほうが、圧倒的に多いだろう。……と思っていたら、最近では「キティちゃん電報」なるものが登場して、女の子の間ではけっこう人気があるのだそうな。そしてこのところ、もう一つ増えてきたのは、ヤミ金融業者が「カネカエセ」と発信する督促電報だという。たとえ電話代より高くついても、連日夜中に配達させると、近所の人たちの好奇心をあおることにもなるので、心理的な効果が大きいと睨んだ企みだ。いくら簡潔な電文でも、こいつだけは「蕗のたう」とはまいらない。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)

 セピアとは大正のいろ夏館

                           田中裕明

季語は「夏館(なつやかた)」。和風でも洋風でもよいが、夏らしいよそおいの大きな邸宅を言う。この場合は古い洋館だろう。建物全体がセピア調の落ち着いたたたずまいで、いかにも涼しげである。昨日今日の建築物では、こういう味は出ない。そこで「セピアとは大正のいろ」と、自然に口をついて出た句だ。さて、ならば「セピアとは」、実際にどんな色なのだろうか。私たちは、なんとなくセピアのイメージは持ってはいるけれど、この色についてあまり考えたことはない。「セピア=レトロ調」とすぐに反応するのは、何故なのだろうか。『広辞苑』を引くと「(1)有機性顔料の一。イカの墨汁嚢中の黒褐色の液を乾かしてアルカリ液に溶解し、希塩酸で沈殿させて製する。水彩画に用いる。(2)黒褐色」と出てくる。(1)は人工的な色で、どこででも見られるわけじゃない。(2)は天然に存在する色だが、定義が大雑把に過ぎる。私たちが言うセピアは、黒褐色のなかのある種の色合いを指すのであって、全部ではないからだ。あれこれ調べているうちに、どうやら私たちのセピアは、昔の銀塩写真の色褪せた状態の色から来ているらしいことがわかった。そう言えば、残されている明治や大正の写真はみなセピア色に変色している。だから、レトロ。となると、セピアの歴史は二百年にも満たない。芭蕉も蕪村も知らなかった色だ。近代初期の色。それも、写真の劣化に伴って情けなくも発生してきた色。だから往時の人々にとってのセピアは、負のイメージが濃かったに違いない。けれども、逆に現代人は懐しげに珍重しているわけで、この価値の逆転が面白い。ただし、現代人が好むセピアと写真の劣化によるそれとは、微妙に異っている。写真が小さくて申し訳ないが、比較のためにPhotoshop Elで見本を作ってみた。右側のやや黄色がかった色合いが、劣化写真の色彩に近い。したがって、高齢者ならば、どちらかと言えば右側のほうがセピア色だと指すことだろう。「俳句界」(2003年7月号)所載。(清水哲男)

 みづうみのみなとのなつのみじかけれ

                           田中裕明

九月尽。九月が終わる。今年の夏は冷たく、今月に入ってから猛烈な暑さに見舞われた。いつもの年だと名残の夏の暑さと感じるのだが、今年は九月になってから、やっと本格的な夏がやってきたという感じだ。それも、まことに短い「夏」であった。おおかたの人々の実感も同じだろう。この実感の上に立って掲句を読むと、私には歳時記的な夏の終わりではなくて、今年の九月尽のことを詠んでいるように思えてならない。句意もその抒情性も明瞭なので説明の必要もないだろうが、しかし逆にこの世界を散文で説明せよと言われると、かなり難しいことになる。ふと、そんなことを思った。つまり、自分なりのイメージを述べるだけでは、何かまだ説明が足らないという思いの残る句なのだ。というのも、すべてはこの故意の平仮名表記に原因があるからだと思う。「湖」ではなく「みづうみ」、「港」ないしは「湊」ではなく「みなと」と表記するとき、「みづうみ」も「みなと」も現実にあるどこそこのそれらを離れてふわりと宙に浮く。架空的にで浮くのではなく、現実的な存在感を残しつつ抽象化されるとでも言えばよいだろうか。平たく言ってしまえば、出てくる「みづうみ」も「みなと」も、そしてまた「みじかけれ」までもが漠然としてしまうのだ。だから、受けた抒情的な印象がいかに鮮明であったとしても、上手には説明できない。作者がねらったのはまさにこの漠然性の効果であり、もっと言えば、漠然性の明瞭化明晰化による効果ということだろう。しかるべき部分を漢字に直してみればはっきりするが、漢字混じりにすると、句のスケールはぐっと縮まってしまう。読者の想像の余地が、ぐっとせばまってしまうからだ。平仮名表記なぞは一見簡単そうだけれど、よほど練達の俳人でないと、句のようにさらりと使えるものではない。こういう句を、玄人の句、玄人好みのする句と言う。俳誌「ゆう」(2003年10月号)所載。(清水哲男)

