女性バレリーナの誕生
バレエがオペラ座で商業化された最初の
9年間は女性役は若い男性が演じていま
した。
それまで宮廷内で踊っていた貴婦人方は、
宮廷の外で舞台で踊るなどという
はしたない真似はとうていできず、
プロの女性バレリーナはまだいなかった
のです。
その頃の劇場は照明も不十分で、
座り心地の悪い椅子に腰かけた
観客の半分は大体酔っ払いで、
大声で誉めたり、けなしたりして
上演中も騒いでいたのです。
初めて女性バレリーナが登場したのは
1681年。
26歳のマドモアゼル・ド・ラフォンテーヌ
(1655-1738)がリュリの「愛の凱旋」を踊り
ました。
1681年から1693年の間にパリ・オペラ座
で少なくとも18の作品で主要なバレリー
ナとなり「バレエの女王」と呼ばれました
が、引退してからは修道院の尼僧となり
祈りの生活をおくりました。
パリ・オペラ座ガルニエ宮のホワイエに
は、ラ・フォンテーヌをはじめとする
初期の女性バレリーナ達の肖像画が飾られ
ています。
ラ・フォンテーヌの次の世代。
マリー・アンヌ・ド・クピス・ド・カマル
ゴ(1710 - 1770)は、イタリア人のバレエ・
マスターを父に持ち、英才教育を受けて、
1726年、16歳でオペラ座デビューを
果たしました。
またたくまにスターになりました。
それまでは男性だけが踊っていた素早い
アントルシャ・キャトルを踊った最初の
女性バレリーナです。
その見事なテクニックと軽快なエネルギーで
観客を魅了しました。
それまで履かれていたバックルがついて
高いヒールのあるシューズから
現在のバレエシューズに近いシューズに変え、
衣裳のスカート丈をくるぶしの少し上まで
短くしました。
すべての新しいファッションには彼女の名
前が付けられ、彼女のヘアスタイルは、
宮廷の誰もが真似するというファッション
リーダー的な人気がありました。
マリー・サレ(1709 - 1756)は、マリー・カマルゴのライバルでした。
子供時代は旅芸人一座の子役として巡業し、夏には大都会パリの街で芸を披露しました。
踊りが非常にうまく、才能があることを見抜いた両親は彼女にバレエを習わせ、
カマルゴのデビューから1年後にデビューしました。
活発なテクニック派のカマルゴに対してマリー・サレは優雅で
ドラマティックな踊りをみせるバレリーナでした。
また、女性振付家の草分け的存在であり、衣装などを作品のテーマに合わせて改革し、
当時使われていた重いバレエ衣装を廃してシンプルなチュニックやサンダルで
舞台に立ちました。
サレと親しく交流した芸術家の中に、バロック期を代表する作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがいます。ヘンデルは、オペラ『忠実な羊飼い』(Il pastor fido)を改作して、サレのために1734年にバレエ曲『テルプシコーレ』を追加作曲しました。
この作品はサレとヘンデルの双方にとって申し分ない出来栄えのものとなり、大成功を収めました。
参考文献:バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著