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大本柏分苑

大本教旨 王仁三郎の神観

2024.11.27 11:36

真の神はもとより日本専有の神ではない。世界各国で、いろいろな名がつけられている。またこの神に対する概念も、浅深、大小さまざまだ。

主神、独一真神、造物主などは、真の神の属性からつけられた名前である。神道では天之御中主神と称え、キリスト教ではゴッド(天の父)、イスラム教ではアラー、ギリシャ神話ではゼウスの神という。中国では天、天主、天帝などといい、易では太極だ。仏教でこの概念に比較的近いのは、阿弥陀如来であろう。阿弥陀如来は西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名で、信者は死後、その世界に生まれ変るとされている。

大本では大国常立尊であり、筆先は天の御先祖きまと親しく呼びかけ、救世主神としてみろくの大神ともたたえる。また霊界物語では、素盞嗚大神がそれにあてられている。「ルシャナ仏 阿弥陀如来も伊都能売も御名こそかわれ一つ神なり」と王仁三郎は歌うが、真の神を信仰の対象にする宗教である限りただ呼称が違うだけで、実は同じ神に祈っている。だから宗教によって「わが神尊し」と争うことほど、ナンセンスなことはない。同じ神を祈っているのに、なぜこうもいろいろな宗教に分かれるのかといえば、基本的には神をどう観るかという神観の相違に帰する

世界的宗教を大別すれば、一神教、多神教、汎神教になる。一神教は一神観にもとづく宗教である。一神観では、神はただ一柱あるのみ。その神は唯一絶対の存在であり、万物を創造し、時間を超えて永遠に生きる。すべての存在は神によって支配きれ、生かされ、神の経論の中にくみこまれる。神は被造物である人間と本質において相違する超絶的存在だが、同時に人間の心を理解し、人間に働きかける人格的存在でもある。イスラム教、キリスト教は典型的な一神教だ。

多神教は多神観にもとづき、複数の神を認める。それらの神は太陽神、大地の神、海原の神、風の神などの自然神であったり、医薬・治療の神、農耕の神、真理・秩序・正義の神、生殖の神、技術の神、思慮の神というように、抽象的なカや観念を司る神であったりする。エジプト、ギリシャ、ローマの宗教やヒンズー教、日本の神道などは多神教であり、神社には多くの神々が合せ祭られている。

汎神教は汎神論にもとづき、すべての存在(宇宙、世界、自然)が神であり、神はこれらすべてと同一という宗教観、哲学観だ。インドのウパニシャツドの思想、仏教哲理、ギリシャ思想、また近代ではスピノザ、ゲーテ、シェリングなどの思想は汎神論に属する。仏教の「仏性」思想はかなり汎神論的であり、特に大乗仏教にそれがいちじるしい。

真の神は「天地万有の創造主」であり、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」であると称える王仁三郎の神観は、まぎれもなく一神観だ。複数の神も認めており、そういう意味では多神観に立つ。そして「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」というからには、汎神論である。

王仁三郎は述べる。

「宇宙根本の力を体現するものは、すでに述ぶるが如く、宇宙を機関として無限、絶対、無始、無終の活動を続けたまうところの全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。この意義において、宇宙は一神である。が、宇宙の内部に発揮さるる力はおのおの分担が異り、方面が異り、性質が異り、軽重大小が異り、千種万様その究極を知らない。そしてこれらの千種万様の力は、おのおの相当の体現者をもって代表されている。この意義においては宇宙は多神にいわゆる八百万の神の御活動である。由来、一神教と多神教とは、あい背馳して並立することができぬものの如くみなされ、今日においてもまだ迷夢のさめざる頑迷者流が多いが、実は一神論も多神論もともにそれだけでは半面の真理しかとらえていない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神わかるのである。

この意義において天地、日月、万有、一切ことごとく神であり(汎神)、神の機関である。小天之御中主神である」(『大本略義』「天地剖判」)

宇宙を一大人格ととらえてみよう。宇宙は一つ、その本体は宇宙の活動力の本源である真の神一柱、一神観である。

しかし太陽も月も地球も星も、その他いっさいが宇宙の懐にあって活動しているように、真の神の力徳の大小の変化にいちいち神名をつけた時、それが八百万の神々となる。また真の神から生まれたいろいろのエンゼルや古代の英雄を神と呼ぶ場合もある。つまり多神観だ。巻けば一神、聞けば多神で一神即多神、多神即一神である。

宇宙間のすべてが真の神の霊力体で作り出され、分霊、分力、分体を受けている。これは汎神論である。ただ王仁三郎の汎神論で注意すべきは、「石ころ即仏」、「木の葉即仏」ではく、石ころも木の葉も真の神の一部分だということである。

別の角度から説明しよう。ここに一冊の本がある。つらぬかれているテーマは一つだ(一神観)。だが開けば何百ページに分かれ、それぞれに意味がある。(多神観)

そしてどのページも本の一部分だ(汎神論)。ただし本そのものではない。

地の上に 数多の国はありながら 信ずる神は一つなりけり

一はしら 神のいさおを八百万 わかちてとける大本の道

八百万 神はいませど伊都能売(いづのめ)の  神の分かちし霊魂なりけり

西東 南も北も天地も わが身も神のふところにあり

人体でたとえれば、人体は一個体である(一神観)。その人体は頭、胴、子、足、さらには骨、筋、、皮膚、内臓などに分れ、それぞれ独自の働きを持つ(多神観)。そしていかなる部分もすべて細胞から成り立ち、その一つ一つの細胞は生きて活動している(汎神観)。ここに太郎がいる。何か真剣になそうとする時、彼のカは一点、思いは一念に集中される。まさに太郎は一つだ(一神観)。だが太郎にしても、心が千々に乱れることがある。また太郎の行動に名がつけられる。体全体で行動する時、立つとか、坐るとか、走るとか、止まるとか。また体の一部たとえば指先の動きにつねるとか

