「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 親の心子知らずという今の世の中を風刺した道長親子
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 親の心子知らずという今の世の中を風刺した道長親子
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、毎週好き勝手な部分を書かせてもらっている。今回の大河ドラマは、平安時代を他の先品などのイメージで見ている人や歴史の「史実」とういわれることに非常に敏感な人に関してはかなり厳しい意見もあるようであるが、物語の深さや、歴史を使ったドラマの作りに詳しい人などに関しては、非常に高い評価があるようだ。実際に戦争の場面はほとんどなく、前回(12月1日)の刀伊の入寇しか無かった。その中でも周明(松下洸平さん)が死ぬという手法を使うのであるが、さすがに「架空の人物を殺して、歴史とは関係のない部分で物語の厚みを持たせる」というような手法、そして、そのことによって主人公などの気持ちが変わるというようなことを、うまく表現していたのではないか。
実際に、今回のドラマの中では、二つの変化が周明の死で出てきた。一つは乙丸(矢部太郎さん)の「帰りたい」である。藤原隆家(竜星涼さん)にこの後の去就を聞かれたまひろ(吉高由里子さん)が、本来は京都に戻りたくないと思っていたが、この言葉で悲しい中にも戻らなければならないということを思うようになり、隆家とともに京都に戻るということである。ある意味で道長との別れや、自分がやるべき源氏物語の執筆などを追えて、人知れず生涯を終える予定であったまひろが、やはり皆のいる場所に戻ろうという気分にさせる、いや気づかせる、最も素晴らしい変化ではないか。
そしてもう一つの変化が、子である賢子(南沙良さん)への思いであろう。自分が自由にすることは、そのまま賢子も自由にするということを容認するということになる。ある意味で「子供の自由を見守る」ということを容認する気持ちになったのもこの乙丸の言葉からではないか。ある意味で一皮むけたという言い方が良いかどうかはわからないが「第二の人生」に入ったまひろに生まれ変わったのではないか。
この賢子は、後に数々の恋愛を経験し、代理の内外で浮名を流すことになるが、しかし、このドラマの中では、双寿丸との恋に破れて、「自由にすること」が自分の本文であると、そして母のまひろから受け継いだ才覚であるということを考えたのであろう。ある意味でまひろの書いた「源氏物語」に最も感化された、まひろの身近な一人になったのではないか。
<参考記事>
「光る君へ」柄本佑 道長の「最後に犯した大きな間違い」語る「頼通に託したことが…」思い伝わらず
12/8(日) スポニチアネックス
https://news.yahoo.co.jp/articles/d0cfa3ec3a00e98a04844c035f35d47301206579
<以上参考記事>
さてもう一つの親子が書かれている。ある意味で大河ドラマの醍醐味は、人の一生を描くことにある、つまり、その主人公やその周辺の人々の子供時代、そしてどのように育ち、どのように考えてきたかということを見ながら、片方で、その思いとは別に自分の子供たちに対して、今度は親の立場で見てゆくということを描けるということであろう。子供の頃に、父に対して反抗的であった道長(柄本佐さん)は、権力や様々なことを捨てようとしながら、最後はその権力の座に座り、そして直秀などの死から学んだ「庶民に優しい政治」ということを心掛けることになる。ある意味で、「国をどうするかということが最優先である」という「視野の広い政治」を行っていたことが成功の秘訣であり、誰よりもうまく政治を行えた否決である。
今回の刀伊の入寇に関して息子である頼道(渡邊圭祐さん)は不甲斐ない対応しかできていない。首都や国民を守るということをせずに、形式的な内容ばかりを示していた。朝廷の命令のない戦闘は恩賞に値しないというのは、本当に国のために現場で働いた人がどうなのかということが見えないということになっている。まさに、「現場を知らない」ということが、政治に与えるインパクトは、現在の自民党の政治家にも十分に当てはまる内容ではないか。
この違いは、ドラマの中では「道長と頼道の育ち方の違い」であり、父兼家(段田安則さん)に対抗し、また、老いである伊周(三浦翔平さん)との権力争いに終始した中で、庶民や国民の事を第一に考えた政治に腐心した道長と、その絶対的な権力者の嫡男として、さすがに何不自由なくとは言わないまでも、あまり犠牲を払うことなく「内裏」を中心に育ってきた頼道との差が、ここに出たのではないか。そのうえ、太閤となって、あまり自由になることはない道長において、まひろのように自由に「第二の人生」になることはできないということも、苦労なのであろう。
刀伊の入寇を聞いて、本心は、すぐにでも大宰府に駆け付けたかったであろう道長は、出家してなおかつ自分の妻でもない最愛のまひろを、影で気遣うしかない。そのもどかしさが、より一層頼道の不甲斐なさに繋がるというような感じである。
娘が「女光源氏になる」というのを容認したまひろと、自分と同じように国民のための政治というようなことを心掛けさせたと思いながら不甲斐なさを感じる道長。現在でも幼馴染で、お互いの事を欲知りながら、お互いが別な人と結婚しお互いが子供の事で苦労しているというような家庭は少なくない。何かそのような現代の感覚が見えてくるのではないか。
権力を持っている道長の方には、様々なことをいう仲間が集い、まひろは、周明等周辺が死んでゆく。そのような違いも蟻ながらお互いがお互いを思う気持ちというのをしっかりと持ち続けている素敵な関係が書かれているのが、ある意味で恋愛ドラマ的な部分がある。渡り廊下の両側で、お互いを見つめ合う道長とまひろは、ある意味で、その二人の関係を、渡り廊下という隔てるものがありながら、何か通じ合うものがあるということを、映像でセリフもなく表現した場面ではなかったか。
さて、こんなドラマも次回で最終回である。史実では、紫式部はいつどこで亡くなったかは不明だが、このドラマではどのように書かれるのであろうか。