空海の言語論-『声字実相義』
https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-258.html 【空海の言語論-『声字実相義』<現代語訳>】より
目 次
Ⅰ 理念<いのちと自然の声を聞くための「言語」>
Ⅱ 基礎理論<言語の構造>
(イ)論題:「声」と「字」と「実相」との関係性とは (ロ)論題の梵語<複合語解釈法>による論証
(ハ)言語論の典拠
Ⅲ 本論<物質といのちの"はたらき"と"すがた"を分析する言語>
(イ)言語の定義 (ロ)定義の展開 第一の定義<物質のひびきとしての言語>
第二の定義<住む世界と呼応する言語>第三の定義<形象を区別・編集する言語>
(A)形象の定義 (B)定義の展開
1「物質と現象」のすがた 2「いのちとその環境」のすがた
3「共生の事象」のすがた 4「心象」の本質
Ⅰ 理念<いのちと自然の声を聞くための「言語」>
あらゆるいのち<生物>は自然を住みかとし、その中で生きている。そのいのちの一員であるヒトは、住みかを見回し、まず、声によって名称をつけ、それを文字にし、言語によって表現された世界を生みだした。この言語によってヒトは世界と結びついている。
言語はヒトがその知覚と意識、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考えるによって、モノ・コトをとらえ、それらのイメージを声と字によって表現したものである。したがって、知覚と意識によってとらえられた世界のすがたは、いのちの有する"からだ(繁殖し、活動する個体)"と、からだによって受発信される"ひびきの差異(声)"と、"意識(神経反応と脳)"の三つの根源的な"知のはたらき"があってのたまものである。これらのあらゆるいのちに平等にそなわるはたらきは、全世界に満ちていて、永遠に変わることがない。
そのいのちの知のはたらきによって、あらゆる生物は
一に、日の光を得て、呼吸し生きるちから 二に、住みかを得て、自然と共に生きるちから
三に、衣・食・住を相互扶助するちから 四に、学習し、コミュニケーションするちから
五に、からだをうごかし、生を楽しむちからの五つの知のちからを発揮しそのちからによって
一に、生命圏を形成するいのちのすがた 二に、相互扶助する多様な生物の種としてのいのちのすがた 三に、繁殖・遺伝して、種を進化させるいのちのすがた 四に、生を楽しむ個体としてのいのちのすがたの四つのいのちの無垢なるすがたを生みだしている。それらはすべての世界に共通しており、欠けることがない。
以上の"知のちから"と"すがた"を本来的にもっているのがいのちであるが、そのことを自覚していないのが生きとし生けるものである。特にヒトは愚かな生き方をし、そのいのちの本来の知のちからとすがたから離れてしまっている。しかし、本来的にそなわっているいのちの無垢のはたらきに目覚めるならば、ヒトはその根源の知のちからによって悟りを得ることになるだろう。
その悟りの教え<いのちの"知のちからのはたらき"と"すがた">を学ぼうとする者は、その教えがヒトの発する声とその意味を記した文字によって伝えられるため、声と字の真意を明らかにしてこそ、世界の真実の相が理解できるのである。
いわゆる「声字実相(世界の真のすがたを伝える言語)」とは、"からだ"と"声となるひびき"と"意識"を有する生きとし生けるものが、自ずからそなえもっている本質に他ならないのである。
いのちの知のちからから発せられる根源的な言語のひびきによってのみ、生きとし生けるものは真実の生き方に目覚めることができるのである。
そのため、あらゆる教えを学ぼうとする者は、いかなる教えであっても、その説くところを会得するためには言語のもつ真理を学ぶ必要がある。
いま、わたくし空海は、師のみちびきによって会得した言語の真理を語ろうと思う。教えを学ぼうとする後の学者たちもこころをみがき、「言語」に通じていて欲しい。
Ⅱ 基礎理論<言語の構造>
(イ)論題:「声」と「字」と「実相」との関係性とは
「声」は(ヒトが喉と舌と歯と唇と、それに鼻を使い)吐く息、吸う息を調整することによって出す空気のひびきである。ひびきは声となって耳にとどき、その微妙な音の差によって意味が生じることから、声こそがすべてのひびきの原型である。
口から発声された音が意味をもたないものにならずに、モノ・コトの名称や意味をあらわすことを「字(語意)」という。
「字(語意)」はヒトの住む世界、すべてのモノ・コトの意味を伝えるから、これを「実相」という。(世界で起きているモノ・コトは言葉にしないかぎり、意味を伝えることはできない)つまり、世界の「実相(真のすがた)」を伝えるために「字(語意)」があり、語意の原型は「声」である。このような言語の関係性を「義(道理)」という。
また、自然を構成する物質の形状、固体(地)・液体(水)・エネルギー(火)・気体(風)の四つの要素が触れあって起こす音とひびきも自然の奏でる「声(音)」である。
とすれば、古代中国の五音階<五声(ごせい)>
・宮(きゅう)-ド ・商(しょう)-レ ・角(かく)-ミ ・徴(ち)-ソ ・羽(う)-ラ
と、八種類の楽器の音<八音(はっちん)>
・金属で作られた楽器 ・石で作られた楽器 ・糸を張った楽器 ・竹から作られた楽器
