文化史
https://utsunomiya-8story.jp/history/co_2/ 【縄文時代の宇都宮】より
今から1万5000年~1万2000年ほど前になると、土器を作り、本格的な弓矢をもった新しい時代が登場します。世界でも珍しい縄目の文様をもった縄文土器が使われたので、これから紀元前300年頃までを縄文時代と呼びます。
この時代は、動物や魚、植物をとってくらす生活が中心です。しかし、これらを生か焼いて食べる方法しか知らなかった旧石器時代とくらべ、土器を使った調理や保存の方法が非常に発達しました。弓矢は、それまでの投げやりにくらべ、遠くへ正確に命中させることができるようになり、個人の力だけでけものを捕らえることができるようになりました。
一口に縄文時代といっても、約8000年もの長い期間に、気候や動植物の様子もさまざまに変化したようです。縄文時代は古い順から草創期(1万5000~1万2000年前)・早期(1万2000年~6000年前)・前期(6000~5000年前)・中期(5000~4000年前)・後期(4000~3000年前)・晩期(3000~2500年前)の6つの時期に大きく分けられます。
草創期には、大谷寺洞穴遺跡のように狭い洞くつや岩陰を利用して生活する場合と、広い台地の縁辺に竪穴住居を建てて住む場合とがありました。
早期になると、気候が温暖になりつつあったためか、広い土地に集落を作るようになり、生活の安定にともなって集落の規模が拡大していったようです。
前期までは、さらに気温が上昇して氷河がとけて海水が増加したため、海岸線は栃木県南部にまで押し寄せていました。これを縄文海進といいます。藤岡町や野木町では貝塚が発見されていますが、そこからは海の貝が見つかっています。
生活環境に恵まれたこの時期は、人口も増加して大きな集落が生まれる一方、根古谷台遺跡のように、いくつかのムラが集会やまつりを行ったと考えられるような、特別な集落も発達しました。
根古谷台遺跡中期になると、縄文人の生活は安定し人口はますます増加したので、竹下遺跡や御城田遺跡などのように大きな集落が形成されました。この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。
縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めることができなかったためか、集落は次第に小規模になる傾向が見られます。
しかし、宇都宮周辺は山の幸・川の幸が豊かであったため、石川坪遺跡や刈沼遺跡のような集落がたくさん見られます。 また、土偶や石棒など、まじないに用いていたと考えられるものが見られるのもこの時期の特徴です。
https://oya-official.jp/bunka/culturestudies/rekishi1/ 【大谷寺洞穴遺跡 -大谷の地に足跡を残した人々- / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)】より
大谷寺洞穴遺跡(おおやじどうけついせき)とは
大谷の地に何時から人が住み始めたか?理屈っぽい話で恐縮だが、ここで住むとは一定期間の居住と規定する。すると、千手観音像等の磨崖仏(まがいぶつ)で有名な大谷寺境内の大谷寺洞穴遺跡が該当する。
凝灰岩(大谷石)が浸食されて造られた洞穴(岩陰)は南西に開口し、間口30m、奥行13m、高さ12m、半球形状の空間を形成する。眼前には姿川が流下し、洞穴は絶好の居住空間となる。本遺跡は洞穴の岩壁に彫られた磨崖仏群(特別史跡・重要文化財)の保存工事に伴い昭和40(1965)年に発掘調査が実施された。調査成果から洞穴での生活の一端を垣間見ることにする。
大谷寺洞穴遺跡遠景
発掘調査の成果
洞穴内堆積土の除去工事と併行しての調査であったが、縄文時代草創期から晩期、弥生時代中期、歴史時代(磨崖仏造像以降の古代・中世・近世)と断続的ではあるが、多様な遺物が発見された。とくに、洞穴堆積土の下層(第3~5層)から発見された縄文時代草創期の土器群は、全国の研究者から大きな関心が寄せられた。この間の事情について説明しよう。
層位学的方法
考古学の調査方法に地質学の研究を応用した層位学的方法がある。地層の攪乱がなければ、下層から出土した遺物は上層の遺物より古いことになる。大谷寺洞穴遺跡ではロームと凝灰岩からなる盛土層下に6枚の土層と2枚の灰層が確認されている。遺物の出土層位を整理する。第1層は歴史時代~縄文時代早期後半、第1灰層は縄文時代早期後半、第2層・第2灰層は縄文時代早期前半、第3・4層は縄文時代早期(井草式)~草創期(大谷寺Ⅲ・Ⅱ式)、第5層は縄文時代草創期(大谷寺Ⅰ式)、第6層は無遺物となる。層位学的所見から大谷寺洞穴遺跡に最初に人が足跡を印したのは、大谷寺Ⅰ式期ということになる。
大谷寺Ⅰ~Ⅲ式土器
