「忠臣蔵の世界」47番目の浪士、寺坂吉右衛門の苦悩
元禄15年(1702)12月15日寅の一点、本所吉良邸に討入り、見事本懐を遂げた赤穂浪士47名は、両国橋東詰南端から隅田川左岸一つ目通りを南下、深川萬年橋から隅田川最後の橋梁永代橋を渡って、築地鉄砲洲浅野家旧上屋敷で亡き殿に報告をしたのは辰の刻(am8:00)頃であった。両国橋から隊列の後方からついて来た公儀徒目付が「申し伝えたき儀がある」と近づいてきた。「昨夜来の仕儀につき、大目付仙石伯耆守様には概略を御聴取なされたいとの趣きである。用に足るも者両3名愛宕下御役宅同道されたい」浪士一同を代表し口上を述べ詮議に応ずる大役には、役目柄吉田忠左衛門と弁舌のたつ冨森助右衛門が選ばれた。愛宕下御役宅とは、江戸城の前にあった「日比谷入り江」という浅瀬を埋め立て、譜代大名などの屋敷地とした「大名小路」と同じく、江戸城への登城が比較的容易なため、愛宕山下の南面に造成された大名・旗本屋敷である。愛宕山下へ出向くのに先立ち、吉田忠左衛門は子飼いの寺坂吉右衛門を呼び「苦労をかけたな さらばじゃ」と伝え、内蔵助の元へ出向く様に伝えた。これが主従の最後の言葉であった。寺坂吉右衛門信行は寛文5年(1665)に生まれ、8歳で吉田家に奉公、3両2分2人扶持の足軽を務めていた。従って浅野家の家来ではない、陪臣、又者であり、武士でもなかった。本来ならば討入りに参加できない理由は充分にある。これを吉右衛門は内蔵助に頼み込み、浪士一党に加わった経緯がる。
旧藩邸の門番小屋に呼ばれた吉右衛門は、内蔵助に「そちはこれより一党を離れ、赤坂南部坂の瑤泉院様に書類書状を届け、昨夜の討ち入りの見たままを伝えてくれ。そののち芸州広島浅野宗家に足を伸ばし、御舎弟大学様に同様の報告をしてくれ」「そのあと頼みにもならぬ浅野家親戚には立ち寄るな。寄れば己たちの保身のため、公儀におもねり訴えお前は殺されるぞ」「それよりゆっくりと討入りに加わった者たちの家族を訪ね、討ち入りの仔細を伝えよ。暮らしの相談にのれ。また、今回討入りに加わわらなかった者たちの暮らし向きにも相談にのれ。その資金は大坂天満宮の天野屋に預けてある」「昨夜の事、後々の人の口などどうでも良いと思っていたが、戦いのすざましさ皆々の決死の働きを見て、未練が生じた。公儀の今の有様では、討ち入りの正確な記録は後には残るまい。公儀に都合よく歪曲されるであろう。事実を正確に世の中に伝えるには、伝令のため屋敷内をあちこちと走り回り、1番この事件をつぶさに目にした喜右衛門そちしかいない。人と人とが命をかけて闘った合戦に、あらぬ噂が流布されるのは絶えられぬ」「頼む吉右衛門、表門裏門のつなぎに何度となく戦場を駆け抜け、昨夜の討ち入りをつぶさに見たお前しかこの役目を果たせるのはいないのだ」周りで吉右衛門の身支度を手伝っていた堀部安兵衛らは内蔵助の言葉に聞き入っていた。内蔵助はさらに言う。「わしはこの討入りに三つの戦を仕掛けた。一つは公儀の権勢、権力を揺るがす企て。ふたつめは播州赤穂5万3千石の小藩が、400万石の公儀に勝つ理財運用の戦い。そして最後に、刃傷事件後何らの裁定もなしに即日切腹を命じた、公儀の仕打ちに対する挑戦である。我々亡きあと、公儀は自分たちの勝手を述べ、自分たちを正当化仕様としてあらゆる手段を使ってくる。それを制するのは、生き証人をこの世に残す他にない」「よいか使い役目は名目だ。1人使いに走った者がいた、それが公儀や世間に伝われば下手な言い逃れはできなくなる、それが目的だ。急ぐな命を惜しめ。生きて天寿を全うせよ。それがお前の役目である。」吉右衛門は内蔵助の言葉に同意しながらも、何故この儀に及んで、わし1人が隊列から離れなければならないのだ。わしは皆と一緒に死にたかった。心の中で葛藤した。しかし、内蔵助のこの言葉によって吹っ切れた。「寺坂吉右衛門、そちの盟約は解かぬ。そちは何年何十年も生き延びようとも、我ら47名のひとりである」吉右衛門は泣きながらも微笑んで、内蔵助の密命に従った。
