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俳句を貫く身体性の輝き

2024.11.28 12:56

https://blog.goo.ne.jp/aonuma25/e/26f77edeb4516f42490bc08110fd35e1 【俳句時評  俳句を貫く身体性の輝き   五島 高資】より

俳句を貫く身体性の輝き   五島 高資

                    朝日新聞08/9/22より転載

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 ここ十年来、日本語ブームが続いている。近刊の『文芸春秋SPECIAL』季刊秋号「素晴らしき日本語の世界」では、斎藤孝氏と書道家の武田双雲氏の対談「身体的日本語論」に注目した。筆勢などに言葉の記号性を超えた個人の身体性を顕現しうることにおいて肉筆は活

字に勝ると言ってよい。

しかし、例外もある。活字であってもそれらを□ずさむときに体感される音律によって詩歌の言葉はまさにその身体性を発揮する。

寄稿者の多くが日本の伝統的詩歌に触れるなど様々な形で言葉の音楽性について言及していたゆえんでもある。

 さて、この『文芸春秋』誌では俳人としてただひとり黒田杏子氏が「手紙を書いてみよう」という特集に「その日、生きた証しとして」という文章を寄せている。

「もんペスーツ」で「四国八十八ヵ所遍路吟行」など、行動派俳人としてすでにその作風は身体性に裏打ちされている。

 近著の随筆集『俳句の玉手箱』(飯塚書店)では、ドナルドキーンや瀬戸内寂聴をはじめ、その幅広い交流を通して黒田氏の日本文化に寄せる並々ならぬ思いが伝わってくる。

それにしても、こうした氏の情熱はどこからやって来るのか。

秋声を聴く辺地をゆき辺地をきて  杏子

あとがきに「〈観察〉は森羅万象あらゆる存在との出合いの原点」とあるが、俳句を通した山川草木との対話は、心身と物と言葉が一体となる究極へと我々を誘う。

身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな〉 

(『花下草上』)では主客一如によって「観察」を超えた観音」、あるいは「観自在を体現する。小島ゆかり氏が「黒田杏子は季語を生きる人」と評したことをなるほどと思いつつ、例えば次の句などに、「の」やN音のリフレインによって花びらの渦に立ち現れる生々流転を巡る命の輝きを感じてやまないのである。

  花びらの渦のこの世にかぎりなし(俳人)

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(注) 段落など多少変えてあります(日向 勝)


https://haiku-tree.blogspot.com/2010/11/blog-post_25.html 【「俳句的身体」をめぐって(上) ・・・柳生正名】より

■「俳句的身体」をめぐって(上)

・・・柳生正名

以下は2010年11月6日、慶応大学における「福澤文明塾」での講演内容をもとに、一部加筆したものです。

Ⅰ 序

今回、俳人の立場で「身体」について論じるよう依頼を受けたとき、即座に思い浮かんだ句があります。

人体冷えて東北白い花盛り   金子兜太

俳句では「花」は通常、桜のこと。春の季語です。ただ、ここは東北、「林檎の花」かもしれません。ほわっとした木の花の白さと、春なお寒い東北の空気感が調和し、情景の広がりを感じさせます。

句の眼目は「人体」の語にあります。和歌や俳句に「身体」「人体」という言葉が使われることは稀。普通は「身」でしょう。

心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ   西行

「心なき(出家の)身」という以上、通常、身には心が一体のものとして伴うことが暗黙の前提です。この「心身一如」こそ、日本人の身体観の根底にあるイメージと言えるでしょう。身体論を語る際、今や古典的著作というべき市川浩氏の「精神としての身体」(以下「精神」と略・講談社学術文庫、1992)でも「身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前にほかならない」とされます。まさに、こうした見地を「身」という語は表現しているでしょう。

対して、「人体・肉体」などの語は即物的で、一見、体と心の相容れぬ二項対立の関係が強調されるように見えます。ただ、金子兜太はこの句を収めた句集「蜿蜿」の後書きで次のように述べています。

「眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞ひとつひとつに冷たくしみこんでいることも知る。(中略)だから、〈自然〉と言っても、こうした自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き、鼻で嗅ぐだけの自然では十分ではない」

ここで語られているのは「身体で把握する自然」「身体で書く俳句」というべきもの。それを具体化したのが「人体冷えて」の句でしょう。

東北の地に立ち、寒さを感じたその時、ポケットに突っ込んでいた手で自分の顔に触れてみる。その頬の冷たさ。目の前には、冷え冷えとして、しかし、生命の確かな息吹を感じさせる、白い花盛り。そのもとにある人々の体の冷えさえも、自分の体感のうちにリアルなものとして感じ取れる—自分の体で感じた感覚が、ある不思議な力学で自分の外に拡張し、大きな世界と共鳴して、また自分の身体に戻ってくるような、主観/客観の対立的な枠組みを越えた、大きな交響を感じさせる句であり、「人体」という即物的な把握が逆に効果的に働いているのではないでしょうか。

実は、こうして兜太の一句を読む過程で述べたことで、先ほど紹介した市川浩氏の「精神としての身体」に記された「身体観」の骨格もまたほぼ言い尽くされます。その上で、俳人の立場にある自分には、「俳句的身体」の存在を直感するということがあります。

それがどういう身体であるのか、は俳句と言う文芸の持つ形式的特徴とされる「定型」「切れ」「季語」が持つ身体的な性格を明らかにすることで、説明できると考えます。

今回は時間が限られることもあり、身体との関係が一番鮮明な「定型」を巡る考察が中心となりますが、その間々で「季語」「切れ」の持つ意味合いにも言及するつもりです。

Ⅱ 俳句の身体性

1 定型

①最短定型

俳句は「世界最短の定型詩形」と言われます。繰り返し創作される枠組みとしては、最小の情報量が前提されている、ということです。これは、具体的には五七五音という形を基準とすることにより、発語の在りようを定める点で、身体に直結する規定といえます。

ところで、数学では、五と七はそれぞれ、一と自ら以外の数では割り切れない素数です。実は五七五の合計十七、これに七七を加えた短歌の三十一も、それぞれ素数になります。

数学者にとって、素数論というのは特別な魅力を感じさせる分野だそうです。そこには「分解されることを拒み、常に自分自身であり続け、美しさと引き換えに孤独を背負った者。それが素数だ」(「博士の愛した数式」小川洋子著)という美意識が働いています。最小限の情報によって、これ以上割り切れず、他の要素に還元できない唯一の世界を打ち建てようとする俳句が、素数で構成されることには深い意味がありそうです。

それは、分析的な理解(経験的に既知の要素に分け、それを論理的に再構築する作業によって成立する「分かる」こと)を超えたこところに俳句が立ち上がる特質を示唆しています。そして、俳句には「切れ」が必要、とされることの一つの意味だとも思われます。

顔じゅうを蒲公英にして笑うなり   橋閒石

例えば、このような句には、最短定型のうちに、分析的な知を超えた世界が一気に屹立するダイナミズムが存在するのではないでしょうか。

②俳句と記憶

五七五という数から連想されるものに、心理学でいう「マジカルナンバー」があります。人間の記憶の構造は、大きく感覚記憶、短期記憶(STM)、長期記憶(LTM)の3種に分類されるそうです。このうち、「短期記憶」は約20秒間保持され、意識に上る以前の感覚器官に保存されると考えられます。人間が一度聞いただけで直後に内容を再生するような場合、個人差はありますが、7±2個の記憶容量しかない。この数字がマジカルナンバー。7個というのは意味のある「かたまり」の数量のことで、数字でも人名でもその程度しか覚えられない、という意味です。

一方、「長期記憶」は忘却しない限り、死ぬまで保存される。短期記憶から長期記憶にコンテンツを移すためには、精緻化リハーサル(具体的には想起の反復)が必要とされます。また、忘却の原因については減衰説と干渉説、検索失敗説などが唱えられています。