 電線の密にこの空年の暮

                           田中裕明

今年も暮れてゆく。ぼんやりとでもそんな感慨を持つとき、私たちはたいてい空を見上げる。どうして空を見るのだろう。こういうときに、俯いて地べたを見る人はあまりいないのではなかろうか。不思議といえば不思議な習性だ。誰に教わったわけでもないと思うのだが、といって生得の気質からでもなさそうで、やはり知らぬうちに摺り込まれた後天的な何かからなのだろう。我が家の近所にも、電柱と電線が多い。普段でも、カラスがとまって鳴いていたりすると見上げることはしばしばだ。でも、そんなときには「電線の密」には気がつかない。というか、気にならない。おそらく、作者も同じような気持ちなのだろう。「年の暮」の感慨を持ったときに、はじめてのように見えたというわけだ。ああ、こんなにも電線が混みあっていたのか……。そこであらためて、まじまじと見てしまう。句の世界を敷衍して言えば、私たちが何かを見るというときには、自分の心持ちによって、見えるものと見えないものとがあるということになる。正確には、見えていても気がつかない物もあるのである。むろん、事は電線には限らない。今日あたり、日頃は気にも止めていない何かを、まじまじと眺める人も多いだろう。年末も年始も、物理的には昨日に変わらぬ今日の連続でしかない。が、年を区切るという人間の文化は、このように物の見方を変えてしまう力も持つ。面白いものである。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)

 子の傘の紫陽花よりも小さくて

                           田中裕明

季語は「紫陽花(あじさい)」で夏。たまに小さい子の傘をそれと意識して見ると、実に小さいものだなあと、あらためて思う。この場合は、作者のお子さんの傘かもしれない。どれくらい小さいのかと言えば、そこらへんの「紫陽花よりも」小さいのである。むろん、咲いている紫陽花のひとかたまりよりも、だ。雨の中を行く子の傘の高さも、だいたい紫陽花のそれと同じくらいだし、この比較はごく自然であり無理がない。単純にして明快である。田中裕明の句はたくさん読んできたが、持ち味を一言で言えば、この単純明快さにこそあると思う。言い換えれば、作句時における作者は、常に言いたいことをはっきりと持っていて、そのために表現の焦点を絞り込んでいるということだ。誰だって、言いたいことがあるから詠むんじゃないの。と思われるかもしれないが、それはそうだとしても、言いたいことの実現のためにフォーカスを絞り込むのは楽な作業ではない。つい周辺のあれこれに目移りがして、そのうちに言いたいことから句がずれてしまう経験は、誰にもあるだろう。そうやってずれてしまった句が、けっこう客観的には良い句に仕上がったりもするのだから厄介だ。自身の本意からずれてしまった句は、いかに佳句のように見えようとも、当人にとっては不本意のままでありつづけるだろう。そんな不本意な句をいくら積み重ねても、表現者失格である。俳句様式の怖さの一つはここにあるのであって、いくらずれても句にはなるし、それらしくもなる。すなわち逆に、言いたいことを俳句で言うのがいかに難しいか。掲句はなんでもない句のようだが、その意味で、俳句様式の甘い罠にとらわれることなく、しっかりと言いたいことを言い切った好例として掲出しておきたい。抒情性も十分だ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)