昭和40年代の考古学の重要な関心の一つに、最古の土器の追求があった。当時、最古の土器とされた縄文時代早期初頭の撚糸文(よりいともん)系土器より古い土器群が、本遺跡で層位的に確認されたのである。すなわち、撚糸文系土器に先行して、隆起線文(りゅうきせnもん)土器群(大谷寺Ⅰ式) ⇒稀少縄文系土器(大谷寺Ⅱ式) ⇒多縄文系土器(大谷寺Ⅲ式)と草創期の土器が変遷することが判明した。本遺跡の調査成果は縄文土器の展開を考える時、半世紀以上経過した今でも重要な意義を持つのである。やや専門的な説明になってしまった。視点を変え洞穴での生活に想いを馳せることにする。
大谷寺洞穴のくらし
旧石器時代人は獲物を追って移動する狩猟民である。寒さと飢えに耐え、移動する厳しい生活と想像される。最終氷河期(ヴュルム氷期)が終わり徐々に温暖化する約12,000年前、人は土器でモノを煮る技術を獲得する。煮る技術の獲得は様々なモノを食べることができ、生活を革命的に豊かにした。その頃、大谷寺洞穴にも人が居住したと考えられる。その生活の痕跡を示すものが土器・石器・骨角器とシカ・イノシシ・イヌ・タヌキ・ムササビの獣骨や淡水産のイシガイ・カワニナ、海水産のシオフキ・ハマグリ・ハイガイの貝殻など食料の残り滓(かす)である。洞穴は雨露をしのげ、焚火で暖をとり、姿川から水を汲むこともできる。それまでよりは格段に良いくらしと推測される。
側臥屈葬(そくがくっそう)の人骨
洞穴からは複数体の人骨も発見されている。なかでも注目されたのが、写真で示した洞穴の奥、第1灰層から発見された縄文時代早期の側臥屈葬の人骨である。すなわち、手足を折り曲げ、頭を横に向けて埋葬された人骨である。調査によって性別は不明だが身長154㎝の成人、手足の発達が不均衡で華奢な人骨と分析されている。また、発見された人骨の中には幼児や乳児の出土も報告されている。人骨から当時の厳しい生活の一端が読み取れる。洞穴は住居ばかりか墓地としても利用された。そこには生と死とが混然一体とした縄文人の空間が存在したのである。
人骨発掘状況(栃木県立博物館提供)
居住から定住へ
暗く湿気のある洞穴は人が長期間住むには不向きである。これは居住だが、定住ではない。ところが、近年大谷寺洞穴遺跡の東約12㎞、釜川源流の湧水点に面した宇都宮市野沢遺跡から縄文時代草創期前半の竪穴住居跡3軒が調査されて大きな話題となった。その中の1軒の住居跡(SI-04)を写真に示した。約4mの円形プラン、一本主柱の伏屋式竪穴住居跡である。住居の上屋は広げた傘のようになる。主柱は柱穴を掘り固定するのではなく、柱の先端を尖らせて打ち込んでいる。この3軒の素朴な住居こそ移動から定住へ、人がムラを造る確かな第一歩である。
野沢遺跡SI-04(栃木県教育委員会提供)
森の民の営み
野沢遺跡で3軒の住居が造られた約6000年後、大谷寺洞穴遺跡から南へ約6㎞に宇都宮市根古谷台(ねごやだい)遺跡(国指定史跡)が出現する。本遺跡は縄文時代前期中頃、多数の墓壙を取り囲みように様々な大型建物群が造られた拠点集落である。本遺跡は縄文人が理想とするムラ=縄文モデルムラの一つと考えられる。宇都宮市北部地域には、大谷寺洞穴遺跡、野沢遺跡、根古谷台遺跡と列島規模でみても縄文時代を代表するような遺跡が所在する。これらの遺跡は、森の民として豊かな自然に適応し、懸命に生き、確かな生の営みを残した貴重な記念物とも言える。
根古谷台遺跡の復元された建物跡
facebook相田 公弘さん投稿記事【日本にあった縄文文明】
世界最古の文明は、今から8000年前のシュメール文明とされています。また、世界の四大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)は、今から3000年から1500年前に起こったとされています。
しかし、この四大文明よりも1万3000年も前に地球上に文明が存在していたのです。
それは、日本においてです。
青森県の大平山元遺跡から、1万6500年前の縄文式土器が見つかっています。
これは、従来の歴史をひっくり返すような発見です。
しかも、それから1万4000年間も縄文文明と呼ばれる時代があったのです。
さらに、遺跡を調べると、驚くべきことが発見されています。
それは、「対人用の武器」、つまり人が人を殺す武器というものが、縄文時代の遺跡からは発見されていないのです。
矢じり、石おの、石包丁というものは発見されています。これらは、小動物を捉え、解体したり、調理に使ったもので、人を殺傷する目的で使用されてはいませんでした。
実際に、遺跡から発見された人骨からは、矢が刺さったような外傷は見つからなかったということです。
つまり、縄文時代には、争いがあったとは考えにくいものなのです。
私たちの祖先は、1万4000年という途方もなく長い期間の間、「人を殺める」文化というものを持っていない、平和の民であったということです。
私たちの遺伝子には、この「平和の民」の遺伝子が伝えられているのです。
しかも、縄文時代というと、私たちのイメージでは、獣の毛皮をまとい、竪穴住居に住み、動物や食べられる果実や植物を食べていた、というイメージですが、どうもそのような原始的な生活ではなかったようなのです。
縄文式土器を調べると布の繊維跡が見つかっています。すでに布をまとっていたことがわかります。さらに女性の人骨からは、イヤリング、ネックレス、アームリングといった装飾品も見つかっています。 さらに縄文時代の人々は、集落を形成しており、かなり高度な文明を構築していたようなのです。