記憶と言うのは、単純な心身二元論からすれば、心の一部と考えられやすい。一方で、ベルクソンの言を待つまでもなく、その能力は加齢による身体の衰えとともに目だって減じます。一方で、記憶の原型としての原始的な学習能力(「精神」p235)はみみず、蝸牛にも存在します。

かたつむりつるめば肉の食ひ入るや   永田耕衣

神経系の構造が単純で、脳髄という器官を持たない生物であっても、記憶の萌芽が存在するのです。人間でも「体で憶える」という表現がある通り、記憶は身体性に大きく踏み込んだ働き、というより、心身が明確に分離できない事実を示す証拠でしょう。

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン   加藤郁乎

俳句各部の音数はマジカルナンバーに収まっているため、この句のようにほとんど意味不明な語の羅列でも、短期記憶にとどまる最低条件を備えます。それにより、長期記憶に移行され、句がその人間の心の一部に座を占める可能性が生まれる。「精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前」という前提に立ち返れば、ここに俳句は身体化します。

以前、当俳句樹の「海程ディープ/兜太インパクト」の欄に記しましたが、

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

という句をめぐって、私の内で起こったのは多分、そのような事態だったのです。

この観点からすると、俳句という最短定型を最大の特徴とする詩形は、あらゆる文芸のうち、ありのままの形で記憶に刻み込まれ、つまりは身体化し、おりに触れて想起される可能性が最も高い形式といえます。その点こそ、俳句の最大の存在意義(レゾンデートル)、と考えます。

一句は発表されると、作者の手を離れ、読み手の記憶にとどまるか、否かの関門に至る。そこを無事通過し、読者の心に生き残った俳句は、その人生のさまざまな局面で記憶に蘇り、人はそこから生きる糧を汲み取ることも、生き方の指針とすることさえできる。それが俳句の持つ本質的な力です。それゆえ、俳句には身体化され、「記憶」にとどまるために有利な戦略が数多く仕組まれています。

③俳句定型とリズム

五七五という定型は単にその短さというだけでなく、日本語を発語する際の身体的リズムが、その語や概念を記憶に残し、定着させるのに極めて有利に働きます。

端的な例としては、受験のときに誰もが世話になる年代記憶術が挙げられるでしょう。

蒸し米(645年)で祝え大化の改新を

鳴くよ(794年)鶯平安遷都

これらが五七五や七七というリズムを持っていなければ、記憶への定着度は減殺されるに違いありません。言葉の持つリズムが身体的なリズムと同調・共振することが、その言葉を記憶し、身体化することと深くかかわっている可能性がうかがわれます。

こうした特性ゆえ、定型は標語や商品名、作品のタイトルなどに頻繁に利用されます。

欲しがりません!勝つまでは(七・五)

新世紀エヴァンゲリオン(五・七)

−などなど。

ところで、三三七拍子と言われるものがあります。これは何拍子でしょうか?西洋音楽的には4分の4拍子です。手を打つのは3回3回7回ですが、間に休符が入るためです。

これにならえば、俳句の五七五も八分音符を基礎単位にした4分の4(8分の8)拍子に載せることが自然です。

広島や卵食ふ時口ひらく   西東三鬼

4♪♪♪♪♪чζ|ч♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪чζ|  

4ひろしまや  | たまごくうとき|くちひらく  |

(ч:八分休符 ζ;四分休符)

いわゆる8ビートです。ロック音楽の隆盛で分かるように、人間の生理に非常にマッチし、野生に根ざした生命力とのつながりを感じさせるリズムです(この点の、詳細な分析は前川剛氏の「俳句定型8ビート論」〈みくに書房、1992年〉に詳しい)。

五七五定型と8ビートとの相性の良さを示す具体例として、現在TBS系で放映中のTVアニメ作品「それでも町は廻っている」エンディングテーマ曲「メイズ参上!」を挙げましょう。五七五七七形式の歌詞に短歌朗誦風のメロディをつけ、ロックビートに乗せてノリノリで歌い上げています。

鼓動、呼吸、2足による歩行が同時並行的に展開する人間にとって、2の階乗によって得られる8をベースにしたビートは、生理的に適合しやすいのでしょう。俳人であれば、誰しも実感することですが、作句上、歩くことは非常に大きな意味があります。

