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入定の聖地「高野山」

2024.11.30 08:39

https://ameblo.jp/nanzanbou/entry-12589431678.html 【弘法大師の誓い】より

本日は気温3℃の中で旧正御影供が執り行われました。例年に比べると参拝者は極めて少なかったですが、寒い中のお参りありがとうございました。

さて、今年は旧正御影供(旧暦の3月21日)がイエス・キリストの復活祭であるイースターと1日違いになりました。

‬どちらとも毎年の暦の変動によって日は一定していません。ちなみに来年は5月2日が旧正御影供にあたりますので、どうか無事に行えますよう願うばかりです。

写真はいつも撮っていただくカメラマンの方からいただきました。

キリストの「復活」が少し気になったので、大学院時代の友人ペテロ神父の著書『イエスと空海 不二の世界』を紐解くと、このように述べていました。

キリスト者もイエスは死んでいないと信じています。イエスは復活され、神と共に聖霊を通して人々を救い続けています(カトリック神学の立場)。‪つまり、宗教学的に言えば、「留身信仰(空海の入定)」と「復活信仰」は同じような宗教現象で、本質的に両者とも死を超えた隣人愛のしるしなのです。

このように両者共に、生物学的な死を超越した宗教的信仰によって今なお、生きていらっしゃいます。

隣人愛を仏教では「慈悲」に値しますが、大師の入定はいかなる「慈悲」によって衆生済度(すべての人々を救う)されているのでしょうか。

そのヒントは奥之院の燈篭堂正面の両柱に架けられている聯(れん)に示されています。

昼夜に万民を愍んで普賢の悲願に住す   肉身に三昧を證して慈氏の下生を待つ

【現代語訳】

私(空海)はいかなる時も、あらゆる人々を哀れみ、普賢菩薩の慈悲による誓いを胸に抱き続ける。この身このままに心を一処に定めて、弥勒菩薩が遥か未来にやって来られる(下生)まで待ち続けよう。

この文は弘法大師号(諡号)が下賜された時、帝の勅書の返答として伝えられている一部です。大師信仰に伝わるものなので、その信憑性は別として信仰上極めて重要なものです。

この中、昼夜に万民を愍んで普賢の悲願に住すとありますが、大師の誓いは普賢の悲願を基壇とすることがこの一文から分かります。

では、普賢の悲願とはいったい何でしょう?

簡単にいうと、普賢菩薩の実践行=慈悲行(普賢行願という。あまねくすぐれた誓いのこと)であり、さらに踏み込むと智慧を代表する文殊菩薩が誓願した慈悲の行が普賢行とよばれるようになり、それを実践する代表者が普賢菩薩なのです。

つまり、大乗仏教の菩薩を代表する菩薩の優れた誓いが、すなわち弘法大師の誓いなのです。

普賢行願は大乗経典の『華厳経』「入法界品」が根拠となり、大師も華厳の教えを重んじています。例えば、諸宗の教えを比較した大師の主著『十住心論』には密教の次に華厳を配当しています。

さて、現在、真言の僧が日々修法するどの次第(拝む仏様によって異なる)にも、必ず「普賢行願皆令満足の為」という文言が冒頭に出てきます。

続いて唱える五悔(ごかい)という懺悔の法も普賢行願(普賢十願)を元としてるように、大師の教え、つまり真言密教がいかにそれを大事にしているかが行法次第(拝む実践の方法)から理解できます。

事相に関することなので、一般の方には分かりにくく申し訳ありません。

最後に、大師の誓願の文言をご紹介します。

奥之院へ向かう中の橋入口に一対の大きな石柱に彫られているので、次回ご覧になってください。

虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなん

この世界とそこに人々がいる限り、またすべての人々がさとりへ赴くことができれば、私の願いもようやく終えるだろう。

※過去写真。高野山の桜はもう少し先になります。

世界中の人々が再び平安に暮らせますように。

南無大師遍照金剛

南無当年行疫流行神


https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1752 【空海はなぜ今も死なないのか 弘法大師空海の入定伝説と神格化】より

