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河東碧梧桐

2024.12.07 12:50

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/kou/kokugo/document/ducu5/c01-00-003.html 【第3回 河東碧梧桐】より

赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐 季語:椿(春)

切れ字:けり

柳田国男に倣っていえば「椿は春の木」である。そもそも木偏に春を書く「椿」という文字は中国ではまったく別の木を指すので、これを我々の知る「つばき」に当てたのは、椿こそ春を告げる木だという古代人の思いの表明だったろう。万葉人も椿を愛し、「つらつら椿」というフレーズまで発明した。時には「つらつら椿つらつらに」とつづきもする。

巨勢こせ山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を(『万葉集』巻第一)

ちゃんと「椿」の字を使って「列々椿都良々々尓」と漢字(万葉仮名)表記されるこのフレーズ、列をなして咲き誇っている椿をつくづくと(見つつ)」という意味だが、もちろん「つ」音反復の言葉遊びがたのしいうえに、「つらつら(に)」の背後に、濃緑の葉の光沢を示す「つやつや」「てらてら」のかすかな響きまで聞き取れるようで、春の気分に心が浮き立つ。

さて、明治29年(1896)の碧梧桐の句は椿の落花、いわゆる「落椿」の句だ。

椿の花は花びら一枚ずつでなく、一つの花全体がぽとりと落ちる。碧梧桐はその落花の風情を、紅白の色彩もあざやかに、しかも眼前でいま落ちた、その瞬間を動的に切り取ってみせた。絵師でもあった蕪村の〈牡丹散て打かさなりぬ二三片〉が動きを含みながらも一幅の静止画面に収まっているのに対して、こちらは同じく絵画的ではあるが、「静止画」よりは「動画」的だといいたくなる。おそらく碧梧桐の句の中で最も知られている一句だろう。

河東碧梧桐(1873~1937)は正岡子規の同郷(伊予松山)の後輩にして子規門の高弟、伊予尋常中学以来の盟友・高浜虚子(1874~1959)とともに子規の俳句革新を実作で担った両輪である。

子規は「明治二十九年の俳句界」で碧梧桐についてこう述べた。

「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り。印象明瞭とは其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰あたかも写生的絵画の小幅を見ると略々ほぼ同じ。同じく十七八字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」

そしてその例として、この〈赤い椿〉を筆頭に八句を挙げているのだが、その八句の中でも〈赤い椿〉が抜群に「印象明瞭」で「純客観」で「写生的」である。

一方、同じエッセイの後半で虚子を取り上げた子規は、虚子の特色は「時間的」で「主観的」で「人事」も詠むことだ、という。つまりこの時期、子規の掲げた新理念「写生」を率先して実践していたのは虚子ではなく碧梧桐だったのである。

翌明治30年(1897)の子規のエッセイ「文学」では、碧梧桐の歩みを振り返って、「河東碧梧桐が俳句なる者を認めたるは明治二十三年の頃なるべし。二十四年より作りはじめたるに其敏才ははやく奇想を捻出し句法の奇なる者を作り以て吾人を驚かしぬ」と述べ、その早熟の奇才を賞して「麒麟児」とまで呼んでいる。明治24年(1891)、碧梧桐は数えで19歳である。

私もまた、若き日の碧梧桐の句を愛する。たとえば、

手負猪萩に息つく野分かな(明治24年)  狼や炬燵火きつき旅の宿  (同上)

行水を捨てゝ湖水のさゝ濁り (明治25年) 木枯や水なき空を吹き尽す (明治26年)

桃咲くや湖水のヘリの十箇村 (明治27年) 上かみ京ぎゃうや友禅洗ふ春の水 (同上)

すべて二十歳前後の句。手腕の冴えは尋常でない。

〈手負猪〉〈狼や〉〈木枯や〉などの「奇想」はこの青年の精神の苛烈さを示すし、一方、〈行水を〉〈桃咲くや〉〈上京や〉などの風景句には京や琵琶湖のゆかしい情緒も纏綿する。しかも、〈行水を〉は蕉門十哲に数えられた丈草の〈郭公ほととぎす鳴くや湖水のさゝにごり〉を踏まえての古典への果敢な挑戦である。〈上京や〉もまた、上五「下京や」を芭蕉が考案したという『去来抄』のエピソードで有名な凡兆の〈下京や雪つむ上の夜の雨〉を意識した挑戦だったかもしれない。こういう大胆な古典への挑戦も含めて、まさしく「麒麟児」の面目躍如というべきだろう。

さて、明治35年(1902)に子規が亡くなった後、碧梧桐が新聞「日本」の俳壇を引き継ぎ、虚子は雑誌「ホトトギス」に拠った。虚子が小説志向を強めて俳句を離れたこともあって、一時は碧梧桐の独走状態だったのだが、しかし、碧梧桐はその絶頂期の明治42年(1909)ごろからいわゆる「新傾向」の自由律へと逸れていくのである。

