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口語でも文語でもないそれ、に取って代わるもの

2024.12.07 11:42

https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/02/11.html 【評論で探る新しい俳句のかたち(11)

口語でも文語でもないそれ、に取って代わるもの】より

藤田哲史

「切れ字」の「や」は、特異な存在だ。

まず、それ自体が厳密な文語文法から外れている。間投助詞とか、係助詞の変形とかいくつかの見方はあるけれど、古典文法の用例と全く同じとはみなしにくいからこそ、あえて「切れ字」の「や」と呼びならわしている。

「切れ字」の効果、といって格調や省略を挙げることもできるけれど、これは「切れ字」でないとどうしても期待できない効果とはいえない。

「切れ字」の「や」が持つもっとも大きな効果は、作品に俳句らしさを期待できるところにある。

たとえば、名句として必ず話題に挙がる  古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

を筆頭に、良くも悪くも「や」は俳句の構文として定番中の定番だ。

「や」を用いるとなんとなく俳句っぽくなる。この効果は、現代語をどのように用いても絶対に得られない、置き換えできないものだ。「や」の存在意義、といってもいい。

「定番」は、いっぽうでステレオタイプになる。ステレオタイプをどう表現のなかで生かすか。ずらしていくか。何人もの俳人がこのステレオタイプに異なる解を与えてきた。

   六月や峰に雲置く嵐山   芭蕉

まずは、季語の本意を膨らませるベーシックなタイプ。六月らしさの説得力として具体的な事物で展開してみるパターン。

  冬山やどこまで登る郵便夫   渡辺水巴

場面を与えてから、そこに<役者>が登場してくるパターン。<役者>が登場するまでの間のよろしさ、とか。

  琅玕や一月沼の横たはり   石田波郷

大胆に色あいだけを述べたあと、状況を具体化させて完結させるパターン。前半の曖昧を後半で解決する。

   初恋や氷の中の鯛の鱗   佐藤文香

心情など抽象的なものを主題にして、喩えとして後半を展開させるパターン。季語を抜いても、その構文と構造だけで俳句性を持たせている。

このように列挙してみると「や」を使うことで俳句らしくはなるけれど、一概に古めかしいものとはいえないのがおもしろい。時代ごとの作品を数多く読んでいくと、「や」入りの構文を新しい展開方法を発明することで、新鮮さがもたらされていることがよくわかる。「や」の再発明といってもいい。

時代ごとに同じ構文を使って異なる展開が試されてきた結果、「や」入りの構文は俳句にはなくてはならないものになっている。

一方で、この俳句らしい構文を意識的に採用しない作家も少なからずいる。

   かたつむり甲斐も信濃も雨のなか   飯田龍太

   大鯉の屍見にゆく凍のなか

なかでも、飯田龍太は「切れ字」の「や」を意識的に使わないだけでなく、新しい構文はありえるか、という点をはっきりと意識している作家だった。いくつかの評論でも指摘されているとおり、飯田龍太は「~の中(なか)」という構文を頻りに用い、「切れ字」の「や」をほとんど採用しなかった。

とはいえ、飯田龍太の考案したこの構文が他の作家にも採用されている様子はなく、むしろ後続の世代が「や」を積極的に用いているところを見ると、いかに「切れ字」の「や」が使い勝手の良い構文かということがわかる。

そして、飯田龍太のような新しい構文を作品で示すような作家は現在のところ特に見当たらない。

もし「や」の代わりになる新しい構文を、しかも現代語となじむように作ることができたら、それはものすごい発明だ。

今となっては俳句に欠かせない「や」を現代語の感覚で書き換えている、ということは、単なる意味上の翻訳だけではない。格調・省略というような「切れ字」が担った副次的な機能も合わせてその構文が引き受けているということだ。

しかも、その構文は1つの作品でなくいくつもの作品で反復して用いられるような、ゆるぎない形をしている必要がある。新しい構文とは、新しい定番のことだからだ。

果たしてそんな構文がありえるのか、どうか。

あると仮定して試してみたらどうか、と今の私は思っている。