真言密教の聖地高野山には今も開祖、弘法大師空海が入定、つまり生きたまま仏となり禅定(瞑想)していると伝わっている。この「事実」は21世紀の現代でも変わらない。空海はなぜ今も「死なない」のか。

空海はなぜ今も死なないのか 弘法大師空海の入定伝説と神格化

高野山 奥の院

空海ゆかりの霊場、四国八十八ヶ所を巡礼するいわゆる「お遍路」では巡礼者であるお遍路さんの傘などに「同行二人」との言葉が縫い付けてある。空海がいつも共にあるという意味で、これは空海がこの世にいるという伝説が背景にあると思われる。高野山の奥の院にある御廟には、空海が今も生きて禅定を行なっていると伝わっている。高野山では毎朝2度、維那と呼ばれる役職の僧らが空海に食事を届けるのが日課で「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる。また毎年の空海入定の日には衣類までも届けられているという。

自身の入定を確信した空海は都を離れ、高野山を終の棲家とした。空海の遺言を集めたいわゆる「御遺告」によると、死後は兜率天に往生して弥勒菩薩のもとに仕え、56億7000万年後の弥勒降臨の際には従っていると告げたとされる。つまり空海は兜率天にいるはずだが、後年、空海は御廟に入り入定したとされる信仰が生まれ、現在空海は高野山で弥勒降臨を待ち禅定に入っていると解釈された。

空海の様々な「死後」

空海は生きている。21世紀の現代でも高野山ではそういうことになっている。ミイラのようなものになっているのではないかとも想像されるが、それではいわゆる「即身仏」になってしまう。良く混同されるが真言密教では最高奥義段階として現世で悟りを得て仏になる「即身成仏」があり、入定した空海はまさにその段階に達したとされている。真言宗の観賢が「弘法大師」の謚号を与えた醍醐天皇の勅旨をもって奥の院に赴くと、禅定をしている空海の顔色は変わらず髪も伸びており、観賢は髪や髭を剃り法衣を着替えさせたという。ところが初期の文献には空海が「即身仏」のようなミイラ状態であったとの記述もあるというから話は複雑になる。空海といえど人間である。本来は少なくともその身体のは荼毘に付されて墓に葬られ一応落着ということになるだろう。「続日本後紀」には「紀伊国の禅居に終わる」と記されているだけである。事実はそういうところかもしれない。だが空海は一筋縄ではいかない人物だ。その人生には神秘的な逸話が数多くある。

神格化

空海は日本の仏僧の中では最も神格化された存在といえる。弘法大師伝説は全国各地に根づいていて、すべてを把握しきれないほどだ。空海は北海道から沖縄で、泉を湧かせ、妖怪を退治し、一夜で寺を建てるなどの大活躍ぶりである。日蓮も自身の名が宗派名になった唯一の僧で神格化もされている。しかし各地に残る弘法大師伝説の比ではないといえる。庶民にとっては真言宗・真言密教の祖というより、困った時に助けに来てくれるスーパーマンだったのだ。

その真言宗では「南無遍照金剛」と唱える。南無とは「帰依する、おまかせする」、「遍照金剛」は空海が唐で密教を修めた時に師・恵果から授かった名。 つまり空海に帰依するという意味である。「南無阿弥陀仏」なら阿弥陀仏に、「南無妙法蓮華経」なら妙法蓮華経(法華経)に帰依するわけだが、真言宗では実在した人間である空海が信仰対象になっている。加えると遍照金剛は真言密教の本尊、大日如来の別名でもあり、空海は大日如来と同様に扱われているといえる。庶民にとっても教団にとっても空海は人間を超えた存在である。

そのような空海だから兜率天などという遠い世界にいるわけがないということになる。まして「即身成仏」を説いたのだから、むしろ兜率天という他界よりも現世に留まっている方がふさわしいのかもしれない。

