不連続の連続性
https://ameblo.jp/hiuchi0321/entry-12650119193.html 【「遺句集といふうすきもの菌山」(田中裕明)という句をどう評するか?】より
夭逝の俳人・田中裕明の句に、たとえば次のような句がある。
遺句集といふうすきもの菌山 田中裕明
※菌山=きのこやま
この句には、たとえば、以下のような、解説(今井聖)がついている。
「上五中七と下五の関係の距離が波多野爽波さんとその門下の際立った特徴となっている。作者はその距離に「意味」を読み取ろうとする。意味があるから付けているのだと推測するからである。さまざまに考えたあげく読者はそこに自分を納得させる「意味」を見出す。
たとえば、遺句集がうすい句集だとすると、菌山もなだらかな低さ薄さだろう。
この関係は薄さつながりで成り立っていると。
同じ句集にある隣の句「日英に同盟ありし水の秋」も同様。
たとえば日英同盟は秋に成立したのではないかと。
こういう付け方は実は作者にとっては意味がないのだ。意味がないというよりは読者の解読を助けようとする「意図」がないのだ。
関係を意図せず、或いはまったく個人的な思いで付ける。あまりに個人的、感覚的であるために読者はとまどい、自分から無理に歩み寄って勝手にテーマをふくらませてくれる。
言ってみれば、これこそが作者の狙いなのだ。
花鳥諷詠という方法があまりにも類想的な季語の本意中心の内容しか示せなくなったことへの見直しがこの方法にはある。」
『先生から手紙』(2002)所収 (解説:今井 聖)
また、別の句の解説はこうだ。
悉く全集にあり衣被 田中裕明
(ことごとくぜんしゅうにありきぬかつぎ)
「俳句の取り合わせは即きすぎては駄目だし、離れすぎても意味が分からない。絶妙な距離感が名句の条件。掲句の場合、上五中七と下五とはなんの関係性もなさそうで、離れすぎの感もあるが、何度も読むうちに妙な据わりの良さを覚える。単なる意味を超えた双方の言葉の穏やかで円満な有様といったらよいか。言葉の相性が心地よい。」 『花間一壺』所収 (解説:藤英樹)
以上のような、解説(俳句の鑑賞、解釈ではなく解説?)は、田中の句に多い。
で、近年、注目されている若手俳人、生駒大祐についても、同様な現象が起きているように思える。すなわち、わかったようでわからないような、いい句なのかどうかは、一見ではわからず、骨董品の鑑定のように、プロの見立て(?)を要するというシロモノの句群だ。
鴇田智哉の俳句もそうだろう。
それはいいことなのだろう。
ただ、だれももう、「王様は裸だ!」とは言いにくくなっているような俳句をどう評価し批評するかは、今後の課題のような気がする。
それは、文語・歴史的仮名遣い、かどうか、さらに言えば、その作句姿勢がが有季定型の磁場に棲息しているかどうか、という問題ともかかわってくるのではないだろうか。
https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=56 【不連続の連続性と不自然な自然 ~ なつはづき句集「ぴったりの箱」を読む】より
不連続の連続性と不自然な自然 ~ なつはづき句集『ぴったりの箱』を読む
五十嵐秀彦
今月は6月に出版されたなつはづきの第一句集『ぴったりの箱』(朔出版)を読んでみよう。彼女は1968年静岡県生まれ。2008年に俳句を始める。「青山俳句工場05」「豈」等に所属。2018年に第36回現代俳句新人賞、2019年には第5回攝津幸彦記念賞準賞を受賞。現代俳句協会会員。いま注目の作家と呼んでもいいだろう。
有季定型句がほとんどだが、どうも有季定型という言い方があまりふさわしいとも思えない。自分のリズムで詠んでいたら自然と定型になっているような、そんな呼吸がある。全体を通しては比較的均質な句が並んでいて、人を驚かせる句柄のものはない。それでいてけして平凡ではないところに魅力がある。
少女にも母にもなれずただの夏至
自身の境涯句と読めないでもないが、それよりむしろ自分の俳句の立ち位置を表現しているように思えた。たとえば彼女のひとつのテーマのようでもある「恋」の句を挙げてみようか。
恋猫や吸殻それぞれのねじれ
花粉症恋なら恋で割り切れる
音程のぐらぐらの恋夏帽子