 霜除のあたらしく人近づけず

                           田中裕明

季語は「霜除(しもよけ)」で冬。霜除というと、いまの北国の都会の人は、車のウィンドウのそれと反応するかもしれない。朝、出かけようとして、すぐに動かしたくても霜で前がよく見えないことがあるからだ。でも、句の場合は野菜や花などの霜除だ。強い霜がおりると、根の浅い宿根草は霜で株がもち上がって枯れてしまう。これを防ぐにはいろいろな方法が開発されているようだが、いちばん良いのは、昔ながらの藁(わら)を使うやり方だろう。たいていが今年穫れた新藁をかぶせていくから、かなり目立つ。なるほど、句のようにちょっと近寄りがたい雰囲気になる。同様に道の泥濘化を避けるために、昔は藁を敷き詰めることもやつた。こちらは踏んで通るために敷かれたわけだが、あれには何となく踏みづらい感じがあったことを思い出す。汚してはいけないという意識がどうしても先に出てきて、躊躇してしまうのである。正月には「福藁」(季語)といって、門口などに新藁を敷く地方があるが、あれを踏むのと同じ感覚だ。「福藁や福来るまでに汚れけり」(中条角次郎)と、昔の人はやはり気にして詠んでいる。それはともかく、霜除の藁は春になるころには腐葉土になる。霜除には藁が良いという大きな理由の一つだ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)

 なんとなく街がむらさき春を待つ

                           田中裕明

季語は「春(を)待つ」で冬。一番的な説明としては「寒さも峠を越し、近づく春を心待ちにすること」の意だ。二月半ばくらいの心持ちだろうが、ちょうどいまごろ、新春の気持ちとしてもよいように思う。とりわけて今年の東京のように、元日から晴天がつづいていると、それこそ「なんとなく」街の様子も春めいて見えてくる。加えて「むらさき」は、正月にふさわしい色だ。古来、高貴や淑気と関連して用いられてきた色彩だからである。といって私には、掲句を強引に新春句と言い張るつもりはない。読者の自由にまかせたいが、それはそれとして、句の力は「なんとなく」という一見漠然とした表現に込められていると思った。俳句のような短い詩型で「なんとなく」を連発されると、ピンぼけになって困るけれど、作者はそのことを百も承知で使っている。まるで満を持していたかのように、ハッシと使って言い止めた感すら受ける。人には、正確に「なんとなく」としか言いようの無いときがあるのだ。ところで、作者は旧臘三十日に四十五歳の若さで亡くなった。掲句が収められた今年(2005)のいちばん新しい奥付を持つ句集『夜の客人』(ふらんす堂)は、献呈先に三が日に届くようにと配慮されていて、同封の挨拶状には大伴家持の次の歌が添えられていた。「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」。合掌して、ご冥福をお祈りします。(清水哲男)

 寒き夜や父母若く貧しかりし

                           田中裕明

昨年末に急逝した作者の主宰誌「ゆう」の二月号が届いた。最後の作品として、掲句を含む二十二句が載せられている。むろん、彼はこの最新号を目にすることはできない。彼はあまり自分の育ちなどについては詠まないできた人という印象があるので、おやっと目が止まってしまった。他のページに「いまはあいにく入院中で、おおかた病院の中にいます」とあるから、この句も病院で詠まれたものだろう。入院という環境が、「家族」を強く意識させたということにもなろうか。とりたてて家族への新鮮な視点があるわけではないけれど、貧しくはあったが、あのころがいちばん良かったかなというつぶやきが聞こえてきそうな句だ。いまの自分よりももっと若かった父母を中心に、「寒き夜」に家族が身を寄せあっている情景は懐かしくも心温まる思い出だ。両親が貧しさと戦う武器は「若さ」のみ。生活の不安や悩みには重いものがあったろうが、子供としての作者にはわかるはずもない。ただ両親の若さによる活力を頼もしく思い、庇護されていることの心地よさだけがあった……。作者とはだいぶ年代が違うのだが、敗戦時に子供だった私たちの世代には、もうこれだけでぐっと来てしまう句だ。なお「ゆう」は、もう一冊「田中裕明主宰追悼号」を出して終刊となる。(清水哲男)

