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偉人『シモーヌ・ド・ボーヴォワール』

2025.12.26 00:00

フランスの哲学者であり作家でもあるシモーヌ・ド・ボーヴォワールを取り上げる。もちろんその理由は今週月曜日の『SDGs5項 ジェンダー平等を実現しよう No.9』(記事はこちら)が関係している。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールを知らなくても「人は自由で、どう生きるかは自分で決めろ」と考えたジャン=ポール・サルトルのパートナーであると言えば「あぁ〜」と理解する人もいるだろう。共に哲学者であり作家、そして思想が深く結びついていた二人の関係性はまたどこかで取り上げるとして、今回はボーヴォワールの「女性は生まれつき決められるものではなく、社会の中でつくられる」「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というフェミニズム(男女平等)の土台を作ったフロントランナーである。今回は彼女の育ちが旗手にさせたと考えているため彼女の幼少期を紐解いてみる。

1908年1月9日パリのほぼ中心6区のモンパルナス大通りで誕生した。ジョルジュ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールはパリ控訴院弁護士で文学好きな人物で、常に娘ボーヴォワールの哲学思考を後押しした父親である。母フランソワーズ・ブラスールはヴェルダン(ロレーヌ地方)の裕福な銀行家を父に持ち敬虔なカトリック教信徒であった。ボーヴォワールはこの両親によって20世紀西欧の女性解放思想の草分けとなるように育てられたのである。

では彼女の幼少期をもう少し細かくみていこう。

ボーヴォワールは比較的裕福な中産階級の家庭に育ちながらも第一次世界大戦後、父の新事業の失敗により家計が悪化し一気に生活レベルが低下する経験を幼い頃にしている。幼いながらに経済的な一面と社会的一面の歪みを味わい精神面でも大きな影響を受けている。当時のブルジョワ社会では娘の結婚のために持参金を用意することが当然であったが、経済的困窮の中では十分な持参金は持たせられないと父ジョルジュは考え「おまえに持参金はやれない。だが、学問はやらせてやる」と語ったそうである。さらに経済的困窮が厳しくなる父ジョルジュは「結婚ではなく学問による自立をせよ」と娘に伝えている。この父の発言は愛情ある励ましである一方、ボーヴォワールにとっては自由を与えられたと感じながらもその自由は条件つきだったと強く感じたのだ。

ボーヴォワールは幼い頃から非常に聡明で本を読むことが大好きな子どもであったため、知的好奇心を伸ばすことを両親は考えた。そしてカトリック系の学校で教育を受け、学校でも家でも厳格な宗教的規範の中で育った。幼少期は信仰心も強かったが、思春期に宗教への疑問を持つようになり信仰から離れていく。この経験はのちの自由・主体性・責任といった思想に繋がっていく。ボーヴォワールは自立心が強く幼い頃から「自分は特別な存在として生きる」という意識を持っていた。自分は特別な存在という考えは父ジョルジュによって形成されている。

次に父と母との関係性を見ていこう。

ボーヴォワールは両親について愛情のある存在として認識しているが、同時に自らの自由を制限する存在であるとも語っている。父との関係について彼女自身が回想しているが、「父は理解者であり、限界でもあった存在」とし、父ジョルジュは娘ボーヴォワールの知性を誇りに思い、哲学や文学への関心を積極的に励まし学ぶように進めている。幼い頃からボーヴォワールは父の語る文学や思想の話に強く影響を受け「考えることの喜び」を学んだ。つまりボーヴォワールは父との会話の中で考えること=思考を深めることを日々鍛錬されていた。

その一方で父ジョルジュは「女性は本質的に結婚に向いている」という考え方を持ち、知性ある女性は「例外的存在」という考えを捨てておらず、娘を褒める言葉として「おまえには男の頭脳がある」という言葉を投げ掛けている。父は娘ボーヴォワールの論理的思考力や学業の優秀さを高く評価し「彼女は男のように考える」「知的能力は息子並みだ」とも考え言葉にしていた。しかし思考力に磨きをかけていた娘ボーヴォワールは「女性が評価されるために男の基準を借りねばならない」ということに疑問と矛盾を感じていた。当時は「知性=男性的」という価値観が強かったため仕方のないことであったのだが、「父は私を特別扱いすることで、他の女性を低く見る価値観を温存していた」とボーヴォワールは分析した。読書と父との会話の中で培われた思考力は、父の褒め言葉の中に存在する男尊女卑の考え方を批判するに至らせたのだ。つまり父は愛情を娘にかけながらも当時の社会的考え方で娘を励まし評価もしていたが、娘ボーヴォワールはその父の考え方には真っ向から反論する火種を抱えていたのである。ボーヴォワールの思考力は父の想像を遥かに超えた域に達していたのである。