高輪の大木戸を過ぎれば泉岳寺は目と鼻の距離である。内蔵助ら44人が寺に落ち着き、休息を取って間もない頃、愛宕山下の仙石伯耆守尚久の役宅へ出頭せよとの下命が伝えられた。高輪泉岳寺から三田、赤羽橋を経て増上寺を迂回し、愛宕山下まで疲労困憊を極めた。一同の取り調べは亥の刻(pm9:00)頃から始まり、内蔵助以下の姓名、旧職、旧録、年齢が読み上げられ、各々が返答をしていった。最後の47番目の浪士、寺坂吉右衛門の番になって彼の返答がない。仲間の間からは「道に迷ったのか」「それとも逐電したのか」と色々な臆測がとんだ。内蔵助は尚久の前ににじり寄り、「いずれにしても身分軽き物の事故、うろたえての仕儀、是非なき次第にございます。重ねての御詮議無用に願います」尚久は内蔵助の目を見て彼の腹を探った。やがて目を細め「寺坂という足軽がよう働き、また、よう働かせたものよ、それで充分、重ねてその名は言うまい」「寺坂とやらの名を除け、浅野家中の者は46名である」詳細な取調べが終わったのは亥の下刻(午後11頃)過ぎであった。46名は細川、毛利、水野、松平の四家に分散してお預けとなった。これがこれまで苦労を共にしてきた46名にとって、2度と再会出来ぬ別れとなった。
吉右衛門の立場は微妙であった。討ち入り後の大目付仙石伯耆守の裁定により、赤穂の浪士は46名と記録された以上、それを咎める筋合いではないとする意見と、吉良を討ち取った罪人であるとする意見でる。築地鉄砲洲で隊列から離れた直後、江戸府内で捕えられていたら吉右衛門の命は無かった。しかし、天領外となると一々公儀の指示をもって捕まえなければならない。その公儀自体、事柄が世間の耳目を集めていたため、老耄に達していた綱吉、時期将軍の思惑が絡んだ吉保の対応は曖昧であった。元禄15年、江戸を離れた吉右衛門は鎌倉に半月、京大坂に6ヶ月、播州赤穂とその近在に1年、広島に2ケ月と、内蔵助の遺命通り同士の遺族を廻り討入りの報告をし、生計の相談の相談を受け面倒をみて回った。元禄17年(1704)年号が宝暦に変った12月、5代綱吉は甲府宰相綱豊(6代家宣)を養嗣子に決定した。吉右衛門は広島宗家から、芸州浅野本領での滞留は、公儀に憚りが有るため早急に立ち退かれたい、と通告をうけた。この方針は三次浅野家にも伝わり吉右衛門の暗殺まで企てられた。人間とは弱いものである。今までは仲間であった者たちが、ある事件をきっかけにして、その対応を巡って疑心暗鬼となる。その対象が元播州赤穂家来、吉田忠左衛門の足軽であるためになお始末が悪かった。ここでも内蔵助の深謀はまんまとはまった。「死人に口なし」で、人間は過去の事をを忘れさり、事件は程なく収まるであろうと甘い予想を抱いていた、希望的観測をしていた吉保の大きな誤算であった。吉右衛門は旧主吉田忠左衛門が紹介してくれた、忠左衛門の娘婿が仕える姫路本多家家来伊藤家に奉公していることが、この家の資料から確認されている。
宝暦3年(1706)御用始めの日、寺坂吉右衛門は大目付仙石伯耆守の屋敷に自首して出た。吉保は自分が裁断した赤穂事件は早急に幕を引きたかった。その日吉保は来るべき世代交代に備え、時期将軍家宣が住む西の丸に出向いて御機嫌を取っていた。尚久の届けは老中から綱吉に届けられた。過去の慣例ではそうした類のものは、一旦老中が留め置き吉保に図っていた。それが今回は頭越しの手続きであった。この時期、老耄に達していた綱吉は自分の死後の評価をひどく気にしていた。この者の処置は重大であるとし、充分な審議を尽くす様に命じた。吉保は自分の政治生命は下り坂に差し掛かったと感じた。綱吉の唯一血縁鶴姫が麻疹に罹り死亡、時期将軍と目されていたその夫紀伊中納言綱教も罹患して死んだ。時期将軍は余り相性の良くない甲府宰相綱豊である。悪い時に悪いことは重なるものである。宝永6(1709)年1月、犬公方綱吉は娘鶴姫と同じく麻疹に罹り死去、5月家宣が6代将軍を就任、あの悪名高い「生類憐みの令」は廃止された。一説には夫の余りにも無摂生な政治、行動に対し御台所が共に死のうと短刀で刺した傷が原因とされる。皮肉にもこの恩赦(生母桂昌院の一周忌による従一位の授与の説あり)により、吉右衛門他討ち入りに加わった子息たちは、以後お構いなしとされた。明らかに刃傷事件による即日切腹、お家断絶、領地没収は誤りであった。その後、享保8年(1723)3月頃、吉右衛門は江戸に戻り、麻布曹渓寺の寺男をしながら、浪士たちの霊を弔い一生を終えたという。83歳天寿を全うした。吉右衛門の長い苦悩の人生は終わった。曹渓寺の縁起によれば「わずかな俗縁を頼みて 當寺に寄寓し 命を終はりとなむ」とある。麻布曹渓寺の戒名は「節岩禎信士」。慶応年間に入ってからの、泉岳寺の遺骸の埋葬を伴わない供養塔には「遂道退身信士」」と刻まれている。さて年末年始江戸瓦版HPは、人生最大の産物「日本酒物語」です。お楽しみに。