「吟行」というものがありますが、個人的に言えば、親切に車で次々に名所案内などしてもらうと、あまり句はできません。歩くことによって、その足運びや息遣いを通して、身体に8ビートを励起し、これに周りの光景をも同調・共振させていくことが、おそらく必要です。芭蕉が旅、それも徒歩にこだわった大きな理由もそこにあるはずです。

半面、俳句は短い分、身体が弱り、生命力が衰えていく過程で、歩行が困難になっても、死の直前まで詠み続けることが出来ます。むしろ、死に至る過程をリアルかつ冷酷な視点から書き留めることさえできる。その場合、生命の炎が衰微していくのに応じ、詠まれる句がしばしば五七五にきれいに収まりすぎて、根底にある8ビート的な生命力の発現が薄れていく感さえあります。

しかし、それこそ、死を目の当たりにした瞬間、再び五七五から飛び出し、例えば、上句に三連符の連続を思わせる6音という8ビート的なリズムが突如、出現することがあります。あたかも命の焔(ほむら)の最期の輝きのように

旅にやんで夢は枯野をかけ廻る   芭蕉

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな   子規

2 切れ

俳句は、基本的に明治以降使われるようになった言葉で、芭蕉の時代は発句と呼んでいました。五七五と詠むと、これに七七と付け、さらにこれに五七五を付ける連句と呼ばれる文芸形式の出発が発句。これが独立して俳句となったわけです。

連句は複数の俳人が場をひとつにし、心身の同調・共振を獲得することで産み出される即興演奏(インプロヴィゼーション)の世界です。ただ、同調という以上、一定の決め事がなければ、即興は成り立たない。そのひとつが定型ですが、底流に8ビートのリズムが存在することで、参加者の身体的な同調が容易で、均質・均等に分割が可能な時空としての〈座〉が与えられます。

その上で創作される「五七五」は均質に分割されることに対し、むしろ拒絶的な性格を持ちます。このように「割り切れる」ことと「割り切れない」ことが一句の内で統一され、せめぎ合うのが五七調の特色です。それはリズム的な観点からすると、五七五音が「休符=発語の空白」で穴埋めされることで、8ビート上にきれいにのることを意味します。その際に生じるポリ(複)リズム的なグルーヴ感が魅力ということでもあるでしょう。ここで、大きな働きをする「休符」こそ、俳句における「切れ」のひとつの在りようです。

俳句をリズムで捉えた場合、五七五という「図」が8ビートを「地(背景)」に成立していると考えてよい。この図/地は視点を変えることで転換が可能です。ちょうど、壺のシルエットを描いたように見える図が、その部分を背景と見ると、向かい合う二人の横顔に見えてくる騙し絵のようなもの。それゆえ、五七五の根底に8ビートのリズムを持つ俳句では、「字余り」はある意味で必然です。

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり   金子兜太

八八七の字余りで、季語もありません。ただ、定型との関係で言えば、ここでは、俳句のリズムの地と図が入れ替わり、8ビート的な生の肉体の躍動が前面に打ち出されている。描かれるモチーフに即したリズム感が意識的に選び取られている、というべきでしょう。

ここでは、「切れ」の本質論に深く立ち入る余裕はありません。ただ、一面から言うと、五七五と8ビートという、本来、相矛盾するリズム=身体性を一句のうちに統合するのが俳句形式であり、これを支える存在として「切れ」がある。「切れ」はそれ自体「空」ですが、それでいて、実体的な意味を持ちます。余白や間の感覚を重視する東洋的な芸術観を受け継ぎ、見事に体現しているわけです。

3 季語

季語は、日本人がその歴史の中で磨き上げてきた美意識を季節のめぐりの内に現われる事物に託し結晶させたものです。一つの季語の内には、先人たちがそれについて詠んだ数々の歌や句、詩文が文字通り染み込んでおり、日本文化の内に育った者にとって共通の文化的な基盤を形成しています。それゆえ、句の中の季語を挟んで向き合ったとき、作者と読者の間には同調・共振関係が容易に形成されます。日本人が手紙のやり取りをする際、時候の挨拶を記しますが、そこには季語が含まれます。これも、文を挟んだ二人の間を同様の同調・共振の感覚で満たそうという趣旨からでしょう。

