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俳句の再定義をめぐって

2024.11.28 09:35

https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12444216979.html【「俳諧の本質的概論 寺田寅彦」 からの考察 ①】

https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12444082919.html【「俳諧の本質的概論 寺田寅彦」 からの考察 ②】

https://shiciankou.at.webry.info/201506/article_90.html 【俳句の再定義をめぐって と七言絶句『俳言正短小而精悍(俳言 正に短小にして精悍なり)』】より 

数学などの明晰な分野ではともかく日々の暮らしや文芸など万事が曖昧な世界では定義とは集団的思いこみであるだろう。 

たとえば俳句。有季定型俳句は季題あるいは季語を用い五七五に詠む俳句であると定義することに疑問の余地はないと思う。

しかし これを拡大解釈して 俳句は季題あるいは季語を用い五七五に詠む詩であると多くの人が思っているとすれば それは集団的思いこみだ。 

いわゆる自由律俳句があり、多くの傑作を生みだしてもいる。

だから、有季定型俳句の定義をもって俳句の定義とすることには無理があるのだがともと 有季定型というコンセプト自体河東碧梧桐の新傾向俳句とその流れを汲む荻原井泉水の自由律運動に対抗して構築され、理論化されたもので歴史的には新傾向や自由律よりも新しい。

いわば俳句の復古的な運動なのだが有季定型が唱えているのは江戸俳諧への復帰ではなく復古ではなく擬古であり擬古であるかぎりにおいて新造であり模造である概念なのだ。

だから有季定型俳句の定義をもって俳句の定義とすることには最初から無理なのだが有季定型にとって もっと深刻なのは俳句が世界にひろまっている今日有季定型俳句をもって俳句の定義することはもはや完全に不可能である ということだろう。

有季定型の俳句を詠む俳人が海外にはいないとはいえないが

多くの俳人は有季を念頭においてはいず五七五を遵守する俳人はいるとしても五七五に詠まずもっと短い音数で詠む俳人もいくらでもいる。

なぜか。

俳句の長所として見つけているものが日本と世界では違うのだ。

日本では多くの人が学校教育などで俳句に季語と五七五を教わり それを俳句だと思いこむのだが海外では 主に詩人たちが俳句に 短くても詩は可能であるということを見つけている。 

俳句が世界に大きな影響を与えたのはこの俳句は短くても詩であるということなのだ。

短くても詩である ことで俳句は 翻訳が容易であり国境と言語を超えることを可能している。

今日、俳句の特長としてまず語るべきことは俳句は、国境と言語を超える詩のジャンルだということだ。

俳句とは何かを定義するうえでこれを無視すれば日本の俳句は 世界のなかで孤立する。

世界の詩人たちは 俳句を詠むことで世界へ向けて自分の作品をあるいは自分たちの詩文化を発信することができるようになった。

そこで多くの詩人が自国語で俳句を詠みそれを英語に翻訳し世界へむけて発信し続けている。

そういう世界の俳人にとって俳句はもはや季語でも五七五でもない。

季語と五七五を海外の俳人に説くことは高浜虚子の渡欧・渡仏の時点(昭和11年)でもはや滑稽だった。

虚子はフランスの俳人に季題が大切だ と説きフランスの俳人から私たちには もっと大事なことがあると応酬された。

季語よりももっと大事なことがある。

それは海外の俳人たちに限ったことではない。

日本の今の若者たちにしても季語よりももっと大事なことがあるに違いない。 

そこで 若い人に対して季語と五七五を説くことはもしかすると俳句をつまらないもの魅力のないものと説明しているだけかも知れないのだ。

とすれば この際 俳句とは何かを世界の詩人からまた日本の若者たちから魅力あるもの学ぶに値するものと思ってもらえるよう再定義したらよいと思う。

私は 俳句は三句(三行)からなる短詩であると定義している。 

     七絶・俳言正短小而精悍   2015.06.22 -44350

 短小身躯何不強,俳言精悍帶靈光。辭林散策摘瓊草,句涌如泉溢酒嚢。 ●●○○○●平,○○○●●○平。○○●●○○●,●●○○●●平。

                   (中華新韻十唐平声の押韻)

 

  短小なる身躯 なんぞ強ならざらんや,

  俳言 精悍にして靈光を帯ぶ。

  辭林を散策して瓊草を摘めば,

  句涌いて泉の如くに涌いて酒嚢に溢る。

 短小精悍:もともとは体は小さいが精悍であることをいうが、

  文章、言論が簡にして短くとも力があるも形容する。

 これを文選読みにならって日本人にもわかるように読み下せば

 俳句短くて小さき言葉が精悍だ

 短小精悍、まさに俳句ではないか。