・ヒョウタンなど植物の実から作られた楽器 ・土を焼いて作られた楽器 ・皮を張った楽
器 ・木製の楽器で奏でられる音色も、梵語(古代インド語)における文法の
・主格(何々は/何々が) ・呼格(何々よ) ・対格(何々を/何々に) ・具格(何々によって)
・為格(何々の為に) ・奪格(何々から) ・属格(何々の/何々に属する) ・処格(何々に/何々において/何々へ) 八つの格変化<八転(はってん)>や、ここから呼格を除いた七格変化<七例(しちれい)>も、みな、音声があるから生じるのである。
音声が意味をあらわすのは、そこに語意があり、それが言語となっているからだ。言語とは、ヒトがその五感とこころによってイメージしたことを表現し、自己の意思を伝えようとすることによってのみ、成立するものなのである。
(ロ)論題の梵語<複合語解釈法>による論証
論題の関係性を梵語の複合語解釈法によって説明してみる。
一、依主(えしゅ)釈:複合語の後分の語が前分の語によって制限されているもの
二、有財(うざい)釈:複合語全体が所有・所属を意味する形容詞としてはたらくもの
三、持業(ちごつ)釈:複合語における前分の語が後分の語を限定し、あるいは前分、後分が同
格関係にあるもの
四、隣近(りんごん)釈:実際は異なっていても、それに近いものの名称を用いるもの
五、相違(そうい)釈:前分の語と後分の語とが同等の地位にあるもの
弘法大師空海全集第二巻・「声字実相義」松本照敬〔注〕より「声字実相」という複合語を上記によって解釈すると
一の1、ヒトの発する「声」によって「字」が成立したので、「字」は「声」である。
2、「声」と「字」によって世界の「実相」が表現・伝達できるようになったので、
世界の「実相」は「声字(言語)」である。
二の1、「声」には「字」があり、「字」は「声」の中に含まれるとした関係でみれば、「声」は
「字」である。
2、「声字(言語)」は世界の「実相」を表現したものであり、世界の「実相」はことごとく「言
語」によって語られる。したがって、「言語」は世界の「実相」を有し、世界の「実相」は
「言語」の中に含まれる。
三の1、「声」と「字」はそれぞれに「言語」である。
2、「言語」は世界の「実相」がなくても世界の「実相」そのものである。
四の1、「声」と「字」は相似しており、「言語」と世界の「実相」は相似しているから、それぞれが
それぞれを代替する。
五の1、「言語」は仮のものであり、真実とはほど遠い。世界の「実相」は奥深く、「言語」で表現
することはできないから、「言語」と世界の「実相」は別ものである。
2、「声」は空しくひびくのみで意味をあらわすことができないが、「字」は文章を構成する
ことができるので、「声」と「字」は同じではない。となる。
以上によって、(イ)の論題を解釈してみれば、五の関係性は浅く、三・四の関係性は深く、一・二の関係性は浅・深、両方の見方を含んでいる。(この中に、ヒトが語る「声」の真実性と、その複合語を構成している「字(単語)」の適切さと、なによりも、その造語の意味する内容が、世界の真のすがた<いのちの知のちからのはたきによる世界の無垢のすがた>「実相」にもとづくものであるといった、その同一性によってのみ意味を生じる複合語「声字実相」による、本文の最初に空海が説く、言語理念の悟りの浅・深の関係性を見て取ることができる。訳者)
(ハ)言語論の典拠
問い、(仏教において)言語論を説くことに、何の意義があるのですか。意義があるとすれば、その論拠となる経典はあるのですか、お教えください。
答え、インドの仏典『大日経(だいにちきょう)』に手本がある。
問い、その仏典にどのようなことが説かれているのですか。
答え、その中に、つぎのような詩句がある。
「"いのちの知のちからのはたらきとすがた"に目覚めた者の綴る文章の内容はインドの
最高神インドラの作った文典のように世界のもろもろの真のすがたを語ることができる」と。
問い、この詩句はどういう意味をもつのですか。
答え、この詩句には表面的な意味と奥深い意味がある。表面的なことは読んだとおりの内容である。奥深い意味には、いくえにも縦横の内容がある。だから、「インドの最高神インドラの作った文典のように、世界のもろもろの真のすがたを語ることができる」と説いている。「インドラ」もまた、表面上の意味と奥深い意味があるが、表面上の意味は帝釈天(たいしゃくてん)の別名である。「世界のもろもろの真のすがたを語ることができる」とは、帝釈天自らが言葉を創造し、一つの語の中に多くの意味を含ませたといわれているから、それで、インドラの文典といったのだ。世間の知恵においてもこれだけのレベルをもつのであるから、すべてのいのちがもつ本来の知のちからによると、言葉は自由自在に世界の真理を語ることができるようになる。
もし、すべてのいのちがもつ本来の知のちからでもつて奥深い意味を解釈すれば、真理を語る言葉の一つひとつの文字、一つひとつの単語、一つひとつの文章にはそれぞれに限りない意味があり、そこにはもろもろの"いのちの知のちからのはたらきとすがた"が雲のように湧きあがり、過去・現在・未来にわたって休みなく一つひとつの意味を説いていっても、なお説きつくすことができなくなる。だから、凡夫には、今はその一端を示すことしかできない。