一方、「季語」を機能面から捉えた場合、俳句のみならず、短歌の世界でも、作品を記録、編集する際のインデックス(検索語)の役割を果たしてきました。それぞれの句は、季語により、季節の循環的な時系列に沿って整理される。これは長期記憶におさめられた俳句を検索する際に非常に便利です。記憶が劣化する理由の一つに「検索不能説」がありますが、その対抗策にもなるでしょう。

櫛の歯をこぼれてかなし木の葉髪   高浜虚子

「木の葉髪」という季語には、一年における落ち葉の季節と、人生の秋というべき年齢を迎えたことの感慨とが重なり合う、絶妙な味わいがあります。この作は名句と呼ぶには、日本人が共有する定型的な情緒が前面に出すぎているかもしれません。ただ、一読すれば、その後、年齢を重ね、深まる秋のうちに、ふと櫛を使う折り、鮮烈な実感を伴って思い出さずにはおられない一句でしょう。


https://haiku-tree.blogspot.com/2010/12/blog-post.html 【■「俳句的身体」をめぐって(下)】より

・・・柳生正名

Ⅲ 同調する身体と俳句

1 拡張された身体

市川氏は「精神」(p78〜83)で、「はたらきとしての身体のひろがりというべきもの」が、解剖学的な体表を超え、広がると説きます。「熟練した外科医にとって、ゾンデは外的な道具であるのにとどまらず、肉体化された二次的な指先となる」。メスや内視鏡を自身の指先同様に操作する“ゴッドハンド”の持ち主が、TV番組などでよく紹介されます。

ピサの斜塔も例に挙げます。斜塔を遠望して、人は不思議な感銘を受ける。その時、「はらたきとしての身体は、見るとき、むこうの斜塔までのびている。(中略)われわれは身体のうちに斜塔とともに傾く力と、それに応答して復元しようとする力との緊張を感じる。意識下でおこなわれるわれわれの身体への斜塔の呼びかけと、われわれの身体の応答が産み出す緊張が、身体を魔術にかけ、われわれを魅するのである」(「精神」p81)。斜塔と自己の身体が同調・共振することが、光景に圧倒的なリアリティと不思議な魅力を醸し出すというのです。

冒頭、「自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる」という金子兜太の言葉を紹介しました。ここで言う「肉体」は、拡張され、自然と同調・共振する身体のことではないかと思います。

拡張される身体があるからこそ、直接触れえない事物についても、人はリアルな実在感を持つことができます。見える物は、経験から学習することにより、どの程度の重さで、どんな手触りで、などと推測できますが、ヴァーチャルな像とは異なる実在感を得るためには、拡張した身体を駆使して、同調・共振の感覚を得ることが必要だ、と言うのです。

実際、ある種の精神疾患(統合失調症)では、こうした外部世界のリアリティが失われることがある、とされます。その場合、「世界は深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面となり、私は世界のいかなる存在とも共感することができなくなる」(「精神」183頁)。

一方、市川氏は「身体のひろがり」を主に空間的な次元で考えています。ただ、記憶という問題を介在させたとき、身体は時間軸に沿ってもまた拡張・延長されうる、と考えたくなります。俳句に季語が登場する場合、それは、第一義的には今、作者の前に現存するものとして表現されます。しかし、先に述べたように、季語には歴史的に沈殿したあまたの日本人の季節をめぐる思いと記憶がこめられている。そうした集団的かつ歴史的な記憶をたどり、共有することで、過去との同調・共振を果たしたとき、身体は時間軸に沿って拡張・延長しているのではないでしょうか。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村

洛南・鳥羽離宮跡、野分の吹き荒れるさまを眼前にした蕪村。その瞬間、彼の俳句的身体は時間を遡り、同じ地を北面の武士が闊歩した西行の時代まで延長される—そんな体験を詠んだ句と言うべきではないでしょうか。過去想望の句であることは間違いありませんが、描かれた景は、「よそよそしく冷たい芝居の書割のような単なる表面」ではなく、身体的生々しさをたたえていると思います。