生きている空海

奥の院といい弘法大師伝説といい、いかにも民間信仰という向きがある。空海が大成した本来の真言密教は極めて精緻で複雑な体系を有している仏教哲学である。庶民には到底理解できない、貴族仏教と揶揄されることもあるほどだ。単純にも思える空海の神格化が真言密教の教えとは思えない。しかし難解な密教の教えを説く空海と、「弘法さん」「大師さん」と慕われ、お遍路に同行してくれる空海のどちらがより多くの衆生の心を救っているだろう。大日如来の慈悲の光は世界の隅々まで遍く照らす。空海はいま、ここにいる。


https://www.sankei.com/article/20150906-PUYX3SCIS5MBVG2YS45XWCHE7M/ 【入定の聖地「高野山」56億7千万年後にこの世に現れるとの遺告を残し…】より

私は空海が入定(にゅうじょう)した高野山の伽藍(がらん)の近くに生まれた。なぜ芸術方面を志したかというと、高野山は1200年という長い時空に培われた密教文化に包まれ、それが自然の風景や生活の中にとけ込んでいる。おのずから伽藍にある堂塔などの雰囲気が私をとりこにしたのであろう。

大阪芸大の学生時代から高野山を撮影することに専念し、高野山から大阪芸大まで通学をしながら写真を通して高野山の美を発見する日々であった。約10年して豪華作品集として刊行し、高野山を開山した空海について考えるようになった。そして空海の軌跡を撮影することで、より高野山を深く知ることになった。

高野山と空海の最初の出会いは、若き空海が吉野や葛城、大峰の山々で行をしていたときであった。そのとき、空海は次のような言葉を残した。

「空海少年の日、好んで山水を渉覧(しょうらん)す、吉野より南に行く事一日、更に西に向って去ること両日程にして、平原の幽地有り、名づけて高野と曰(い)う」(紀伊国伊都郡高野の峯において入定の処を請け乞うの表)

これを証明するごとく高野山では一番高いといわれる弁天岳(通称-岳弁)から谷あいの盆地を縦走するように山水が集まって川になり、ついには有田川に注ぎこむのである。大雨が降ると石畳で敷き詰められた奥の院参道は川となる。空海は高野山で水がこんこんと湧き出る盆地を眼前にしたのであろう。生き物が住める世界を感じたとある。

空海の住む京、高雄・神護寺から比叡山の最澄に宛てた書簡が送られた後に、空海は紀伊の高野山を賜(たまわ)りたいと嵯峨天皇に願い、天皇はそれを了承した。京を離れ、比叡山からも遠ざかろうとした大師を思った配慮であろう。

弘仁8(817)年、空海は弟子たちを高野山に派遣して僧坊の建設に当たらせ、翌年の11月16日、冬期の高野山に登った。大自然の奥に大日如来の存在を見る密教思想に基づき、一段と思想的な深みを加えたのである。空海は56億7千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)とともに人々を救済するためにこの世に現れると遺告を残し、承和2(835)年3月21日に結跏趺坐(けっかふざ)して大日如来の定印を結び、静かに入定した。

高野山には、空海が密教寺院としての構成を整えた壇上伽藍と空海が入定して時空を超えて今も衆生のためにおられるという、2つの考えが存在している。

今年は空海が高野山を開山してから1200年の節目で記念大法会が開催され、私は『空海千二百年の輝き』(小学館)という30年耐性の超豪華版を刊行した。1200年間秘密のうちに伝えられてきた仏像や自然を後世に伝えるべく刊行に至った。

永坂嘉光

ながさか・よしみつ 昭和23年、和歌山県高野町生まれ。大阪芸術大学芸術学部卒業後、高野山をライフワークに撮影を始めた。その後、「宗教と文化」をテーマに国内各地やアジア各国でも撮影。写真集に「高野山」「弘法大師の足跡」「空海 千二百年の輝き」などがある。日本写真協会作家賞、和歌山県文化功労賞など受賞。国内外で個展を開いている。現在、大阪芸術大学教授。