また、詩句のはじめに、「"いのちの知のちからのはたらきとすがた"に目覚めた者」とあるが、これは、自然と共に生きているいのちの個体としての、それぞれのからだが発揮している無垢なる活動を示している。(これが、本文最初の「基本理念」に記された、すべてのいのちが有する知覚と意識のはたらきと、その能力によってもたらされる、"五つの知のちからのはたらき"と"いのちの四つのすがた"を形成する活動である)この個体と、その群れと、多様な種の個体が発揮する、からだの無量のはたらきによって世界が築かれていて、そこに真理であり、それこそがこの世のあるがままの「実相」なのである。
このあるがままの世界の真のすがたを語るのが「声」であり、それが言葉になった。
言葉によって、あらゆるモノ・コトに名がつけられ、「字」となった。以上が、仏典の中の一つの詩句に示された「声字実相」の解釈となる。
また、当仏典のなかに(古代インド語による)言葉が綴られているが、まさしく、世界の真のすがたを語る「声」である。声は(古代インドの)「字」によって記され、その説かれる文章はまさしく「実相」である。
また、当仏典に、梵語(古代インド語)の原初母音の「ア」字は、口を開いて息を発するとき最初にでる音のひびきであると記されている。これが「声」である。「ア」は、宇宙における唯一無二の"いのち"の存在を意味している。これが、「声字(言語)」の始まりであり、そのことがまさに「実相」に他ならない。
Ⅲ 本論<物質といのちの"はたらき"と"すがた"を分析する言語>
(イ)言語の定義
問い、仏教における言語論の典拠についてのお話はお聞きしました。つぎに、言語の定義とそのはたらきについてお教えください。
答え、詩句によって、言語の<四つの定義>を提示する。
五大(ごだい)にみな響(ひびき)あり<物質の構成要素にみなひびき(声)があり>
十界(じっかい)に言語を具す<すべての世界は言葉によって意味をもつ>
六塵(ろくじん)ことごとく文字なり<知覚によって捉えた対象はすべてが文字になり>
法身(ほっしん)これ実相なり<無垢のいのちのすがたはあるがままである>
上記の詩句は、言語の四つのはたらきを定義している。
第一の定義(第一句):ひびき(声)のはたらき
第二の定義(第二句):言葉の真実とうそのはたらき
第三の定義(第三句):世界のすがたを区別する文字のはたらき
第四の定義(第四句):世界の真のすがたをあらわすはたらき
(以下は、この定義ごとの理論展開である。ただし、第四の定義は、第三の定義までによって、すでに世界の真の世界があらわれることになるので省かれる。訳者)
(ロ)定義の展開
□第一の定義 <物質のひびきとしての言語>
はじめに、「五大にみな響あり」を展開する。
五大とは 一に地大(固体) 二に水大(液体) 三に火大(エネルギー) 四に風大(気体)
五に空大(空間)である。
この五つの要素には、表面的な意味と奥深い意味がある。表面的な意味は物質を構成する要素であること。奥深い意味は、梵語のア・バ・ラ・カ・キャの五字がこの要素に対応する声(音)であること、また、あらゆるいのちの有する、生命力・生活力・創造力・学習力・身体力とその各、はたらきとも対応していることである。
<物質の要素>-<梵語>-<いのちの知のちから>
固体-ア-生命力 液体-バ-生活力 エネルギー-ラ-創造力 気体-カ-学習力
空間-キャ-身体力
このように、物質の五要素と、ヒトの発する声と、いのち(生物)の有する知のちからとそのはたらきのことごとくが、音のひびきをもち、すべての音のひびきが物質を離れて存在することはない。物質こそが声(音)の本体であり、ひびきがその作用である。だから、「五大にみな響あり」という。
□第二の定義<住む世界と呼応する言語>
つぎに、「十界に言語を具す」を展開する。いのち(生物)の形成している世界は十種に分類される。
一に、すべてのいのちが調和している無垢なる世界
二に、すべてのいのちが調和すべく、協同してはたらいている世界
三に、すべてのいのちが調和すべきことを個々に自らがさとっている世界
四に、すべてのいのちが調和すべき教えを聞き知り、個々にさとっている世界
五に、すべてのいのちの神々(世界を調和させるちからをもつもの)の世界
六に、すべてのヒトの世界
七に、すべての不浄なるこころをもつものの世界
八に、すべてのヒトの知能に至らないものの世界
九に、すべての衣・食・住とこころを失い、生きるものの世界
十に、すべてのいのちが殺しあっている世界
以上の世界に、それぞれの言葉があり、話し声が聞こえる。その声には長短や高低があり、音色や節回しがある。これを「文章」という。文章は単語によって綴られ、単語は文章によって意味が明確になる。したがって、文章に関わる者が、「文章は単語であり字である」というのは、字や単語が文章として綴られることによって意味を成すということなのだ。 いのちあるもものの声(言葉)も同じである。この言葉に十種の区別があり、前記の十の世界によって、それぞれに語られる言葉の違いがでてくるのだ。(例えば、一の世界においてはあるがままの美しい自然のひびきと呼応する言葉が語られ、二の世界では慈しみの言葉が語られ、三ではさとりの言葉、四では礼拝の言葉、五では神々の言葉、六では生活・文化・政治・経済の言葉と多種の言語、七では罪と罰の言葉、八では野獣本能の言葉、九では飢餓の言葉、十では殺戮の言葉が聞こえてくる。この言葉によって、その世界の状況が見えてくる。訳者)