2 身体的同調の起源

身体的な同調・共振の起源を考える際、市川氏は、1匹、1羽の動きにつられて、いっせいに方向転換する魚群や、飛び立つ鳥たち、1人が泣くと一斉にもらい泣きする産院の赤ん坊を例に「他者理解のもっとも低次の相に、こうした『共生』ともいうべき原始的な過程がはたらいている」と考えています。

二匹の子羊はともに走り、飛び跳ね、お互いの行動を相互模擬しあう。霊長類チンパンジーでは、箱を積み重ねて天井から吊るされたえさをとる実験で、未経験なチンパンジーが不器用に箱を積み重ねているのを見た経験豊かなチンパンジーが、自分が積み重ねているわけではないのに、箱が崩れそうになると、思わず手を差しのべたり、手足をうごめかす。人間もボクシングや相撲を見ていると、自分が戦ってでもいるように、筋肉に力が入り、熱中してくると選手の動作をなぞったり、先取りして見せたりする(「精神」275頁)。

もともと魚や鳥が他の個体の動きと同調する性質を持つのは、危機的状況から生き延びるため。人類も、進化の過程で狩猟などの際、他に同調した行動を取ることは生き延びるために必須だったはずです。

脳医学の世界では現在、「ミラーニューロン」の存在が唱えられています。霊長類など高等動物の脳内で、自ら行動する状態と他の個体が行動する様子を見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞であり、他者の行動を見たとき、まるで自分が同じ行動を取っているかの感覚を産み出します。これによって、高等生物における身体的な同調作用の高度な発達が科学的に証拠付けられるとすれば、注目に値します。

3 同調による理解

市川氏は言います—「感応的同調は、幼児にみられるように、初歩的には他者の行動をほとんどそのままなぞるところまでゆくが、やがて素描的な身ぶりや表情による感応、さらには外にはあらわれない筋肉的な次元での下書きに集約され、もっと進んだ段階では、単なるイメージあるいは観念によって、可能的行動を先取りし、下書きする観念的感応へと内面化される」(「精神」277頁)。人間も赤ん坊の場合、目の前の人が笑うと笑うなど同調的行動を取りますが、成長するに従い、同調を直接、行為で示すことは少なくなる。ただ、その場合でも、外面からはうかがえない筋肉の微細な緊張や、さらには脳内でのイメージ上のシミュレーションなど、より抽象化した方法で、他者と同調し、共振する身体を実感するというのです。

「われわれはこうした感応動作や、その筋肉的な素描、さらには単なるイメージによる観念的下書きによって、他者の行動や表現の意味を、また他者の感覚や情動や精神状態さえも、いわば身体的に感得し、内面化する」。

宮崎アニメ初期の代表作に「ルパン三世 カリオストロの城」という作品があります。

その中で、ルパンは高い塔の内に囚われたクラリス姫を救おうと奮闘します。観客は、彼が屋根の端にかろうじてぶら下がり、懸垂して這い上がるシーンを見るとき、自分自身の肩や腕に無意識に力が入る感覚を容易に実感できます。二次元の、デフォルメされ、記号化された絵でしかないものに、私たちは身体的な同調・共振を起こし、感移入し、自分があたかもルパンであるような、感覚さえ持ちます。宮崎駿監督はそのような事態が生じるように、計算し尽くした演出を施している、と言っても良い。

現実の光景→実写映画→アニメ→漫画と進むに従い、こうした同調を産み出す原因となる情報は、より抽象的で記号化されたものとなります。漢字が象形文字であることを考えると、媒体が言語にまで抽象化されても、同様のことが起こりえる。言葉によるコミュニケーションが、人間という種に可能である根底には、身体的な同調・共振の能力を高めていった結果と理解できるでしょう。

