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生きることの寂しさ

2024.11.26 12:33

Facebook玉井 昭彦さん投稿記事

和田誠さんへ

〈君は過去になれない男/目の前からいなくなっても/いのちにあふれた絵とデザインに/君は軽々と生き続けている〉 

谷川俊太郎

「ひとりぼっち」の無邪気な魂 谷川俊太郎さんへの思い、詩人・吉増剛造さんに聞く

 詩人で批評家の吉本隆明はかつて「わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一・谷川俊太郎・吉増剛造の三人」(「続続・田村隆一」)とつづった。吉増剛造さん(85)のアバンギャルドな実験性と、平易な言葉を使う谷川俊太郎さんの作品は、一見かけ離れているように見える。13日に92歳で亡くなった谷川さんについて、吉増さんはどう感じてきたのか。

 ■遠く広い宇宙のよう、聞こえる「骨の声」

 宇宙の中に、ぽつんと浮かんでいる恒星のような。そんな印象を持っていました。遠いところにある、広大な光として見つめていました。

 「ひとりぼっち性」とも呼ぶべきものが谷川さんの詩には、いつもあった。それは「孤独」とも少し違う。原始的で、無邪気で、純粋な魂がそのまま表に出ているような。そんな幼心のようなものが、いつも詩の中心にあったと思います。

 僕はいつも、限界を超えたいと思って極端なところへいっていました。だから谷川さんとは正反対に見えるでしょう。たしかに、遠いところにいたと思います。でも、「ひとりぼっち性」という点では共通していた。それは、僕が谷川さんから一番影響を受けたことでした。

 一貫して学問や知識に頼らずに、裸で話していた。世俗的な栄誉というものも、極力退けて生きてこられた。誰かからの評価というよりは、おひとりの中に、実に深い魂の輝きを持っているように見えました。

 昔、たまたま朗読を録音している谷川さんと同じスタジオにいて、誘われて一緒に録音したことがありました。そのときに谷川さんは、録音しながら平気でいすを蹴飛ばし、音を立てる。ノイズを入れるわけですね。僕はそんな大胆なことができない。色々と考えながら、長年かけて自分の表現は、それに近い方向へといっている気はしますが。谷川さんは、無邪気な子どものような思いつきで、ノイズを作り出してしまう。

 僕は、声とかしぐさ、舞踏とか音楽とか、「意味」や「思想」の枠にとどまらない方向へと、一生懸命に走ってきた。でも、谷川さんは一番最初から、魂の中にそういう感覚があったんじゃないかな。「意味」や「思想」から逃れようなんて考えすらない。

 その詩からは、「骨の声」が聞こえます。頭ではなくて、自然な、骨から出てくる声が。誰にも属せず、ひとりぼっちで「宇宙」のような広がりを保つ。その宇宙の中から、人間だけでなく、動物や植物、鉱物さえ感じられるような感覚が息づいた、「骨の声」が聞こえてくるんです。

(聞き手・定塚遼)

     *

 よします・ごうぞう 1939年生まれ。声、文字、写真、絵などの表現分野を行き交い「全身詩人」の異名を持つ。代表作に「黄金詩篇(へん)」。文化功労者。

 ■言葉の入り口へいざなう、命あふれる絵本

 絵本の名手でもあった谷川さん。豊穣(ほうじょう)なオノマトペの泉で、赤ちゃんを言葉の入り口へといざない、人間関係や死にかかわる根源的な問いもテーマに据えてきた。「ピーナッツ」「スイミー」といった訳書も手がけ、200冊に及ぶ絵本を世に出してきた。

 なかでも、イラストレーターの故和田誠さんとは、「ともだち」「がいこつ」「あくま」など、多くの名作を共にした。和田さんの妻で料理愛好家の平野レミさんは「とっても仲良しで、電話でも色んな話をしていました。しょっちゅう『谷川さんとごはんだから遅いよ』と」と振り返る。

 2019年に和田さんが亡くなったとき、谷川さんは、朝日新聞にこんな言葉から始まる詩を寄せている。

 〈君は過去になれない男/目の前からいなくなっても/いのちにあふれた絵とデザインに/君は軽々と生き続けている〉(19年10月17日付朝刊掲載「Natural」から)

 世代が異なるクリエーターと手がけた作品も多い。

 NHK・Eテレの工作番組「ノージーのひらめき工房」のアートディレクションなどを手がけるユニットtupera tupera(ツペラ ツペラ)は、谷川さんの文に絵をつけた絵本「これはすいへいせん」を16年に出した。

 メンバーの亀山達矢さん(48)が当時を振り返る。「作りが特殊な本で大変だったのですが、谷川さんは『僕の印税を使ってもいいから、実現してほしい。やりたいことをやって』と言ってくれた。もの作りにこだわってほしいから、と」。トークイベントの後に食事をして、その日一番の笑顔をみたのは別れ際。「『これから予約していた(鉄腕)アトムのセル画を受け取りにいくんだ』と、うきうきして帰っていかれた後ろ姿が忘れられません」

(松沢奈々子)