問う、十種の世界において語られる言葉の真実とうそについてお教えください。
答え、一から十の縦の流れにしたがって、言葉の真実とうそを俯瞰すると、一のすべてのいのちが調和している世界以外の九つの世界で語られる言葉にはうそが含まれる。
仏典では、一の世界で語られる言葉をもつ者を
一、真を語る者 二、実を語る者 三、ありのままに語る者 四、誤りなく語る者
五、うそを語らぬ者
という。これらの五種の言葉を梵語でマントラ(真理を語る無垢の言語)というが、このマントラの一言の中に、上記の五つの意味が含まれている。だから、インドの仏教哲学者ナーガールジュナはマントラを秘密語と名づけた。この秘密語を「真言」としたのは、漢訳者が前述の五つの意味の中の一つだけを採りあげて翻訳したことによる。
問う、真言とはどのようなことですか。
答え、いのちの共に生きているこの世界のあるがままの実相をとらえ、それをあらわして誤りがなく、うそがないから真言なのだ。
問う、真言によって、言葉はどのように生まれでるのですか。
答え、真言によって語られる言葉が無量の違いを展開するといっても、その根源であるいのちの知のちからのはたらきとすがたを見極めていれば、大海にすべてのものが映しだされるように、発せられる言葉の一つひとつにすべてが包括されているのだ。
問う、その見極めた言葉とはどのようなものですか。
答え、インドの仏典『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』および『大日経』に説かれる梵語(古代インド語)の文字体系の字母表に記された文字の言葉がそれである。その文字とは「ア」字から「カ」字に至る文字である。(ヒトがこの世に生まれでて、始めて発する声音、それが言葉の根源となるが)「ア」字こそが、万象を語るすべての言葉の母なのである。したがって、「ア」の一文字の中に、あらゆる無垢のいのちの知のちからが織りなす自然界の言葉とヒト科の作りだす社会の言葉のすべてが包括されているのだ。
(ヒトのすがたを借りた)無垢のいのちが最初に発する「ア」音が、しだいに転じていって、世間に流布する言葉となるのだ。
世界の真実のすがたを知っている語を真言と名づけ、いのちの根源を知っていない語を妄語(うそ)という。妄語を語ると迷いの闇に苦しみ、真実を語ると苦しみは除かれ楽になる。これが、言葉が毒にも薬にもなるといったことである。
問う、前述のナーガールジュナの説いた真理を語る五種の言葉と、あなたの説く真実と妄語の二種の言葉の関係はどうなりますか。
答え、物の見かけから生じる語・夢想から生じる語・妄想から生じる語・空想から生じる語は「妄語」に属する言葉であり、無垢のいのちの知のちからにより発せられる語のみが「真実」に属する言葉である。
□第三の定義<形象を区別・編集する言語>
つぎに、「六塵ことごとく文字なり」を展開する。この定義の六塵(ろくじん)とは、ヒトの知覚(五感)と意識のことである。このはたらきによって、世界がとらえられている。
第一に目に見えるもの、二に耳に聞こえるもの、三に鼻によって嗅げるもの、四に口によって味わうもの、五に手とからだによって触れられるもの、六に意識によって考えられるものである。この六つはたらきによって、とらえられたものが言語になる。
本論では、上記の知覚のはたらきの内、目によってとらえられるもの「形象」について、以下、詳しく分析する。
(A)形象の定義 詩句にして、定義する。
顕・形(ぎょう)・表等の色(しき)あり 内外(ないげ)の依正(えしゃう)に具す
法然(ほうねん)と随縁(ずいえん)とあり よく迷ひまたよく悟る
〔口語訳〕
(ヒトの目に見えるものには)いろとかたちとうごきがあり
(それらの要素によって)いのちと、そのいのちが宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたをあらわしている。
(それらのすがたには)あるがままのものと、条件によってあらわれているものとのがあり
(ヒトは目にしたものによって)よく迷わされ、よく気づく。
この詩句の第一の句は、ヒトが目によってとらえることのできる三つの要素をあげてい
る。第二の句は、見る対象となる世界を構成しているのは物質と生命であり、それらがあらゆる環境とあらゆる生物のすがたとなって、世界にいろとかたちとうごきの彩りを与えていることをあらわし、第三の句は、見えているそれらのすがたには、あるがままに生じているものと、条件によって生起しているものとの二種があることをあらわし、第四の句は、そのさまざまな、いろとかたちとうごきが、その見た目によって愚かな者には毒となり、その本質を見抜くことのできる賢い者には良薬となることを説いている。
(上記の句にしたがって、以下は各、定義を下記の見出しによって展開する。訳者)
第一句「物質と現象」のすがた 第二句「いのちとその環境」のすがた
第三句「共生の事象」のすがた 第四句「心象」の本質
(B)定義の展開
1「物質と現象」のすがた
第一句の「いろとかたちとうごき」とは、ヒトが目によって認識している要素は三種であることを示している。一に色彩、二に形状、三に動体の三種である。この三種について、それぞれに考察してみよう。