俳句に「中心」など不要だという「無中心」論から自由律へと突き進んだ「新傾向」は、碧梧桐の精力的な全国行脚の効果もあって大きな影響力を持ったが、やがて虚子が有季定型の保守を掲げて俳壇復帰するや徐々に衰微していく。その後、碧梧桐はますます過激化し、ついに自由律に加えて無季をも容認し、大正末には自らの句を「短詩」と称するに至り、昭和に入ると「ルビ俳句」を作るなど、ほとんど痙攣的なまでに過激な実験をつづけたあげく、ついに「ホトトギス」全盛期の昭和7年(1932)、還暦を迎えた年に俳壇引退を表明することになるのである。

あまり知られていないであろう碧梧桐の自由律の句と「ルビ俳句」を各一句紹介しておく。

松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて  (大正12年)

簗落オチの奥降らバ鮎コはこの尾鰭ヲドル  (昭和6年)

〈松葉牡丹の〉は関東大震災の震災詠。虚子は社会的題材を避けて震災の句を詠まなかったそうだが、伝統俳句の「避社会的態度」を批判して「接社会的態度」を主張していた碧梧桐は多数の震災詠を残している。〈簗落の奥〉は「ルビ俳句」の中でも「過激な」句を敢えて選んでみた。

碧梧桐の「新傾向」の運動が、当時の文壇を席捲していた自然主義の影響下にあったことは間違いない。しかしそれは、自然主義が近代写実主義(リアリズム)の発展だったのと同様、子規の唱えた「写生」説の徹底純化でもあったのである。

たとえば碧梧桐が「無中心」を唱えたのは、一句に感動の中心を作るということ自体が不自然な作為、偽りではないか、と感じたからだった。むろん、自然を「ありのまま」に描き実感を「ありのまま」に表白するためには、外的形式(五七五という定型律)の制約も邪魔である。だから自由律でいく。そして、実感をありのままに表白すること、つまり「真実」の「告白」こそが「自我の尊重」なのだ。――「新傾向」はまさしく、自然主義(さらには私小説)を範とした「近代文学」を目指したのである。

しかし、「新傾向」は結局、「詩」であるべき俳句を日記の断片みたいなものへと散文化してしまう結果になった。どうしてこんなことになってしまったのか。

子規派の俳句革新運動において、旧派を打破すべく最大の功績を上げたのが碧梧桐の斬新な写生句だったことは間違いない。一方、碧梧桐が活躍していた時期の虚子の句は総じて凡庸に見える。それは旧派に対して碧梧桐ほどの切断力をもっていなかったからである。

だが、子規の〈柿くへば〉の項(第1回)で述べておいたように、子規の理想は「写生」ではなかった。「写生」はあくまで、旧派の観念に汚染されていない裸の眼で事物の新鮮な様相を発見するための手段であって、理想は「非空非実の大文学」だったのである。もう一度引いておく。

「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず。空想に偏僻へんぺきし写実に拘泥する者は固もとよりその至る者に非あらざるなり。」(『俳諧大要』)

だからこそ子規は、「写生」に優れた才気あふれる「麒麟児」碧梧桐と「主観的」でいくぶん鈍重な虚子という対照的な二人を両輪として必要としたのである。碧梧桐はそこを誤った。彼はいわば「写実に拘泥」してしまったのである。

碧梧桐は近代の「(芸術的)前衛」の先駆者である。彼は休むことを知らず、あるいは休むことをおそれるかのように先鋭化しつづけて、自己を窮地に追い詰めることすら厭わなかった。「前衛」とは、停滞と反復を自己に許さず、不断の自己否定と自己更新によって前へ進むしかない存在なのだ。

今日、碧梧桐の昔日の栄光は過ぎ去って久しく、ほとんど忘れられかけた存在になっている。完全なる勝者は「保守本流」の高浜虚子。「前衛」河東碧梧桐は完全なる敗者だ。

だが、俳句もまた文学である。文学への欲望の根幹には真率な「自己表現」の欲望も潜んでいる。外形の制約など打破しない限り真率な自己表現がありえないのも確かなことだ。

その意味で、碧梧桐の「新傾向」にいち早く共鳴し、有季にこだわる碧梧桐を置き去りにしてさっさと「無季自由律」を実践した荻原井泉水の門下から、今日なお多くの愛読者(愛誦者)を持つ尾崎放哉と種田山頭火が輩出したことは重要である。碧梧桐の身を賭した試行がなければ、放哉も山頭火も現れなかったかもしれないのだ。

最後にまた拙句を。

雪国に育った私にとっても「椿は春の木」だった。雪雲に閉ざされていた長い冬が終わり、澄んだ水色の空の下で、椿の木は、その葉叢の緑もあでやかな花の赤色も、やわらかな春光の明るさの中にあった。

だが、雪のない土地に住むようになって、ことに近年、案外にも椿が暗い翳りをまとっていることに気づいた。奇妙なことだが、人家の庭に立つ椿の大樹は緑が濃すぎて暗いと感じ、葉叢の影に散り落ちている花にも赤というより暗赤色ともいいたい暗さを感じるのだ。自分の年齢のせいなのか、雪国と異なる強い陽光のせいなのか、わからない。

をんな病むとか椿の家は小暗くて  (『天來の独楽』)

椿落ち地中に濡れた眸めがひらく  (「鹿首」12号 2018年5月)