なんだろう、甘くもなければ辛くもない微妙な恋なのである。どきどきさせられる恋ではなさそうだ。少女のそれではない。かといって昔終わった恋でもない。恋猫の句などは、季語に託して倦怠期の二人の姿が浮かび上がってくる。灰皿の中のそれぞれにねじれた吸殻。そこにひどく現実的な男女の影が見えてくる。いや、見えてはいない。モノが象徴となって描かれているというべきかもしれない。
そしてやさしい言葉を使いながら、かなり大胆な二物衝撃的飛躍も彼女の特徴だろう。
ヒヤシンス小さじ二分の一悪意
パセリ大盛りまっさらな猜疑心
日常。特に女性が日常の視野の片隅に見ているなにげないモノを、あたかも季語でございますとする仕草の裏で、そこにためらいもなく感情表現を流し込む。取り合わせのようでいて、そうとも言いきれない不連続の連続性、不自然な自然とでも呼べそうな句の形だ。作者はそんな自分の個性を十分わかっている様子だ。「あとがき」にはこう書かれていた。《俳句は十七音という短い世界、最も凝縮された素直な自身が投影される、余計なものはない純粋な自分のことばです》 《自分である事に拘り、俳句で自分自身の「寸法」を確かめる作業を延々と続けているのです》。
からすうり鍵がかからなくなった胸
桜二分ふと紙で切る指の腹
はつなつや肺は小さな森であり
手のひらに火照り女滝に触れてより
額あじさいもうすぐ海になる身体
鍵がかからなくなった胸の所在なさ、紙で切ってしまった指の腹から血が玉となって出てくる様子、肺腑に暗い森を見つけてしまったこと、手のひらはいつも火照り、身体はもうすぐ海となってゆくだろう。そうして肉体を通し自分の核に迫ろうとする。思想や精神ではなく、肉体だけが手探りできるものであるのかもしれない。そして肉体こそ自分にとって最後の謎でもあるのだ。
薔薇百本棄てて抱かれたい身体
君に電話狐火ひとつずつ消える
冬浅し聞かずに入れる角砂糖
初氷心療内科の青いドア
泣くときはいつも横顔リラの花
リストカットにて朧夜のあらわれる
句集の中に上手に隠された物語を見つけることもできる。しかし、作者は正体を曖昧にして逃げてゆく。そんな感覚を楽しんでいるようにも感じる。彼女はこの詩型が無性に好きなのだ。この小さな詩型こそなんでも表現できる作者の曠野だからである。
ぴったりの箱が見つかる麦の秋
冬の幅に収まる抱き枕とわたし
荒星やことば活字になり窮屈
再び「あとがき」を読んでみよう。《この句集でわたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします。ただし「今のところ」と付け加えておきます。ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります》 《いずれこの箱も窮屈で息苦しくなる日が来るのでしょう。手足をもっと伸ばしたい、動かしたい、そういう衝動が生まれて来るはずです。その時はまた、新しい「ぴったりの箱」をみつけるべく奮闘するつもりです》。この作者の思いは句集全体から伝わってくる。現在の自分の身体から生まれてくる息のような一語一語が句になってゆく不思議。そのことに何より作者自身が驚き、喜ぶ。いくつもいくつも無数に自分の姿が切れ端のように現れては、それがひとつのかけがえのない身体に変容してゆく。一句が独立しながら、どこかで明瞭な輪郭を失い液体のようにつながっている、そんな感覚なのである。もう一度言おうか。「不連続な連続性と不自然な自然」。そこに作者が、この俳句という詩型を唯一の表現手段として捕まえようとする理由がある。そう思うのだった。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/01/7.html 【評論で探る新しい俳句のかたち〔7〕
「前衛俳句」以降の俳句に見る構造の不連続性について】より
藤田哲史
「前衛俳句」の登場、それは、それまでの俳句の進化形なのではなく、全く別箇の詩の登場だったとも言える。
たとえば、「造型俳句六章」では、近代俳句との違いとして「暗喩」を特に強調して方法論が語られている。けれども、「前衛俳句」の新しさを一般的な暗喩という言葉で捉えきれているか、というと、私は不十分のように思う。
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