身体の「他の構造への〈同調〉ないし〈共鳴〉が、他者あるいは物の内面的理解を可能にし、世界をその表面にそってでなく、その深さにそって理解させる」(183頁)。近代西洋哲学では、デカルトの唱えた「われ思う、ゆえに我あり」という命題を土台に、唯一の確かな実在である「コギト考えるわれ」=主観が、どのようにして「外部の世界」や「自分以外のわれ(他者)の内面」=客観的存在をリアルに認識し、理解できるのかを常に議論してきました。その回答として、市川氏は(そして、おそらくは金子兜太も)拡張された身体の同調・共振という作用によって、それが可能になる、と考えるのです。

それは、「頭で分かる」ことと、身体的な同調・共振を伴って「体で分かる」ことの間には本質的な違いがあるということを意味します。単に頭だけで理解された世界は、おそらく「深さを持たない単なる延長、よそよそしく冷たい芝居の書割」にとどまるでしょう。世界を深さというリアリティを持った存在とするには、体で分かることが必要なのです。

仏教で言う「悟り」が、単なる知識の獲得によってでなく、身体的な「行」を通じ、達成されるのは、そのためです。そして、その悟りには「山川草木悉皆成仏」、すなわち、存在するものすべては仏、というアニミズム的な考え方が含まれます。このように、ありとあらゆる存在に分け隔てない生命の息づき、そして自己との一体性を実感するアニミスティックな感覚は、自己と他との身体的同調・共振によって裏付けられるものでしょう。

4 身体的同調と文学

俳人という立場から、市川氏の言説を巡っていく時、もっとも印象的なのは、身体の同調・共振によって、文芸の持つ本質的な力を説明している点です。「文学は、言語がイメージを喚起する力とわれわれの(身体に基底を持つ)感応的同調の能力を最大限に刺激して、(読者に)一つの架空の人生を(自分自身のものとして)生きさせようとする試み」(「精神」278頁)。先に述べた宮崎アニメが、娯楽作としてだけでなく、今や芸術作品としての評価も得ていることと考え合わせれば、理解しやすいでしょう。

文学のうちでも、小説は必要に応じて叙述の解像度を上げる(記述を詳細にしていく)ことが可能です。それによって、読者の感応的同調をコントロールし、自らと性格が異なり、現実なら嫌悪感を抱くだろう人物像や、荒唐無稽な空想世界にさえ、やすやすと感情移入させることができる。

一方、俳句は、叙述に費やせる情報量は最小限で、小説のような戦略は採用できません。にもかかわらず、読者に世界に対するアニミスティックとも言える感応的な同調を引き起こすことができるのはなぜか。

5 俳句的身体

ひとつは、「定型」と「切れ」の織り成すリズム感や音韻性、また「季語」の持つ体感に根ざした文化的な共通基盤としての性格が、詠み手と読み手の間、または俳句そのもののと読者の間に、身体的な同調・共振をもたらす大きな力となっているでしょう。

獅子舞の歯のかつかつとせり上がる 藺草慶子

読者は、8ビートに裏付けられた五七五のリズムが持つ躍動感に支えられ、身体的に活性化した状態で「かつかつ」と発語する。もしくは、黙読する場合でもヴァーチャル仮想的に発声に伴う筋肉の動きをシミュレート模倣して、舞獅子の口の動きをそのままなぞり、獅子頭と身体の上で同調する。だから、言葉で描かれた獅子舞の生き生きとした姿が眼に見え、歯をかみ合わす音が実際に聞こえるかの感覚に襲われる。獅子頭の中に人間の息遣いをも実感するのです。日本語に多い擬音・擬態語は、そうした効果を持ちます。もし、「かちかち」ならば、発語の際、実際に歯は噛みあわない。

そこに、この句において「かつかつ」でなければならない必然性があります。

次は、情報の絞り込みです。一点突破・全面波及、もしくはクローズアップ効果といったらよいでしょうか。

ひっぱれる糸まっすぐや兜虫 高野素十

描写を一直線に伸びた糸に集中し、瞬間を鋭く切り取ることで、読み手は自分の心身に緊張感を呼び起こされ、同調してしまう。糸で結ばれた重い荷を懸命に引く甲虫と身体を共有し、自らがなりきったアニミスティックな感覚を体感することになります。