朝日新聞11月24日

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S16091407.html

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02467/ 【【追悼】詩人・谷川俊太郎:日本語の可能性を広げ続けた「柔らかな心」の革新者】より

11月13日、92歳で亡くなった谷川俊太郎さん。18歳で発表した「二十億光年の孤独」で注目を集め、最後まで精力的に創作活動を続けた。「鉄腕アトム」の主題歌や、犬のスヌーピーが登場する「ピーナッツ」シリーズの翻訳、絵本などでも知られる。改めて、その人生と詩作を振り返る。

生きることの寂しさ

谷川俊太郎さんは、近代から今日に至るまで、日本で最も人気のある詩人だと言える。明治以降、近代詩の父と呼ばれる萩原朔太郎をはじめ、北原白秋、中原中也や宮沢賢治、戦後の詩壇を彩った田村隆一、茨木のり子、新川和江らまで多くの詩人たちが活躍してきた。それでも、谷川さんほど多くの人に愛され、70年以上にわたり活躍した詩人はいない。

人類は小さな球の上で  眠り起きそして働き  ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で  何をしてるか 僕は知らない

(或はネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする  それはまったくたしかなことだ

万有引力とは ひき合う孤独の力である 宇宙はひずんでいる  それ故みんなはもとめ合う

18歳のときに文芸誌「文学界」に発表した詩「二十億光年の孤独」は、日本人の多くが教科書などで一度は目にしたことがあるはずだ。みずみずしい一編には、大きな宇宙に抱かれて生きる人間の喜びとともに、誰もが持つ孤独や不安、仲間を求める気持ちが刻まれている。

この世に生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きる人間とは、根源的に悲しみを抱えている。豊かな四季の移ろいの中を生きる日本の人々は古来、生命の移ろいにも敏感で、生きることの寂しさを「もののあはれ」と表現した。

人間は、自らの不完全さ、ひずみを知るがゆえに、誰かを求めずにはいられない。自らを満たしてくれるはずのものを探して、遠く夢を見続けてしまう。ひんやりとしたものの中に静かな熱をはらんだ言葉に触れた後は、「この世に生を受けるとは、なんとあはれなことなのだろう」と、小さなため息をつかずにはいられない。

この詩から思い起こされるのは、平安末期から鎌倉時代の初めを生きた僧侶、歌人の西行の歌だ。武士としての栄達を捨て、歌の道に生きた西行は、今からおよそ千年前、若き日の谷川さんと同じように、夜の空、自然の静寂の中に自分を見つめて歌を詠んだ。

なげけとて月やはものを思はする  かこち顔なるわが涙かな

心なき身にもあはれはしられけり  しぎ立つ沢の秋の夕暮れ

柔らかく平明な谷川さんの詩は、一見モダンのようでありながら、日本の伝統的な感受性とも真っすぐに結びついているのかもしれない。

「柔らかな心」を持ち続けて

1931年12月15日、法政大学総長も務めた哲学者の父、徹三と母の多喜子の間に、一人っ子として東京に生まれた。軍国主義が強まりつつある時代の中で、大正デモクラシーの自由な空気の中で育った両親のもと、家には開明的な空気が流れていた。毎年夏には、浅間山のふもとにある北軽井沢の別荘で過ごした。後の作品に現れる自然や宇宙のイメージは、この地で感じたものが色濃く影響しているという。旧制都立豊多摩中(現・都立豊多摩高)に進み、13歳で終戦を迎えた。

戦後の文学者を語るとき、終戦時に何歳だったかは大きな問題だ。300万人以上の死者を出したこの戦争を、銃後の市民として、兵士として、あるいは子供としてどう生きたのか。年齢が少し違えば、その体験は大きく異なり、文学的感受性に影響したからだ。戦後の詩壇は、戦中のアナーキズム運動やプロレタリア詩の流れをくむ小野十三郎(とおざぶろう)ら日本的叙情を否定する人たちや、同人詩誌「荒地」を舞台に、実際に召集された経験を持つ鮎川信夫や田村隆一など硬質な詩を書いた人たちが力を持っていた。

一方、少年時代に終戦を迎えた谷川さんは、焼け跡で死骸を見るなど重い体験を抱えながらも、柔らかな心を持ち続けることができた。21歳のとき、「櫂(かい)」の同人になる。川崎洋(ひろし)、茨木のり子のほか、同世代の大岡信をはじめ、穏やかで心に染み入る親しみやすい作品を書く詩人たちが同人だった。

詩も言葉も信用していない詩人

1960年代以降、豊かになっていく日本社会の中で、言葉に関わるさまざまな仕事を引き受け、一般的な知名度は高まっていく。62年には、曜日で言葉遊びをした「月火水木金土日の歌」の歌詞で日本レコード大賞作詩賞を受賞、63年には、手塚治虫原作のテレビアニメ「鉄腕アトム」の主題歌を作詞した。64年には市川崑監督から頼まれて、記録映画「東京オリンピック」にも関わった。

そんな中で、65年に発表した連作詩「鳥羽」の一編は、文学界に大きな衝撃を与えた。詩人として生きるとはどういうことなのか、鋭く問い掛けてくる。

何ひとつ書く事はない  私の肉体は陽にさらされている  私の妻は美しい

私の子供たちは健康だ  本当の事を云おうか   詩人のふりはしてるが

私は詩人ではない

谷川氏への長時間インタビューを織り込んだ評伝(新潮文庫)

