「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 周明との再会も悲劇となる刀伊の入寇
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 周明との再会も悲劇となる刀伊の入寇
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について好き勝手欠かせていただいている。正直な話、ここで周明(松下洸平さん)が再登場するとは全く思っていなかったので、なかなか興味深い話になっている。まひろ(吉高由里子さん)が夫と死別、周明はもともと非本陣でありながら宋に身を寄せていて、その混乱で独身のままという二人が20年ぶりに再開するという。それもお互いが相手に対して行為を持っているという状態でありながら、国と国、政治的な関係で引き裂かれてしまった二人の再開というのは、さまざまな状況があったのではないか。
そのような関係であるから、周明は、当然に「京都の雅な世界」とは切り離された人である。そのような意味で「非日常」の中に身を置いたまひろが、自分にとっての日常の内心を吐露するという場面は、圧巻である。
京都の公家の世界とは全く異なる九州の世界。権力と権威ではなく、武力と権威、そして少し京の都とのつながりということが様々な内容になる。物語がすごいと思ったのは、その複線の作り方であろう。藤原道長(柄本佑さん)と対立した藤原伊周の弟隆家(竜星涼さん)に関しては、史実で刀伊の入寇を追い払ったある意味での英雄として残っているのでここで出てくることは見えていた。目の病で大宰府に良い薬師がいるということで、大宰府に降りてきたが、その大宰府の雰囲気という化、京都の権威に嫌気がさしていた所を、うまく開放されのびのびとしている。現代でいえば、会社などで本社の派閥争いなどで毎日気を病むほどに苦労していた人が、遠い支店に派遣され、支店次長くらいになって、活き活きと働いている。そのまま本社に戻りたくないなどと言っているような感じである。
それに、賢子(南沙良さん)が恋心を抱いた武士である双寿丸(伊藤健太郎さん)などもここにそろっていて、ある意味で「京都の部隊ではあまり活躍できなかった人」がここに集合している感じだ。それも、すべてに佳子がある。藤原隆家には、道長との確執や兄伊周との確執があった。そして周明には越前の時に様々な事件があった、そして双寿丸は、娘との関係があり、そこに恋心と、そしてその恋心が敗れて娘が出仕したという関係がある。いずれもそれらの伏線を回収するかのごとく、舞台を大宰府に変えて出てきたということになるのであろう。
<参考記事>
「光る君へ」周明(松下洸平)、ラスト1分で衝撃展開 まひろ(吉高由里子)への“最後の言葉”にも注目集まる「やっと再会できたのに」「立ち直れない」
12/1(日)モデルプレス
https://news.yahoo.co.jp/articles/048e2c3fb6a128a05b49bbcd8f98861d9a9c7e28
<以上参考記事>
さて、そもそも刀伊の入寇とは何か。
歴史の教科書で有名な山川 日本史小辞典にはこのように書いてある。
1019年(寛仁3)刀伊の賊が50隻余りの船団で,対馬・壱岐・北九州に襲来した事件。大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家の指揮のもと,地元の武士団の奮戦で撃退したが,死者365人,拉致された者1289人という被害がでた。拉致された者のうち300人余りは高麗(こうらい)で保護され,帰国を許されている。事件の顛末は藤原実資の日記「小右記」などにも詳しい。刀伊は朝鮮語の異民族を意味するDoeの音訳といわれるが,当時沿海州地方に住むツングース系民族の女真(じょしん)が朝鮮半島の東海岸を荒らし,南下して北九州地方にまで侵寇したものであろう。
ある意味で小規模な「元寇」とか、海賊をイメージしてくれればよくわかる。当時は当然に資材や食料品などの略奪も行うが、ドラマの中でも見えるように「人」をラクダツして、奴隷として、または子供などは売買の対象としてつれさられる。当然に当時は国際的な人身売買禁止条約のようなものはないので、まさに力づくである。そして、大宰府は中国からのこれらの内容に対処する大和朝廷の出張所であり、そして、一方で警備も行うということになる。
元寇の時と異なるのは、「公家」が中心の政治体制であったことから、守護大名のような人々がいない。ある意味で「自衛組織」の集合体が武士として存在し、そこに大宰府に派遣された武士が強力するという感じであろう。そのような時に刀伊の入寇が起きた。ある意味で、「大宰府」という役所がある場所に、「刀伊」といわれる女真族の略奪者が現れたという事であろう。
さて、史実において紫式部が、太皇太后彰子(見上愛さん)の元を退去してから、どこで亡くなった恩か、どの様にすごしたのか全く分からない。ドラマでは「自分の関係のある人のゆかりの場所を行く」ということになり、そのことから九州を回る旅に出ている。そして刀伊の入港に巻き込まれるというストーリーで、その中で、「自分を再発見する」ということではないか。
大宰府で「太閤様(道長:柄本佑さん)が御病気」という話を隆家に聞き、そして刀伊の入寇に巻き込まれたということが、まひろ本人の心に大きく刺さったに違いない。当然に、周明と再開した時には「このまま九州にいてもよいのではないか」と思っていたのに違いない。しかし、実は九州というのは夫も、兄弟(友人?)も、自分の親しい人を失う場所であったということは、明らかになる。そして刀伊の入寇で周明を失うということになれば、やはり悲しみ後にいることはできないと考えるのではないか。
現代ではそのような激しい心の動きを「パッション」などという単語で表すが、まさに、その心の動きが再度「道長との関係の修復」ということにつながってゆくのではないか。人の心というのは、その様に、「昔に戻りたい」と思いながら「昔を断ち切って新たなところに進まなければならない」というように宿命づけられている。そのようなことをこのドラマは、周明を通して書いているのではないか。そして、道長とまひろの関係を通して、「まひろは自分の関係者の足跡をたどる旅をしているが、道長にとってまひろはどの様な存在であったか」ということが再考させられるのではないか。多様性とかダイバーシティといわれて「自分は」という主語で語られるが、自分が誰かにとっての客体になった時にどのように考えられるかということが、ここで再認識されるようになっている。
ドラマは現代の人へのメッセージという観点から見れば、まさに、「一度は懐かしむ時期があってよいけど、しかし誰かにとって、自分はかけがえのない存在であったことも事実」ということを思い起こさせるドラマ。その壮大な伏線の先には、そのようなメッセージが隠されていたのではないか。