88鍵の余韻~ショパン、ウィーンから箱馬車に乗って~
夜10時ウィーン駅馬車乗り場、友人達に見送られ、ショパンは約8か月間のウィーン滞在に別れを告げた。(ウィーン滞在期間1830年11月23日~1831年7月20日)
ショパンと同行者のクメルスキは駅馬車の後ろを走る別の箱馬車に乗り込んだ。
マリーアヒルフ通りを抜けて、街はずれの堤を超えて、ティヴォリ、シェーンブルン宮殿、
グロリエッタを通り、月明りに照らされた美しいウィーンの街の移り変わる景色を箱馬車の
窓から眺めながらワルシャワの家族とコンスタンツェと友達の事を思うショパンだった。
ショパンとクメルスキが乗る箱馬車に乗り合わせたのは、オーストリアの首都リンツの
役人とニュルンベルクの富豪の商人だった。
ショパンとクメルスキの二人は、メルク(裕福な修道会に属す小さな町)で朝食を取るため
に下車、そこで、先頭の駅馬車の6人と合流した。
一人は、生まれはカディスでスペインの高位貴族のグランデ青年とそのお目付け役のトレ
ド、そして、二人のイギリス人、ミラノの女性歌手の二人、スイスの男が一人、リールとパ
リに工場を所有するフランス人だ。
オーストリアを一日中走りつづけ首都リンツに着いたのが夜だった。
ここで、旅の一行のショパンとクメルスキとフランス人、それ以外の7人は、それぞれ何処
かへ消えて行った。
そこから、リンツへ向かい、ショパンとクメルスキとフランス人の3人はリンツに留まり町
を見学することにした。
数日間リンツに滞在した後、そこから、ザルツブルクに夕刻の6時に到着。
1世紀半前からある大司教の居館の塔のからくり時計が、ちょうど午後6時を告げていた。
からくり時計の曲は、歌劇〈左官と金具職人〉から二重唱の場面であった。ショパンは古い
曲とからくり時計の近代的なものの融合に驚き、数日後、ショパンとクメルスキはからくり
時計の仕組みが知りたくて塔に昇った。
二人は職人から話を聞き、曲に合わせて毎月からくり時計の機械を調整しているとのことに
感心をした。
ショパンとクメルスキはザルツブルクの古風な町の景観が気に入り数日滞在した後、ミュン
ヘンへ向かった。
ミュンヘンでは、ナッィオナール・テアーター(現在のバイエルン国立歌劇場)で7月31日か
ら8月25日までの間、ショパンはオペラ鑑賞に毎日のように通った。
ショパンは8月28日に一流歌手のクレメンティーネ・ペッレグリーニ、アーロイス・バイエ
ル、レオポルト・レンツが出演し、自身も出演する演奏会を開催した。
この演奏会で、ショパンはピアノ協奏曲とロンドを演奏した。
ショパンの演奏と曲はミュンヘンでは好意的に受け入れられた。
マクシミリアン・フォン・モンジュラ伯爵(1759年9月12日 - 1836年6月14日)
バイエルン王国の成立前後に活躍した官僚・政治家・貴族
マクシミリアンの父ヤーヌスはサヴォワ出身の軍人で、バイエルンで選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフに仕えた。母マリーア・ウルズラ(ポーランド人)はバイエルン貴族の出身で選帝侯妃マリア・アンナ・ゾフィア・フォン・ザクセンの女官を務めた
アーロイス・バイエル(1802-1863)ミュンヘン宮廷オペラ歌手 美しいテナーの歌声で有名だった