反例として一つ作品を挙げれば、ここにある川端茅舎の俳句も、暗喩を用いた俳句の一つだろう。「金剛」は金剛石=ダイアモンドのことで、助詞の「の」一語でいわゆる「のような」を省略して、直喩でない比喩=暗喩と見ることができる。
けれども、「前衛俳句」の括弧書きの暗喩=「暗喩」を駆使した俳句というのは、このような暗喩とは全く違う。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
この「前衛俳句」作品に対して、私は、「写生」という近代俳句以降の文脈などを念頭に、ある時間・ある場所で見た事物を言葉に置き換えた結果として捉えることができない、という言葉で一旦捉えてみた。
けれども、それでも何か言い足りていない。
「写生」があくまで方法論だと割り切って作品に向き合ったとき、ほんとうに眼前のものを読んでいるかどうかは実際のところさほど重要でないからだ。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな 高濱虚子
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
これらの作品のように、作者の意図や経験が収束して、ある一つの簡潔さを得たとき、果たしてそれが、実際に体験したことがらなのか、はたまた心象なのか判然としなくなる場合がある。単純化の妙だ。
一般的な暗喩と違って、金子兜太の「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」や赤尾兜子の「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」などの作品における「暗喩」は、それが比喩かどうか、という点すら曖昧なところに大きな特徴がある。
言い換えれば、「前衛俳句」における「暗喩」は、比喩以外の言葉のはたらき(象徴、寓意など)を仄めかしつつ、どれに重点が置かれているか、を読み手に判断させない。
このような読みを誘っているのが、「前衛俳句」にある構造の不連続性だ。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
この赤尾兜子の作品も、「広場に裂けた木」と「塩のまわりに塩軋み」の間に不連続面があって、読み手は、前段と後段の関係性について全ての可能性を意識しながら読み解くことになる。ここでは、「取り合わせ」や「切れ」という言葉をあえて避けることにする(ちょっと仰々しいけれど、作品本位で表現を語る言葉として他に適当なものが思いつかない)。
「取り合わせ」という言葉はあくまで名詞と名詞の配合を指すことが多い。一般に俳句は「取り合わせ」の俳句とそうでない俳句(「一物仕立て」「一句一章」という場合もある)の2つに大別して語られがちだが、季語と季語以外の名詞との配合である「取り合わせ」がそのまま構造として不連続かどうかというと、そうでもない。
青天や白き五弁の梨の花 原 石鼎
近代俳句の秀作、原石鼎の作品のように、季語である「梨の花」と「青天」が「取り合わ」されていても、格別に構造の不連続性を見出すことがむずかしい作品もある
秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め 波多野爽波
だからこそ、私は、波多野爽波の作品を見て感じる。この爽波の作品の構造は、ひじょうに「前衛俳句」的だと。
読み手としての私は、「秋の蛇」と「ネクタイピンは珠を嵌め」の2つの部分の関係性について戸惑い、そして、いくつかの可能性を頭の中に巡らせ、この作品の良さを見つけ出していくことになる。
作者である爽波がどのような方法論によったかどうかともかく、結果としてのこの作品には、不連続性があると言える。
「前衛俳句」と波多野爽波の作品に共通する構造としての不連続性。これは、決して些末な問題でない。単なる見た目の違いでなく、この構造を許容するかどうかで、読み手にどのような読み方を求めるかどうかがはっきりと異なってくるからだ。
しかも、この違いが、具体的な語彙や文体によらない、という点も興味深い。つまり、語彙や文体が前衛的か伝統的かに関係なく、その俳句が今っぽいかどうかを判断できる材料になりえるのだ。
裏をかえせば、今っぽさを劇的に突き抜けていこうとするとき、その俳句は構造として反現代的なのではないか、という―――これはあくまで予想だけれども―――予感が私にはある。