 紫雲英草まるく敷きつめ子が二人

                           田中裕明

季語は「紫雲英草(げんげそう)」で春、「紫雲英」の項に分類。「蓮華草(れんげそう)」とも。かつては田圃で広く栽培され,肥料として春の田に鋤き込まれていた。いちめんに紫雲英咲く田圃の風景は,絵のように美しかった。私にも覚えがあるが,花を摘んでは首飾りめいたものなどを作って遊んだものだ。句の「子」は、「二人」とも女の子だろう。二人は,とある農家の庭先で,ままごと遊びでもしているのか。カーペットに模したつもりだろう、たくさんの紫雲英を取ってきてていねいに「まるく敷きつめ」、その上にちょこんと坐って遊んでいるのだ。それだけの光景ではあるけれど,この句を味わうためには,尻の下に敷いた紫雲英草の冷たい感触を知っている必要がある。間違いなく,作者はそのことを前提にしている。そのひんやりとした感触を想起することで,女の子たちに注がれている暖かい春の日差しのほどが想像され,ようやく光景は質感をもって立ち上がってくるのだからだ。つまり句の狙いは、昔の絵本にあるような傍観的童画的光景ではなく,あたかも作者が一瞬,二人のうちの一人であるかのように気持ちを通わせた光景だと言って良いと思う。句に滲んでいる懐かしさのような情感は,そこから発しているのである。「俳句」(2005年4月号)に島田牙城が寄せた作者への追悼文によれば、掲句は田中裕明の所属した「青」(波多野爽波主宰)への初入選句だという。となれば、このときの作者はまだ高校生だった。高校生にして,既にその後のおのれの俳句への道筋を定めているかのような句境には驚かされる。俳誌「青」(1977年7月号)所載。(清水哲男)

 大学も葵祭のきのふけふ

                           田中裕明

今日は「葵祭(あおいまつり)」。京都は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼だ。古くは賀茂祭と言い、昔は単に祭といえばこの祭を指したという。不思議な魅力を持った句だ。「大学も」の「大学」は作者の在籍した京大を言っているのだろうが、作者よりも二十年ほど前の学生であった私の実感からすると、葵祭がこのように大学の雰囲気に影響したことはなかったと思う。アルバイトで参加する連中を別にすれば、ほとんど話題にすらならなかった。どう想像してみても、作者が学生だった頃も同じだったのではないかと思われる。京都に在住経験のない人ならば、さもありなんと微笑しそうだけれど、大学というところは京都に限らず、散文的な空間である。それに若い多くの学生たちには、古くさい祭のことなどよりも、もっと他に好奇の対象はいくらだってあるのだから、いかに有名な祭でも、その色に染まるなんてことはまずないのである。しかし作者は、だからこそと言うべきか。あえてたかだか百年ほどの近代の産物である大学に、千年の都の風を入れてみたかったのではなかろうか。せっかく伝統の土地にありながら、その風を入れずに機能するだけだなんて、なんともったいない。もっとゆったりと構えて、葵祭に染まるのも、またよろしいのではないか。ならば染めてみようというところに、この句の発想の原点があるような気がする。すなわち、作者は掲句のような大学で学びたかった。「大学も」の「も」には、そうした作者の願いが込められているのだと読む。『山信』(1979)所収。(清水哲男)

