自分からの解放
https://www.enyuu-ji.com/507/ 【【法話】自分からの解放①】より
自分からの解放
最近、ガッカリすることがありました。
(といっても三秒ほどで立ち直ったので、あまり心配せずに先をお読みください)
ある雑誌の取材で、坐禅とは何ですかと問われ、
「自分から解放されることです」
と答えたのですが、発行後にその雑誌をみたら、
「坐禅とは自分を解放することです(住職談)」
と書かれていて、これでは言いたかったことと真逆になってしまったなと、ちょっと残念に思ったのです。
「自分を解放する」というのは、自分を抑圧している外的な要因を取り除くということです。
閉塞感の漂う社会で、いろいろ我慢することも多く、やりたくない仕事をして、
会いたくない人と無理に付き合わなければならないことだってあります。
確かに自分を解放して好きなようにできたら、さぞかしスッキリするかもしれません。
一見、素晴らしいことのように思います。
でもそれは自分の欲望のままに生きるということでもあり、
結局はわがままに振る舞うことと何も変わらないのではないでしょうか。
しかも自分の思い通りに生きようとしても、大抵は満たされません。
むしろ「もっと、もっと」と、かえって自分の飽くなき欲望に振り回されて不自由さを感じることでしょう。
「ありのままに」というアニメ曲のフレーズも少し前に流行りました。
これも自分の思い通りに生きることだと思っている人がいるかもしれませんが、
「ありのまま」とは目の前の現実に対して自分の思いを差し挟まずに、
あるがままに受け止めて対応することです。
自分の思いを離れた時にはじめて「ありのまま」になれるのです。
なので、本当の自由とは、自分を解放するのではなく、
自分から解放されてはじめてなされるのだと思うのです。
坐禅によって得られる解放の境地もまさにそこにあります。
しかし、今の社会は「自分が、自分が」と、いわば自分ファーストが当たりまえです。
だから「自分を解放する」というほうが共感されやすく、
「自分から解放される」と言っても、なかなかピンと来ないのかもしれません。
自分とは何者か?
ここで改めて考えてみましょう。私たちが後生大事にしているこの自分とは何者なのでしょうか?
「もちろん分かっていますよ」と言うでしょう。
自分について人に説明するときには、名前を名のり、住んでいる場所や、通った学校、
今やっている仕事、肩書などを述べたりするかもしれません。
でも、そのどれが本当の自分なのでしょう?結局はどれもこれも他者と区別する情報に過ぎません。
そこで自分の身体を指差して、「この生身の肉体は確かに自分じゃないか」と言うかもしれません。
でも心臓はドキドキと勝手に動いているし、
髪の毛も自然と生えてきます(私の場合、どちらかというと抜けていきます…アァ悲しい)。
人間の身体は六〇兆個の細胞で形づくられていると言われますが、
その細胞もだいたい六年周期で完全に入れ替わるといいます。
では、この肉体は一体誰のものなのでしょう?
いや、それでも心は自分のものだろう、と今度は思うでしょう。
ところが、心だっていつも自分でコントロールできているわけではありません。
何かの折に触れてはコロコロと移り動いてばかりです(だからココロと言うのか⁉)。
五分先に自分が何を考えているかさえも予測ができません。
そうはいっても、どこかに自分の主体となる存在があって、
それが自分の行動を決めていると思うかもしれません。
しかしよくよく考えてみると、
この世界は様々な条件や関係性(仏教では「縁」といいます)の中で物事が起きているだけで、
そこに自分の主体といえるものは存在しないのではないでしょうか。
あれっ、まだ納得できないですか…。では、ちょっと実験をしてみましょう。
まず目を閉じてみてください。
そこで過去の経験や知識に一切頼らず、今という瞬間にだけ意識を向けてみてください。
その状態で自分が誰なのか把握することができますか?
あなたはどんな人物でしょう?
名前は?
どこに住んでいますか?
どんな仕事をしていますか?
年はいくつですか?
男ですか、女ですか?
今どこに座っていますか、あるいは立っていますか?
さあ、どうでしょう。
きっと自分のことについて何一つ把握できないのではないでしょうか。
私たちは、自分が確かに存在していると思っていますが、
実は自分というのは過去の記憶や知識の中にしかいないのです。
その過去は文字通りすでに過ぎ去っているので、それは頭の中の幻想にしか過ぎません。
今ここに存在していると思うかもしれませんが、そこに自分をいくら探しても見つからないのです。
さて、自分って一体何者なのでしょうね?
https://www.enyuu-ji.com/508/ 【【法話】自分からの解放②】より
「無我」って何?