一方母との関係は「愛と抑圧が混ざり合った関係」であったことが伺い知れる。母フランソワーズは献身的で、家庭を守ることに人生を捧げた人物であると同時に厳格なカトリック道徳を重んじ、女性は従順であるべきという規範を娘に強く求めた。女性に求められる従順さや良妻賢母像に違和感を抱いたボーヴォワールは十代後半でカトリック信仰から決別し、理性・自由・哲学に傾倒していく。高等教育では哲学を専攻しソルボンヌ大学などで学び、思春期の娘ボーヴォワールが信仰を失ったとき母との間に決定的な精神的断絶が生じる。母が自分の人生を犠牲にしてきたがゆえに、自分自身にも同じ生き方を求めてしまったともボーヴォワールは語っている。しかしボーヴォワールの思考はさらに上を言っている。母を単に否定してはおらず、母親は弱いから男性や宗教に従属したのではなく、当時の社会が母を含めた女性に他の選択肢を与えなかった結果だと理解していた。この考え方がその後彼女を動かす原動力となったのは間違いない。

彼女にとって父ジョルジュは知性を与え思考力を育んたが、男性中心社会の体現者であることを強く印象付けた。また母フランソワーズは愛情深い人であったが、宗教と規範の代理人というべき人物でその規範を娘に押し付けた人物でもあった。つまり彼女にとって家庭は十分な愛情を受けられ守られる場所であると同時に、これから自分自身の人生を切り開くために乗り越えるべきものでもあったわけである。そのことを十分理解する事ができる彼女の聡明さは誰もが思考できるものではない。ボーヴォワールにとって両親は愛すべき存在、しかし社会制度を内面化した存在でもあるその二重性を見抜いたことが、両親によって育てられた極めて秀逸な思考力がボーヴォワールの批判精神とフェミニズム思想を育てたとも言えるだろう。

青年期のボーヴォワールは哲学者への道へと邁進する。1929年、哲学アグレガシオン(国家試験)に合格。し、当時極めて若い合格者の一人であった。このことからも彼女がいかに優秀であったかがわかる。この試験準備の過程でジャン=ポール・サルトルと出会い、生涯にわたる知的パートナー関係を築く。その後各地のリセ(高等学校)で哲学教師として勤務し、教えることと書くことを通して、自由、責任、女性の生き方といった問題を深く考えるようになっていく。つまり彼女は常にその時々で進化を遂げているのだ。幼少期には家庭の没落 から 経済的・精神的自立の重視を知り、宗教からの離脱でを自分の意思を決定した思春期には理性と自由への志向を深め、高度な哲学教育 を受けそして教鞭をっとてからは実存主義思想の基盤を固め、女性としての違和感を感じ続けた生涯で感じた疑問や矛盾をフェミニズム思想へと発展させた。自ら歩んできた人生を通してボーヴォワールは「女性は生まれつき決まっているのではなく、社会の中で形づくられる」という思想を打ち立て、フランスの哲学者、作家、批評家、フェミニスト理論家・活動家として20世紀西欧の女性解放思想の草分けとして活躍したのだ。

ジェンダーは生まれつきではなく社会によって作られると示した人物であり、そのように育てたのは両輪の愛情からくるものであり、両親から投げ掛けられた疑問や矛盾がさらに彼女を成長さえ、そのことを考えさせた思考力は父の哲学的思想への導きとボーヴォワール自身が自ら求めて学びにとった成果でもある。彼女から学ぶこと、それは深い思考力の獲得は人の人生も社会的考え方を大きく変えるということである。


今年度最後の偉人記事である。子育てにヒントになり活用できる話を来年も頑張り記したいと考え今年の締めとさせていただく。