詩の言葉とは、この世に存在するもの、人間の中に湧き上がる感情を、じかにつかみ取ることができるものなのか。谷川さんは、元読売新聞編集委員の尾崎真理子氏によるインタビューで、「言葉がどこまで可能か、有効かということに対して、一種のあきらめから出発した感じがする」と語っている(尾崎真理子著『詩人なんて呼ばれて』)。

他のインタビューでも、言葉や詩を信用していなかったからこそ、さまざまな表現を模索してきたと語っている。

1970年代以降、谷川さんは、それまでの詩人が試みたことのない、独創的な日本語の実験に挑み、言葉の可能性を追求していく。

「ことばあそびうた」(73年)では、ひらがなだけで表現する「ひらがな詩」を試み、読者を広げた。明治以降の日本語は、西欧の概念を漢語に訳して取り入れたことで、観念的で分かりにくい面がある。子どもに向けた詩の形を取って、言葉を柔らかくほぐそうとしたのだ。75年には伝承童話集「マザー・グースのうた」を、漢字をほとんど使わずに邦訳し、日本翻訳文化賞にも輝いた。日本では「スヌーピー」の名で知られるチャールズ・M・シュルツの漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳も手掛けた。

旺盛な詩作や執筆活動の一方で、詩人は言葉を越えた、本当の人の魂との触れ合いや詩情を求めて常にさまよっていたのかもしれない。私生活では22歳のときに結婚した詩人の岸田衿子さんをはじめ、3度の結婚、3度の離婚を重ねた。1990年に結婚した3人目の妻、絵本作家の佐野洋子さんは、ロングセラー『100万回生きたねこ』などを残した。才能ある女性との交際は、中年に差し掛かった詩人の世界につややかな彩りをもたらしたが、前述の『詩人なんて呼ばれて』の中で、「僕は生傷が絶えなかった」と正直に振り返っている。

近代文学史を振り返ってみれば、詩人の中原中也と評論家の小林秀雄は、恋人の長谷川泰子をめぐって三角関係に陥った。『智恵子抄』を残した高村光太郎は、深すぎる愛と鋭すぎる才能から妻の智恵子を狂わせてしまった。詩を生きるための杖とする者は、自分の心と言葉に正直にあろうとして、魂の旅を繰り返す宿命にある。谷川さんも例外ではなかった。

身近にあるささやかな幸せ

谷川さんの詩は、いつも私たちのそばにあった。地球の広さを思い起こさせる「朝のリレー」(1982)は教科書に載り、2003年にはネスカフェのCMにもなった。東日本大震災の後、1971年に発表した「生きる」がインターネットを通じて拡散され、人々の心を慰めた。

その言葉にいやされてきたのは日本人だけではない。やさしい言葉を使い、リズムにも優れている作品群は、日本語を学ぶ外国人たちも強く引きつけてきた。

中国が文化大革命の真っただ中に幼少期を送った1965年生まれの詩人、田原(ティエン・ユアン)さんは、日本に留学後、谷川さんの詩に出会った。人の心を包み込むような世界に深く感銘を受け、翻訳して母国に紹介するようになった。異国で出会った詩の言葉に導かれ、自らも詩を書くようになった。

梅干し好きの日本人は梅の樹によじ登って  青梅を揺り落とす

梅の実の雨粒であるかのように   ボトボトひっきりなしに落下するのである

湿った普段着のように梅雨は   裸の島々をそっと被う(「日本の梅雨」より)

田原さんが谷川さんの詩から受け取ったものは、日本語のふくよかさだけではない。政治や社会体制といった私たちを覆う硬いよろいを脱ぎ捨て、木に実る青い梅やその匂い、地面に落ちた音といった生活の実感を伴ったものに心を寄せること。すなわち、この世のささやかな喜びを大切にする生のスタイルのようなものだろう。

田原さんだけではない。現在、その作品は英語や中国語、フランス語、ドイツ語など20数カ国語に翻訳され、世界の人々が日本文化に親しむきっかけとなっている。その功績がたたえられ、2019年に国際交流基金賞が贈られた。

贈賞式に車いすで現れた詩人は、「僕は権威にはなりたくありません」と若々しく語り、取材に集まった記者たちを大いにわかせた。

谷川さんの詩は、発表しただけで2500編以上と言われている。90歳を超えても、新しい試みを続けてきた。これは、昨年出版されたブレイディみかこさんとの往復書簡形式の共著『その世とこの世』の中に収められた「これ」と題する詩の一節だ。

これを身につけるのは  九十年ぶりだから  違和感があるかと思ったら

かえってそこはかとない  懐かしさが蘇ったのは意外だった 

老いておむつをつける生活になった自らの近況を表現したものだ。一つずつできないことが増え、煩わしさに取りつかれていく老いの風景さえ、まばゆい光を放つ詩に昇華してしまう。

その作品は星々のように輝き続け、私たちの人生に寄り添い続けることだろう。