なでるとか、くすぐるとか(多神観)。そして指もまた太郎の一部分である(汎神論)。ただし太郎そのものではない。このように王仁三郎の多神観も汎神論も、真の神の本質を説明する便宜のためであり、本質的にはあくまで一神観である。

「反可通学者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だといっているが、かかる連中はわが国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主神と称え奉り、その他の神名はいずれも天使や古代の英雄に神名を附せられたまでであることを知らないからである。

真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にわが神道は一神教であるのだ」(『筆のしずく』五)

それ以外に王仁三郎は独特の汎神論を持つ。それを大本教旨といい、いわば大本の教えの根幹をなす。

「神は万物普遍の霊にして、人は天地経論の主体なり。神人合一してここに無限の権力を発揮す」

第一段は神について。万物に普遍している霊が神だというのだから「巻けば一神、開けば多神」という王仁三郎の神観に立つ時、万物に普遍した霊は、総根源たる真の神から分け与えられたものだということを、理解しておく必要がある。

第二段は人について。天は地上に対する宇宙、現界に対する霊界を意味するから、天地とは霊界現界を合わせた全宇宙である。経論とは、「唯天下至誠、為能経論天下之大経、立天下之大本、知天地之化育」(『中庸』)、「上下心を一つにして、きかんに経論を行なうべし」 (「五箇条の御ご誓文」一八六八(慶応四)年とあるように、天下国家をととのえ治めるための雄大な構想の意味がある。つまり人は字宙全体を立派にととのえ治めるために構想し実践すべき主体であり、これほど人間としての存在を高く評価した哲学は他にあるまい。

第三段は神と人との関係について。大本教旨にある「神人合一して」は、「霊体一致して」と表現される場合もあるが、この方がより広い意味を持つ。神は霊であり、人はその霊を容れる体だ。いくら霊で自の前のグラスを取ろうと念じても、体が協力せねば取ることができぬ。

だが霊の働きが停止すれば、ただこんこんと眠る植物人間になるよりあるまい。霊と体と合して初めて力が出るように、神と人とが一体になってこそ、初めて無限の力を発揮できるのだ。

真神は 万物普遍の霊にして 人は天地の経論者なる

大神の みたまをうけし人の身は 天地経論の主宰者なりけり

主の神は 万物普遍の霊なれば 人を造りて世を聞きましぬ

人は神の代行者

もし神と人とが完全に合一したとすれば、自分からも、社会からも、その外側の地球からも解放され、思わず言霊となってほとばしろう。

天にかがやく月日の玉を/取ってみようと野心をおこし/天教地教の二つの山を/足の台にして背伸びをしたら/雲が邪魔して一寸にや見えぬ/見えぬはずだよ盲目の企み/そこでちょっくり息してみたら/雲が分かれて銀河となった/左手に太陽わしづかみ/右手に月をばひんにぎり/顔にあてたら目ができた/顔にあてたら目ができた。さらに王仁三郎は歌う。

日地月丸めてつくる串団子 星の胡麻かけくらう王仁口

日地月星の団子も食いあきて いまや宇宙の天海を呑む

「神が全智全能ならば、なぜかかる不公平なる世界をいつまでも放置しておかれるのか。賛沢三昧に暮らしている国があるかと思えば、一方では飢えに苦しむ国がある。この世界には差別がいっぱいだ。これでは人類の苦しみを眺めて喜んでいるとしか思えない」 という疑問に出合うことがある。

神は「隠身」、つまり肉体を持たぬ存在だ。そこで神は全智全能なるが故に、人を地上に下して、自分の代行者として天地経輸の働きをになわせた。いわば人は地上における神である。この現界においては、人が主体なのだ。神と人とがあいまって初めて、神の全智全能の威力を発揮できる。

神は山河草木を造り出したが、人間の力が加わらねば、山河草木は依然として太古のままであろう。神はこの宇宙を生成化育、無限に発展させようという大欲望がある。そしてこの地上にすばらしい楽園、みろくの世を造ろうと望んでも天地経総の主体としての大使命をになう人が協力せねば不可能なのだ。ただ祈っていれば理想的世界が到来すると考えているような宗教があるが、それは神と人との関係を理解しないからにほかならない。

真の宗教者ならば、世界の軍備全廃のために率先して行動することを、王仁三郎は教えている。みろくの世が実現するもしないも、すべて人の責任にある。この世がいつまでもよくならないのは、人が神の意志を無視して勝手なことをやっていることの証明でもある。

ではみろくの世を実現するのは、神か人か。こんな笑い話がある。「大坂城は誰が造ったかね」「もちろん豊臣秀吉だ」「違うな。大工や左官が造ったのだ」

確かに大坂城は大工や左官が造った。秀吉がいかに権力があろうと、大工や左官がいなければ、大坂城はできなかった。しかし大工や左官が何万人いようと、あの時、秀吉が築城を決意せねば、大坂城はできなかった。働き手は大工や左官だが、しかし誰が造ったかといえば、やはり豊臣秀吉が造ったというべきであろう。

そのように、みろくの世の建設のための働き手は人だが、絶対的な権限はやはり神にある。革命は人の知恵の限界内で、人の力で理想世界を築こうとするものだが、それが実現してはたして人類が幸福になれるかどうかの保証はない。あるいはジョージ・オーエルの『一九八四年』のような、人聞ががんじがらめに管理されるような状況にならぬとも限らない。だが王仁三郎のいう世界改造は、神人合一、神と人との協同作業で理想世界を築こうとする。それが立替え立直しである。