三つ目に、俳句の持つ、記憶の内にそのままの形で棲み付く特性にも秘密があります。

たとえ、句を読んだ最初の瞬間には、書かれた内容への同調=理解が不能でも、記憶の中にとどまれば、時を隔て、例えば、それと似た体験をする、または、その句の意味を理解するのに不可欠な知識を偶然得る機会が巡ってきた時に、突如として同調現象が起こる可能性があります。

人生というジグソーパズルを組み上げていく中で、ある経験をした瞬間、その要となるパーツが埋まり、描かれた全体像が一気に見える体験をすることがある。そういう時に、日本人は「目から鱗が落ちる」「腹にすとんと落ちる」などと、身体に言寄せた表現を用いてきました。ことが「本当に分かる」際に感じる身体に根ざした同調・共振の実感がそこには籠められています。

俳句は、そのように記憶にとどまり、身体化されることで、読み手の成長に併せ、より深い同調・共振をその身心に生じさせる性格を持つ文芸なのです。

とすれば、自分の周りに広がる世界や周囲にいる人々に対し、高度な同調・共振能力を備えた身体を持つことが、俳人たる者に求められる資質、ということになるでしょう。その上で、「定型」「季語」「切れ」という独特な言語技術を駆使しつつ、自らの身体が経験した同調・共振の感覚に読者の身体をさらに同調・共振させることができたとき、名句というものが生まれるでしょう。それを可能とする「俳句的身体」を自らのものとした存在のみが、俳人を名乗る本当の資格を持つ、というべきかもしれません。

6 「分からない文芸」としての俳句

詠み手の意図を正確に読者に伝えるという意味では、俳句という形式は極めて不完全です。むしろ、俳句が伝える主なものは、ある意味で曖昧な身体的な同調・共振の感覚だと言って良いかもしれません。

そもそも、散文と同じ意味で解釈しようとした場合、俳句のほとんどは情報量が不足しており、解釈不能です。むしろ「分からない」のが当然の姿、と言うべきでしょう。

それでも、身体的な同調・共振の感覚を通じて、俳句は読み手の記憶にとどまる場合がある。その際には、もはや、句から何を汲み取るかは作者の意図とは切り離され、ある意味、句は読み手自身のものとなってしまう。

この段階まで来ると、句がいったん忘れられてしまっても、季語を持てば、季節のめぐりに応じて、思い出される機会がめぐって来る。そういったプロセスを経て、読み手が人生を重ねるに従い、その句に対する理解も、そこから得られる身体的な同調・共振の質も、より深いものとなっていくに違いありません。

昨今、元気とされる日本映画の世界で「分かりやすい感動」がキーワードとなっているそうです。公式化されたテクニックを駆使し、時系列に沿った筋運びゆえに、一篇の内ですべてが「割り切れ」、後を引かない作品が好まれる。ある意味では、消費の対象として上出来です。消費する側は、すぐ結果が出ることを望みます。流行のダイエット法のように。

俳句についても、句会という制度と結び付いて、目にした瞬間に分かる作こそ伝達性があり、好ましいとされる風潮があることは事実です。ただ、ここまで「俳句的身体」という視点から考察してきた道筋を振り返れば、そうした風潮が俳句の本質をむしろ否定しかねない点に気付くでしょう。何事につけ、本物は飲んで一日ですべて解決、というものではない。数年、数十年たって、あのときに飲んだことが大きな意味を持っていた、と実感させるのが、本物の本物たる所以ではないでしょうか?

地に殉教そら宙に毛深き蝶のかお貌 柳生正名

蘆火ひとつ近江はひかがみ膝裏の瞑さ

本日の話も、これらの句も本物と言うほどの自信は持ち合わせませんが、ご清聴いただいた皆様の記憶に少しでもとどまり、いつか、皆様の内に「ああ、あれはそういうことだったのか」という思いを抱かれる方が、ひとりでも出て下されば、語る者としては望外の喜びです。