 薄暑の旅の酒まづし飯まづし

                           田中裕明

季語は「薄暑」で夏。初夏の候の少し暑さを覚えるくらいになった気候のこと。昨日、昨年末に他界した作者の主宰していた「ゆう」の終刊号(2005年4月20日発行の奥付・通巻64号)が届いた。ほとんどのページが、田中裕明と同人たちの句で構成された特集「ゆう歳時記」にあてられている。結社の合同句集は珍しくないけれど、季節や季語ごとに句が分類整理された集成は珍しい。それだけ手間ひまを要するからだろうが、一読者にしてみると、やはり歳時記形式のほうが何かと便利でありがたい。主宰者をはじめとする諸氏の句柄の特長もよくわかるので、「ゆう」が「ゆう」たる所以もよく呑み込めたような気がする。掲句は、同誌より。一読、長く闘病生活をつづけていた詩人・黒田喜夫が言っていたのを思い出した。「病人には、中途半端な気候がいちばんコタえる。むしろ寒いなら寒い、暑いなら暑いほうが調子が良いんです」。このときの作者も体調がすぐれずに、同じような不快感を覚えていたのではあるまいか。だとすれば、気分の乗らない「旅」であり、酒も飯も美味かろうはずはない。「まづし」「まづし」の二度の断定に、どうにもならない体調不良がくっきりと刻されていていたましい。世の薄暑の句には夏間近の期待を込めたものが多いなかで、これはまたなんという鬱陶しさだろう。先日の風邪からまだ完全には立ち直れないでいる私には、身につまされるような一句であった。このところの東京地方も、なにやらはっきりしない中途半端な気候がつづいていて不快である。(清水哲男)

 白魚のいづくともなく苦かりき

                           田中裕明

カタクチイワシなどの稚魚であるしらすと同様、白魚(しらうお)もなにかの稚魚だとばかり思っていたが、成長しても白魚は白魚。美しく透き通る姿のままで一生を終える魚だった。鮎やワカサギなどと近い種類というと滑らかな身体に納得できる。また「しろうお」はハゼの仲間で別種だという。ともあれ、どちらも姿のまま、ときには生きたまま食される魚たちである。「おどり」と呼ばれる食し方には、いかにも初物を愛でる喜びがあるとはいえ、ハレの勢いなくしては躊躇するものではなかろうか。矢田津世子の小説『茶粥の記』に出てくる「白魚のをどり食ひ」のくだりは、朱塗りの器に泳がせた白魚を「用意してある柚子の搾り醤油に箸の先きのピチピチするやつをちよいとくぐらして食ふんだが、その旨いことつたらお話にならない。酢味噌で食つても結構だ。人によつてはポチツと黒いあの目玉のところが泥臭くて叶はんといふが、あの泥臭い味が乙なのだ。」と語られる。筆致の素晴らしさには舌を巻くが、意気地のない我が食指は一向に動かない。だからこそ掲句の「いづくともなく」湧く苦みに共感するのだろう。味覚のそれだけではなく、いのちを噛み砕くことに感じる苦みが口中をめぐるのである。『夜の客人』(2005)所収。(土肥あき子)

 菊の日のまだ膝だしてあそびゐる

                           田中裕明

本日重陽(菊の節句)。3月3日の桃の節句や5月5日の端午の節句、7月7日の七夕などの他の五節句に比べるとかなり地味な扱いではあるが、実は「陽数の極である九が重なることから五節句のなかで最もめでたい日」であり、丘に登って菊花酒を酌み交わし長寿を祈るという、きわめて大人向けの節句である。旧暦では十月初旬となり、本来の酒宴はすっかり秋も定着している景色のなかで行うものだが、はっきり秋とわかる風を感じるようになったここ数日、落ち着いて来し方行やく末につれづれなる思いを馳せていることに気づく。掲句では、むき出しの膝が若さを象徴している。四十半ばで早世した作者に、雄大な自然を前に無念の心を詠んだ杜甫の七言律詩「登高」の一節「百年多病(ひゃくねんたびょう)独登台(ひとりだいにのぼる)」が重なる。眼前の健やかな膝小僧が持つ途方もない未来を眩しく眺める視線に、菊の日の秋風が底知れぬ孤独を手招いているように思えるのだ。『田中裕明全句集』(2007)所収。(土肥あき子)