《色彩(いろ)》
自然を構成している五つの要素は色彩をもつ。一に黄色(土)、二に白色(水)、三に赤色(火)、四に黒色(風)、五に青色(空)である。黒色は(色彩を失った状態であるから)色ではないといった見方もある。
影と光、明と暗、雲とかすみ、塵と霧、それに空の色の変化も色彩である。
また、視覚によって認識されるすべての色彩。
この色彩に対して、ヒトは好い色、悪い色、どちらでもない色と区別しているが、こころには、もともと、青、黄、赤、白、赤紫、水色などなく、明と暗もない。それは視覚の対象にあり、それらを区別したものなのである。
《形状(かたち)》
形状を分類して、長いと短い、粗いと細かい、まっすぐとまっすぐでない、高いと低いという。また、四角形、円形、三角形、半円形などという。また、色彩の配分によって、形状を成すものもある。
この形状もまた、視覚の対象となるものを区別したものであり、こころにもともとあるものではない。
《動体(うごき)》
動きには、ヒトの動作を分類した、取る、捨てる、まげる、伸ばす、歩く、止まる、座る、横になるなどと、(物理学的な)動きを原因として、物象が生じたり、滅したり、存続したりすることがある。
(動きを定義すれば)生じたところには再び生じないで、他のところに移動し、連続、断絶、遠近となって生じることをいう。あるいは、移動せずに、その場所においての変化することをも指す。また、働く、作るなどの動作のちがいも動きである。
ヒトのこころは、男と女の見かけの動作(うごき)や肌の色(いろ)やすがた(かたち)の違いによって惑わせられるが、もともとのこころにはそれらはないのである。
問う、では、ヒトはどのようにして自らのこころを知るのでしょうか。
答え、ヒトは、いろ、かたち、もしくは万象を、視覚器官によって感じ取り、イメージし、言葉にし、識別する。そこに自我と自我のはたらきがあるというが、その対象がなければそれらの識別作用も自我のはたらきも起こらない。ということは、この章で示していることが、見る対象となるものの、いろ、かたちの識別と、取捨、働く、作るなどの動作のうごきのことであるから、その対象がもともとこころの中にある訳ではない。
その見る対象となるものを識別したものが字(語意)となる。したがって、いろ・かたち・うごきが言葉となった。
この見えるものを、先に述べた十種の世界でとらえると、十種の世界にはそこに住むものの世界と、その住みかとなる環境としての世界があるから、二十の区別された世界があり、それぞれの世界にそれぞれの言葉があることになる。
つぎに、インドの仏典『瑜伽論(ゆがろん)』に説かれている、目に見える万物の現象について述べる。
《原初、原子物理学問答》
問う、すべてのものが生じる場合、それ自らの潜在的なちからによって生起するという。どうして、物質を構成している存在要素となる粗大な原質<分子>(という物質)から、万象が生じるというのでしょうか。また、万象がどうして、もろもろの分子に依存し、それらによって成立し、それらによって保たれ、それらによって増大するのでしょうか。
答え、生物のからだを構成する分子と、物質を構成する分子、および万物のちからが、自らの化学的、物理的反応に身をゆだねているからである。分子のちからが諸要素を生じさせなければ、万物の潜在的なちからは万象を生じさせることができない。分子が生じたときのみ、万象が自らのちからによって生じるのである。だから、分子が万象を生じさせるというのである。
分子によって生じるというのは、分子こそが、万象を生起させる前提条件となるからである。この原理によって、もろもろの分子が、万象を生起させる原因となる、と説く。
問う、万象は、どうして分子に依存するのでしょうか。
答え、万象がすでに生じているとき、分子の位置から離れないで生じるからである。
問う、万象は、どうして分子によって確立されるのでしょうか。
答え、分子が増減すれば、万象も同様に増減するからである。
問う、万象は、どうして分子によって保たれるのでしょうか。
答え、万象は、分子と同量であり、かつ消滅しないからである。
問う、万象は、どう増大させられるのでしょうか。
答え、食事・睡眠・修行・清浄なる行動・精神集中などによって、体内における分子が活性化すると、そのことによって、対象となる万象の分子を観察しているのはヒトであるから、その冴えた認識力によって研究が進み、内外の世界は広がり続ける。(この答えは、そのようなことかと推測した。訳者)
このように、分子と万象を比較してみると、物質には、生みだす作用、依りどころとなる作用、確立させる作用、保つ作用、増大させる作用の五種の作用があることを知る。
またつぎに、物質において、物質存在の最小単位となる極微<原子>を想定すれば、その原子が生起することはない。なぜなら、ヒトが目にする物質は、自らのエネルギーにより、集合して生起するが、その大きさは微細か中ぐらいか粗大かである。しかし、これは原子が集まって物質を成しているのではない。原子とは、観察者であるヒトがその知性によって、分量の極限を分析していって、最小単位の極微の物質を仮定した概念にすぎないからだ。
問う、物質が分子によって構成されたものなら、原子にも分割できる部分があるはずです。それなのに、物質には分割できる部分があり、原子には分割できる部分がないとは納得できません。