一般的に仏教の基本教理は「無我」であると言われます。
「我」とは実体という意味で、この世界のあらゆるものには実体がないと説きます。
そうであれば、自分という実体も存在しないことになります。
しかしそれは自分が消えて無になるというわけでありません。
もし無という状態になるなら、それは「無が有る」ということになり、
それでは無ではなくなってしまいます。頭がこんがらがりそうですね。
ですから、「無我」という言い方はちょっと極端で誤解を招くかもしれません。
「無我の境地」なんてよく言われますが、そういう世界がどこかに存在するわけでもないし、
いくら修行をしても「無我」に至ることはできません。
もし、どこかの教祖様みたいな人が、「私は無我である!」なんて言ったら、
ちょっと怪しいと思ったほうがいいでしょう。
仏教では「無我」という表現を便宜上使いますが、正確さを期するなら、
我は有るわけでもないし、無いわけでもない(非有非無)という言い方をします。
大阪人なら「どっちやねん!」とツッコミを入れたくなると思いますが、
それしか言いようがないので仕方ありません。
「無我」というのはもともとサンスクリット語「アナートマン」(anātman)の漢訳です。
「アン」(an)は否定辞で、「アートマン」(ātman)が「我」という意味です。
仏教学の大家である中村元氏は、「無我」というのは、否定辞の捉え方によっては「非我」とも解釈でき、
そのほうがお釈迦さまの悟った内容に合致していると仰っています。
そうすると、「無我」であるから「自分は存在しない」のではなく、
「非我」であるから「自分だと思っているものが、実は自分ではない」ということになります。
この説には学者の間で賛否があるようですが、「非我」というほうが分かりやすく、誤解も少ないように思います。
自分という境界線
先ほども言いましたが、自分の身体や心は常に変化し続けていて、それをコントロールすることはできません。
自分は自分の身体の主人だと思い込んでいますが、身体の方はそう思っているでしょうか?
例えば、皮膚までが自分の領域だと私たちは思っていますが、
その皮膚のほうはきっと私の存在ことなどまったく気にかけていません。
それよりも皮膚を取り巻く空気とのほうがもっと密接な付き合いがあるでしょう。
それなのに自分の皮膚から内側は私で、向こう側は私でないと自分勝手に思い込んでいるだけなのです。
さらにいえば、自分の財産も「非我」の立場からすれば自分の所有物ではありません。
もし自分のものを勝手に他人に奪われたら誰もが怒るでしょう。
でも、どんな所有物も最初から自分に具わっていたわけではありませんし、
未来永劫自分のものにすることもできません。
それは仮に自分の手元にあるだけのことです。自分のお金で購入したのだから自分のものだというでしょうが、
お金だって本来は単なる紙切れです。
経済社会の中で共通の約束事としてあるだけです。
文明社会から閉ざされた村落に行ったらまったく通用しないでしょう。
人間関係も同じく、どんなに愛する人であろうが、仲良しであろうが、その状態が続くとは限りません。
もしずっと自分のものだと執着していたら、これは問題になります。
例えば別れた彼女に対して「あいつは俺のものだ」と思い込んでいたらストーカーになってしまいます。
そうすると、自分や自分の所有物、人間関係は仮の境界線によって決定づけられているだけで、
本来は誰のものでもないはずです。
もしも境界線がなければ、何から何までが途切れることなく、ただ存在が存在しているだけなのです。
例えば富士山はどこからどこまで富士山かというと、別に境界線が引いてあるわけではありません。
地図上で仮にここからここまでを富士山としようと決めているだけです。
実際は何の途切れもなく地続きで、それは本州、地球、宇宙とつながっています。
ですから、富士山は単に富士山ではなく、イコール宇宙であると言えるのです。
自分という存在も同じです。
この宇宙のあらゆる存在が隔たりなく一つの存在としてあるのです。
「無我」の別の表現で「空」という言い方もあります。
これも誤解されやすいですが、空虚とかカラッポということではなく、
すべてが繋がり合っている関係性を説く言葉です。
大学時代のことですが、仏教学者で天台宗の学僧である福井文雅先生の授業を受けた時に、
先生が「無」と「空」の違いについてとても分かりやすく説明してくださいました。
まず「無」と「空」を使って単語を作ってみなさいというので、
ある学生が「無車」と「空車」と答えました。
すると先生は、「無車」なら車がないということだから乗ることはできないけれど、
「空車」なら乗ることができますね、と仰いました。
これが「無」と「空」の大きな違いです。
「無」であると関わり合うことができませんが「空」であれば関わりがもてるのです。
重要なこと
「無我」や「空」というと冷淡な思想のように感じますが、実はとても温かい教えだと思います。
私たちはつい様々なものに境界線を引いて、自分と他者とを対立させています。
そうすることでどちらが優れているか比べ合ったり、損得を気にしたり、
時にはいを起して人を傷つけてしまいます。
国同士もお互いの国益を守ろうと戦争をすることがあります。
「我」というのは境界線を引くことによって現れるのです。
それがすべての苦しみの根源です。
でも、その境界線は幻のようなもので思い込みにすぎません。
自分という境界線から解放されれば、すべては対立することなく、上下の差もなく、
お互いに触れ合うことができるのです。
私たち一人ひとりが「無我」の教えを人生に活かすことができれば、
この世の中はもっと素晴らしくなりそうです。
さて、坐禅の話に戻りますが、最近は坐禅や瞑想がちょっとしたブームです。
大企業でも取り入れているところがあるようです。それはとても良いことですし、
どんどん実生活に活かしていただきたいのですが、それが自分の成功や会社の利益のため、
ましてや自分を解放して思い通りに生きるために行うのであれば、
自分という境界線をますます強固なものにしてしまうでしょう。
「自分の解放」と「自分からの解放」の違いなんて些細なことのように聞こえるかもしれませんが、
私にはとても重要なことに思えるのです。