 正午すでに暮色の都浮寝鳥

                           田中裕明

東京の夕暮れは早い。この地にずっと住んでいる人には違和感のあるセリフかもしれないが、鹿児島、山口、大阪、と移り住んできた身には4時を過ぎればたちまち日が落ちてしまう東のあっけない暮れ方は何ともさびしい。体感だけでなく、この時期の日の入りを調べてみると、東京は16時38分、大阪は16時57分、鹿児島は17時22分と40分以上の差がある。この都では3時を過ぎればもう日が傾きはじめる。関西に住み馴れた作者にとっても、たまに訪れる東京の日暮れの早さがとりわけさみしく思えたのかもしれない。この俳人の鋭い感受性は、太陽が天辺にある華やかな都会の真昼にはや夕暮れの気配を感じとっている。その物悲しい心持ちがおのが首をふところに差し入れ、波に漂いながら眠る水鳥に託されているようだ。すべてがはぎとられてゆく冬は自然の実相がこころにせまってくるし、自分の内側にある不安をのぞきこむ気分になる。この句を読んで、頼りなく感じていた日暮れの早さが、自分の人生の残り時間を映し出しているような、心持になってしまった。『夜の客人』(2005)所収。(三宅やよい)

 手を入れて水の厚しよ冬泉

                           小川軽舟

液体に対してふつうは「厚し」とは言わない。「深し」なら言うけれど。水を固体のように見立てているところにこの句の感興はかかっている。思うにこれは近年の若手伝統派の俳人たちのひとつの流行である。長谷川櫂さんの「春の水とは濡れてゐるみづのこと」、田中裕明さんの「ひやひやと瀬にありし手をもちあるく」、大木あまりさんの「花びらをながして水のとどまれる」。水が濡れていたり、自分が自分の手を持ち歩いたり、水を主語とする擬人法を用いて上だけ流して下にとどまるという見立て。「寒雷」系でも平井照敏さんが、三十年ほど前からさかんに主客の錯綜や転倒を効果として使った。「山一つ夏鶯の声を出す」「薺咲く道は土橋を渡りけり」「秋山の退りつづけてゐたりけり」「野の川が翡翠を追ひとぶことも」等々。山が老鶯の声で鳴き、道が土橋を渡り、山が退きつづけ、川が翡翠を追う。その意図するところは、「もの」の持つ意味を、転倒させた関係を通して新しく再認識すること。五感を通しての直接把握を表現するための機智的試みとでも言おうか。『近所』(2001)所収。(今井 聖)

 遺句集といふうすきもの菌山

                           田中裕明

上五中七と下五の関係の距離が波多野爽波さんとその門下の際立った特徴となっている。作者はその距離に「意味」を読み取ろうとする。意味があるから付けているのだと推測するからである。さまざまに考えたあげく読者はそこに自分を納得させる「意味」を見出す。たとえば、遺句集がうすい句集だとすると、菌山もなだらかな低さ薄さだろう。この関係は薄さつながりで成り立っていると。同じ句集にある隣の句「日英に同盟ありし水の秋」も同様。たとえば日英同盟は秋に成立したのではないかと。こういう付け方は実は作者にとっては意味がないのだ。意味がないというよりは読者の解読を助けようとする「意図」がないのだ。関係を意図せず、或いはまったく個人的な思いで付ける。あまりに個人的、感覚的であるために読者はとまどい、自分から無理に歩み寄って勝手にテーマをふくらませてくれる。言ってみれば、これこそが作者の狙いなのだ。花鳥諷詠という方法があまりにも類想的な季語の本意中心の内容しか示せなくなったことへの見直しがこの方法にはある。『先生から手紙』(2002)所収。(今井 聖)