答え、物質を分割していって、その極限を想定したものが原子の概念である。原子は物質の構造の極限に存在すると仮定したものであり、原子の中に、さらに小さな原子があるということは仮定の仮定になり、そのことは考えられないのだ。だから、原子には分割できる性質はないと言い切れる。(今日の原子物理学では、原子は原子核と電子によって構成され、その原子核は陽子と中性子によって構成されているとする。この点において、この答えはまちがっており、質問者のほうが正しかった。訳者)
また、物質と現象の観察にあたって、物質の存在を確認する方法には二種ある。
一つは、観察者と存在物質との相対性の関係:物質の極微の存在をヒトが観察していて、そこに、いろ・かたち・うごき・ひびき・臭い・味・テクスチャー等が認められれば、物質は存在し、認められなければ、そこに物質は存在しないということ。
一つは、観察者と認められる物質のすがたとの関係:観察する極微の物質の存在が、いろ・かたち・うごき・ひびき・臭い・味・テクスチャー等に分離できずに、混合して物質の中に認められる状態。すがたは感じられるが、かたちは確認することができないといったこと。この場合は、さまざまなものを石で磨って粉末にし、水で練り固めたような物質の状態であり、その状態を胡麻やいんげん豆の集まりのように見なすべきではない。
また、万象は物質(分子)によって起こり、物質のもつ、構造と質量を超えることはない。だから、分子の構造によって、それぞれの物質の位置が固定されると、そのとおりに万象が発生することになる。このことによっても、観察される万象には物質が必ず存在しているのである。
また、諸原質が"分子"と名づけられるのは、物質がその性質を保って存在しうる最小の構成単位であるから分別の"分"であり、あらゆる現象の元となるから"子"という。
万象は、物質の特性、固体・液体・エネルギー・気体として存在し、これをヒトが、いろ・かたち・うごき・ひびき・臭い・味・テクスチャー等として認知する。この認知は知覚器官、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚による。ここでは、客観性を担保するために、意識の領域をはずす。
以上が原初、原子物理学問答となる。
このように、さまざまな目に見えるものが、すべてにわたって識別され、まさに文字になった。
(文字にならなくても)色彩によってさまざまな記号を書くことや、生物や静物を描くこと、錦(にしき)・刺繍をほどこした布・あや織り・うすものなどのデザインも、すべてが目によって伝えられるもの(視覚言語)である。
各種仏典において、目に見えるもののさまざまな分類が詳しく記しているが、それらが、前述の生き物の十種の世界と、その住みか(環境)となる十種の物質世界を出ることはない。
この世界を目で見て、識別したものが言葉となったが、この言葉に愚かな者は執着し、むさぼり、怒り、さまざまな誤りを犯す。そのことを詩の第四句で「よく迷わされ」という。賢い者は、目に見えるものによって成立した言葉が、ヒトがその視覚によって世界を観察し、識別したものに過ぎないことを知っていて、それに執着することもなく、だからといって、捨て去ることもない。さまざまな世界の真のすがたを見て、理想郷を打ち立て、言葉以前のいのちの知のちからによって、あるがままのはたらきを為し、そして、上に向かってはすべてのいのちの共生を祈り、下に向かっては生きとし生けるものを救済し、自己の利と他者の利を調和させ、円満にする。だから、詩の第四句に「よく気づく」という。
2「いのちとその環境」のすがた
つぎに、第二句の「いのちと、そのいのちが宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたをあらわしている」を考察してみよう。
これには三つのことが説かれている。
第一に、生物のすがたに、いろ・かたち・うごきがある。
第二に、環境にも、いろ・かたち・うごきがある。
第三に、これらの、いろ・かたち・うごきは、生物と環境にそれぞれにそなわっているものではなく、いのちの住みかとなる環境と、そこに住むものとしての関係、すなわち、共生する関係(生態系)の中から生まれ出ている。
『華厳経(けごんきょう)』(三世紀中央アジアで成立した仏典)につぎのようなことが説かれている。
《原初、分子生物学論》
『経』にいう。
「いのちの有するからだは不思議である。(固体と液体と気体によってエネルギーを産生する)世界がことごとくその中にある」
またいう。
「からだの一毛の中に、多くのいのちの海があらわれている。一つひとつの毛に、その多くの海があり、その海がすべての生物のいのちにあまねくゆきわたっている」
またいう。
「一つの毛孔の中にも、推測できないほどの多くの海がある。その数は数えきれない量であり、いろんなすがたを成して、存在している。その海(細胞)の一つひとつに、遍照尊(へんじょうそん・DNA)がおり、細胞の海の集まりの中で、妙法(いのちの真理)の教えを説いておられる。その細胞の中にも大小の分子があり、そのさまざまなすがたは数えきれない量である。このように、いのちを有するすべての生物を形成している微塵の細胞の一つひとつの中には、みな遍照尊が入っておられるのである」と。