すなわち、世界の文明の発祥は、日本ということになります。
私たちは、「平和の民」のDNAを持つものとして、未来の平和に貢献していきたいと思います。
迫恭一朗さんより
facebook出口光さん投稿記事【大和心と大和魂】
みなさん、おはようございます。今日は、「文武両道」のこと。もう死語のようになった言葉です。「文武二道」とも言われます。
子どものころには、よく「文武両道の人になりなさい」と言われ漠然と「そんな人になりたい」と思いました。文武両道に生きるとはどちらかに偏るのではなくたとえ武道をやらなくても文人と武士の心を持って生きることです。
これは「大和心と大和魂を持ちなさい」という意味だと解釈しています。
心と魂には、区別があります。「心」は、女心、人間心、経営者心と言われるように環境や状況しだいでコロコロ変わるものです。
「魂」は、経営者魂、女優魂、スポーツマン魂というように不動でなにか本物さを感じさせるものです。私たちは、日常で区別して使っていますよね。
大和心は「文人の感性」で自然や四季の移り変わりを感じながらまた、人の思いやりや気遣いを感じて、和の心で生きること。
一方、大和魂は「武人の想い」で現代では、良い世の中を創るために志に生きることだと思います。どちらかに偏っても人生は空しい。大和心をそなえ大和魂を持った人になりたいですね。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/utsunomiyaminami/nc3/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A6%82%E8%A6%81
【学校概要 - 栃木県立宇都宮南高等学校】より
学校の特色
昭和51年の創立以来、文武両道の学校として活気にあふれた校風の中、多くの生徒を育ててきた本校には「さわやか宇南」の愛称がついています。これは、昭和61年の甲子園、春の選抜大会で準優勝をした際に、本校の選手の戦いぶりや応援の様子から、誰言うともなく定着したものです。
本校生のほとんどは上級学校に進学しますが、その目的は、将来社会と関わりながら自分らしく生きていくための知識や技能を身に付けたり、社会に貢献するための精神性を高めたりすることにあると考えます。進学は目的ではなく手段であるということです。策定した教育目標等は、これからますます多様化の進展が予想される社会で自立し活躍するための資質や態度を、高校生という発達段階の中で最大限育てるため教師と生徒が一体となって取り組んでいくための旗印でもあります。
学科の特色
(1)全日制普通科の男女共学。各学年8クラス(定員320名)編成です。
(2)進路に応じた教育課程が編成されています。
1年生では、芸術は選択科目になっていますが、他は全員が同じ教科を履修する教育課程になっています。
2年生は、進路希望により文系では文系科目、理系では理系科目それぞれの比重が大きくなっています。
3年生ではさらに国立文型、私立文型、国立理系、私立理系の4つのコースに分かれて進路希望の達成を目指します。
(3)1年生では選抜クラスを1クラス設定しています。
(4)生徒の95%が大学等への進学を目指しています。
(5)朝の学習、平日放課後及び土曜日の課外や自主学習、夏季課外、各学期の面接等を実施し、 きめ細かい指導により生徒一人一人の学力向上と希望進路の実現を図るように努力しています。
学校行事、部活動の特色
主な学校行事としては次のものが実施されています。
①校内球技大会(6月) ②芸術鑑賞会(6月) ③一日体験学習(8月 中学生対象)
④文化祭/文化部発表会(9月 一般公開は隔年) ⑤修学旅行(12月 2年生) ⑥マラソン大会(11月)
⑦宇南高さわやか活動(6~11月 全学年対象の奉仕活動)
部活動は運動部、文化部とも盛んであり、8割程度の生徒が加入しています。
特に、バドミントン部、水泳部、フェンシング部、柔道部、陸上部、野球部、弓道部、音楽部(吹奏楽・合唱)などが全国的に活躍しています。
facebook伊原 実穂さん投稿記事
◆下野新聞にご掲載いただきました
沢山の御祝をいただき誠にありがとうございます。
みなさまの優しさ、思いやりに触れることで、一段と今回の受賞が本当におひとりおひとりの支えがあったおかげと、これまで関わって下さった全ての人に心から感謝申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
文化歴史を守る上で不可欠な武士道や藩校精神からの文武両道の大切さも含め、学術的技術的に両方の面から保存修復や文化継承の重要性を広めていきたいと思っております。
生まれ故郷の日光のみならず、今回お世話になりました黒羽、大田原へも自分が出来ることは精一杯恩返しさせて頂きます。
本当にありがとうございました。
記事は電子版、下野新聞soonでもご掲載いただいております。https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/872883...