 口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし

                           田中裕明

沈むは進行形ではなくて沈んでいる状態。水底にある木におたまじゃくしが乗っている。中七下五は的確な写生。伝統俳句と呼ばれる範疇での通常の作りかたは、この的確な写生の部分を壊さぬように、上五には、下部を援護する表現をもってくるのが普通であろう。春の水中が見えるにふさわしい光とか時間とか、空の色とか、風とか。しかし、それをやると風景構成としての辻褄が合い、絵としてのバランスはとれるが、破綻のない代わりに露店で売る掛軸のようなべたべたの類型的風景になりがちである。裕明さんの師波多野爽波さんはその危惧を熟知していたから、そのときその瞬間に偶然そこに在った(ような)事物を入れる。(巻尺を伸ばしていけば源五郎)のごとく。これをやると現実の生き生きとした瞬間が出るが、まったく作品としての統一感のない、なんのこっちゃというような「大はずれ」も生ずる。しかしべたべたの類型的風景を描くのを潔しとせず、「大はずれ」の危険性を冒して討って出るわけである。この句の口笛がそう。さらに口笛やの「や」も。意外なものを持ってきた上に「や」を付けてわざと読者の側に放り投げる。どんと置かれた「口笛や」が下句に対して効果的あるかどうか。さあ、どうや、と匕首のように読者はつきつけられている。『青新人會作品集』(1987)所収。(今井 聖)

 櫻のはなし採寸のあひだぢう

                           田中裕明

平明な句で日常詠である。「もの」の写生ではなくて事柄のカット。採寸の場には、採寸する人とされる人と二人しかいない可能性が高いのだからその両者の会話だろう。作者がその会話を聞いていたのではないとするなら、作者はされる側の人である。吊るしを買わずオーダーの服であるから懐に多少の余裕のある状況もわかる。僕は昔ブティックで働いていたので採寸をする人であった。採寸をする側は客の話題におあいそをいう。機嫌をそこねないように話を合わせるのである。採寸をする側とされる側の櫻のはなしから両者の立場や生活が次第に浮き彫りになっていく。人間社会を描くとあらゆる角度からその人間に近づく工夫ができる。自然も面白いけど人間はもっと面白い。『セレクション俳人・田中裕明集』(2003)所収。(今井 聖)

 真清水や薄給の人偉かりし

                           田中裕明

目の前の真清水に見入っています。濁りなく、たゆむことなく、少しずつこんこんと透明な清水が湧きあがっている。そこに、地球のささやかな鼓動を見ているのかもしれません。この時、かつて、薄給を生きていた人を思い出しました。それは、父であり、父の時代の人たちです。給料が銀行振込になった1980年代以降も、給料が高い低いという言い方は変わっていませんが(例えば高給取りとか、高給優遇とか、低所得者とか、低賃金など)、一方で、給料袋を手渡されることがなくなったので、その薄さを形容する薄給という言葉は無くなりました。ところで、薄給という言葉には、清貧の思想が重なります。あぶく銭で儲けるのではなく、自分の持ち場を離れず誠実に役割を果たす。しかし、小さな成果だから、労働対価は微々たるもの。けれども、誠実な仕事人は、少ない給料を知恵を使ってやりくりして、無駄のない質素な生活を営みます。ゴミを出さず、部屋の中もすっきり整頓されて、ぜい肉もない。薄給を手にしていた人たちは、それが薄くて軽いぶん、むしろ、手を自由に使えました。針仕事をしたり、日曜大工をしたり、手料理を作ったり。今、真清水を目の前にして、生きものは、清らかな水があれば何とかなる、作者は、そんな思いを持った。『夜の客人』(2005)所収。(小笠原高志)