今、これらの教えによって、つぎのことが明らかに分かる。
いのちを有する生物のすがたは大小さまざまである。
・生命圏全体としてのいのちのすがた。
・説明することのできないほどの細胞の数をもつ、大きな生物のすがた。
・少しの細胞の集まりによる小さな生物のすがた。
・一つの細胞のすがた。
・細胞の中のDNAのすがた。
これらの大小によって、あらゆるいのちが互いに、内となり、外となって共生し、生命環境を築き、そこを住みかとして生物が生存することができている。
この(知のちからを有する)「いのち」と(その知のちからのはたらきによって進化してきた)「生物とその住環境」が、いろ・かたち・うごきを発揮し、世界を彩っている。だから、詩の第二句に「いのちと、そのいのちが宿る生物と、生物の住みかとなる環境がそのすがたをあらわしている」という。
(今日の分子生物学では、地球上の生命の誕生を、無機質の微粒子群が海水の中で化学的変化を繰り返し、その巨大分子に含まれる大量の物質を一単位として包括する方法として、粘性の膜によって、海水と分子を包み込む細胞が創造された時点とする。物質存在の元となる原子、原子が結合して分子となり、分子が結合して巨大分子となり、その巨大分子が生みだしたものが細胞である。これがいのちの最小単位である。その細胞の一つひとつに遺伝情報物質DNAが存在する。このDNAがいのちの知のちからの元である。訳者)
3「共生の事象」のすがた
つぎに、第三句の「あるがままのものと、条件によってあらわれているものがある」を考察してみよう。
目に映じる、いろ・かたち・うごきは、無心にして見れば、あるがままの無垢のすがたである。それは、いのちの知のちからのはたらきによって地上にあらわれたものが、生物とその住みかとなる自然環境であるからだ。(それらが目に映じてきた)
(この無垢なるすがたを説いた仏典がある)
『大日経』にいう。
「そのとき、あらゆるいのちと自然が調和し
等しく生きるあるがままの世界があらわれると
いのちの住みかである地上は平らになり
手のひらの上にすべてがあるかのように見えた。
山々は、金・銀・琥珀にあふれ
大海は、真珠と珊瑚によって満たされ
谷には、甘く・冷たく・やわらかく・かるく・清く・臭くなく
・喉ごしよく・何一つ悪いものを含まない水が湧き
その水のほのかなよい香りが山野に広がっている。
空には、数えきれないほどの美しい鳥が飛びかい
それぞれの鳥がみやびな声でさえずり
野には、季節の花が咲きみだれ
森には、みどりの木々がほどよく、こんもりと茂っている。
山野の発する音色は無数の楽器となり
自然と調和するリズムを奏で
その妙なるメロディーに
ヒトも耳を傾け、聞き入っているー
(いま、)はかり知れない多くのいのちが
その太古より生きてきた道をふり返り
互いに連鎖することによって築いてきた美しい自然の家に
それぞれがそれぞれの固有の部屋をもっていることを慈しんでいる。
そこに、いのちの座があり
その座は、自らの生きる道を無心に引き継いできた
すべてのいのちのもっている"知"のちからによって
獲得されたものである。
いのちの宇宙は
世界に大きく広がった蓮の花のようー
その中で、無垢なるすがたをもついのちが
安心して住んでいられる」と。
問う、この詩文はどのようなことをいっているのですか。
答え、二つの意味がある。第一に、いのちの知のちからのはたらきによって、あるがままにあらわれたのが、生物と環境のすがたであることを明らかにしている。詩文に、「自らの生きる道を無心に引き継いできた」とか「無垢なるすがたをもついのち」と説いているからである。第二に、条件によってあらわれていることを明らかにしている。詩文に、「互いに連鎖することによって築いてきた」とか「すべてのいのちのもっている"知"のちからによって」と説いているからである。
(以下は、四つの無垢なるいのちのすがたを説く)
〔すがたの1〕
<大日尊>を、梵語では、マカビルシャナブッダという。大ビルシャナ仏とは、宇宙における唯一無二の"いのちの無垢なる存在"そのものをあらわす。その存在によって、あらゆる生物と環境があるがままに成立しているのだ。だから、詩文に、「等しく生きるあるがままの世界があらわれる」という。
〔すがたの2〕
太古から生きてきて、今あるいのちをも、<大日尊>という。だから、詩文に、「自らの生きる道を無心に引き継いできた」と説く。
また、『大日経』にいう。
「ときに、すべてのいのちには、生存し、共生するための知のちからがそなわっている。
一に、自然と共生するちから。
二に、衣・食・住を得るちから。
三に、生物の種としてのちから。
四に、知覚のちから。
五に、観察し、学習するちから。
六に、困難を克服するちから。
七に、道を求めるちから。
八に、他に対する慈しみのちから。
九に、無心に尽くすちから。
十に、無心に生きるちから。
これらの十のちからを生まれもって身に付けているさまざまないのちが自然の中で生活するとき、そこに限りないすがたが、いろ・かたち・うごきとなってあらわれ、世界を彩る」と。
この文は、あらゆる生物の個体がもっている、生きる知のちからを明らかにしている。
〔すがたの3〕
変異によってあらわれる個体のいのちをも<大日尊>という。このいのちによる慈しみは世界を照らしてくれるから、大日と名づけられる。この限りない慈しみの光を放った実在の人物がインドに生まれた釈迦(紀元前五世紀)である。ビルシャナともいう。『大日経』に、「数えきれず、はかり知れない長い時間の修行によって、いのちの根源の知のちからを得、そのはたらき(慈悲の行ないと自らの精進等)によって、いのちのあるがままのすがたを実践された人」とある。このようないのちの能力のあらわれが、生きとし生けるものと、そのものたちによって形成されるあらゆる社会とその環境を救済してきたー
〔すがたの4〕
あらゆるいのちの種の間において、相互扶助を為しているいのちをも<大日尊>という。生き物どうしは、同じ環境で、互いが生きていることを無心に自覚している。前述した詩文の続きに「たちまちにして出現する」と記されているが、この意味は、しばらくの間であるが、相手と同等の身になって、あらゆるいのちが慈悲に目覚めることができることを指す。しかし、そのすがたは、たちまちにして隠れてしまう。詩文には、そのようなことがあらわれる環境については述べていないが、そのすがたがある以上、どうして、その住みかとなる環境がないことがあるだろうか。(そうして、生物は生活の場を上手に棲み分けている。訳者)
上記に説いたいのちの無垢のすがたと、その住みかとなる環境は、いずれもいのちの知のちからのあらわれである。
これらのすがたを縦に区別すると、大小とか、粗大と微細とかに分類されるけれど、横にみれば、いのちの知のちからのあらわれとしては、まったく平等であって、同一なのである。この平等のすがたがあるがままであり、区別の視点で見るから、そこに比較が生じ、その比較のためにわざわざ条件を設定することになる。そこで、詩の第三句に「あるがままのものと、条件によってあらわれているものがある」という。
このようないのちのすがたと、そのいのちの住みかが、ことごとく、いろ・かたち・うごきをそなえ、生物の繁栄と美しい自然景観を形成しているのだ。
これらはいのちの知のちからからみた共生の事象となるが、(今日でいう)生態学的な視点からみても同じこととなるであろう。
生きとし生けるものには、本来的にいのちの知のちからがあり、そのちからによって生きているのだから、そのすがたとその住みかとなる環境はあるがままの存在である。
また、生命と物質と意識の三種の世界と、前述した十種の世界を住みかとするいのちとその環境は、そこに生存しているものの行為が原因となって成立している世界だから、そのことを称して、「条件によってあらわれているもの」という。
また、『大日経』に「生きとし生けるものの世界を染めるには、真の味をもってする」とあるが、この味とは、色彩のことであり、赤土色があるがままのいのちとその住みかとなる大地を表わす色であるから、その色を象徴として、真の世界があらわれている。
4「心象」の本質
つぎに、第四句の「よく迷わされ、よく気づく」を考察してみよう。
根源的な知のちからをもつ生物と、その住みかとなる世界(環境)が発揮している、いろ・かたち・うごきによって、愚かな者はこころを動揺させられ、それに執着し、賢い者はその本質を洞察し、それらを慈しむけれども執着しない。だから、詩の第四句に「よく迷わされ、よく気づく」という。
問う、このような、あるがままにあらわれている世界のすがたと、その世界を識別することによってあらわれる、条件をもつ世界のすがたは、何によって生みだされ、何を生みだすものなのですか。
答え、あらゆるものを生みだしている主体は、固体・液体・エネルギー・気体・空間によって成る物質とその、いろ・かたち・うごきである。
生みだされるものは、いのちの"知のちから"と、その知のちからを宿す"生物"と、そして、それらの生物の住む"環境"の三種である。この三種の世界に数限りないすがたがあり、そのすがたを目で見、イメージ(心象)し、識別することとなると、そこに条件が入りこみ、その条件が多くの論理のための言葉<概念言語>を生む。しかし、いのちの知のちからのはたらきによってあるがままに見れば、真実の言葉<知覚表象言語>となる。
以上、見えるものについての論理を終える。
(このように、目に見えるもの<形象>によって言葉<言語>が生じた。ということは、言語はヒトの頭の中に浮かぶ、イメージ(心象)によって作りだされたものである。視覚以外の知覚、聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって得る情報も同様である。知覚の対象となるものと、そのイメージ(心象)によってすべての言語が生じるが、そこには、記憶や想像の表象が入り込み、空海のいう、真実の世界でないものが多く含まれる。訳者)
あとがき
訳し終えて思うことは、これほどの思想がすでに千二百年前の日本に存在していたことと、それも、空海自らによって著述され、文章として今日まで残されていたことへの感嘆である。しかし、その内容が今日まで人々に理解されることはあまりなかったという。理解されていれば、世界の文化史に平安期の日本人が加わっていたであろうに。この我が国に秘められた知的財産を、拙い解読力ではあるが、今日的な解釈で些かなりとも紹介できることは訳者としての喜びである。願うところは、このいのちの知のちからが放つ光が、わたしたち衆生をあまねく照らすことである。