江戸の大虎、小虎に牝の虎「大江戸酒物語」
2024<江戸グルメ旅>年末年始特集
南米パラグアイで開かれた「ユネスコ文化遺産」政府間委員会で12月4日、日本酒や焼酎、泡盛といった日本の「伝統的酒造り」が無形文化遺産に登録された。500年もの歴史をもつ日本の伝統的酒造りの、米や麦を蒸す、麹を作る、もろみを発酵させるなどの伝統的に培われた技術が交際的に評価された。尚、日本酒の国内消費は落ち続けており、ピークだった1975年度の168万㎘から、2022年度は40万k㎘と約1/4に減少している。反面、2013年に和食が無形文化遺産に登録されたのをきっかけに、日本酒は和食に合う酒として人気が高まり、現在の輸出先は、アメリカや中国を中心に75ヶ国に広がり、昨年度の輸出額はおよそ411億円とこの10年で4倍近く増加している。加えて近年は異常な円安で、外国人旅行者がわが国に爆発的に訪れ,寿司、天麩羅、蕎麦、鰻など、日本酒にあう和食が人気を呼び、インバウンド効果をもたらしている。
花見で一杯、月見で一杯、寒いけど熱燗下げて雪見で一杯、初めましてで先ず,一杯、この間はどうもでまた一杯、えっもう行っちゃうのでまた一杯、一杯一杯また一杯。季節を通じて、嬉しいにつけ悲しいにつけ、大和民族はもとより、世界の人たちも何かにつけ飲む口実を見つけ飲っていた。江戸の頃は、盃舐める子猫から斗酒を空ける大虎までいた。従って一升二升程度の吞兵衛はその辺にウロウロいた。故に江戸の街はいつもほろ酔い加減、かくて通称江戸っ子たちが、何処の土地よりおっちょこちょいで喧嘩早いのは、こうした土壌に育まれたためと臆測された。こんな理屈を聞いたら大虎たちから「てやんでぇべらぼうめ、酒なんか吞まなくたって、世の中腹立つことばっかしよ(今の日本と同じである)」とくる。全く仰せごもっとも御同感の至りであるが、ここにも彼らの呑む理由が存在していた。
<サンサ橋>幕末、文明開化の足音が一足先に聞こえてきた築地鉄砲洲に「寒橋(明石橋)」という橋が架かっていた。備考には「寒さ橋 合引川(築地川支川)の海端に架す、明石橋と唱う」創架は延宝8年(1680)、昭和46年、築地川の埋め立てにより上手の新栄橋と共に消滅した。夜中この橋の上に立つと、冷たい風が吹く真っ暗な向こう側に、海鳴りが聞こえる「江戸の海」が広がっていた。海に面して風当たりが強かったので、俗名を寒橋と呼んでいた。江戸雀たちは、端折って「サンサ橋」と呼ぶ。サンサ橋とはいかにも下町らしい、親しみのこもったいい名前であった。北へ上れば「下り酒」の新川江戸湊、南に下れば将軍様の「浜御殿」と大層な場所にあった。木枯らしが吹くこの季節、橋の袂に屋台が淋しく明かりを灯していた。「降る雪を いとわず夜をあかし町 おでん燗酒売る 寒さ橋」この橋を渡る江戸雀たちは、海からの風が余程身にこたえたとみえ、熱燗を連想した。屋台の親父はそこを見透かしていた。ここを黙って通り過ぎる人間は、女子供だけであった。いや、ちょいとした女だったらここで足を止めた。「へいらっしゃい、何にします」何にしますかと聞かれなくとも、出てくる物は決まっていた。出てくるものは熱燗徳利におでん、それを吞兵衛たちは、先ずはぐぃっと熱燗を煽ると同時に、前歯で箸を割りパポパポとおでんに喰いついた。それを腹の中に入れるか入れ込まないうちに、次の熱燗が口に運ばれる。この動作を三度程繰り返すと、酒もおでんもなくなる。空になった徳利の底を逆さまにして残念を確認、皿に残っているおでんの汁を飲み干して「親父勘定」。聞かなくたっていつもの値段であった。「世の秋も 築地は早く 寒さ橋」この寒橋の前に荷揚げ場と荷物の検査場があり、寒橋は人間と荷物が「居留地」に入る南の玄関口であった。明治29年、寒橋の袂から「月島の渡し」が開設したが、第2次大戦中、燃料不足で廃止されてしまった。因みにこの辺り一帯の明石町という町名は、昔、播州明石の漁師たちが移住してきたことから名付けられ、風景も明石の浦に似ていたという。
おでんは具材を鍋の中でとろ火で煮込んで味付けするが、一方、鎌倉河岸で人気のあった「田楽」は、食材を先ず網の上で炙り、焦げ目をつけた。「豆腐屋の 悋気の種は 初茄子」「豆腐田楽」は短冊に切り分けた木綿豆腐を串に刺し、裏表炭火で炙り仕上げ、木の芽、柚木胡麻などを合わせた味噌で掃いて、熱いうちにハフハフと食べる。現在のハンバーガーやフランクフルトのように、路上人気おやつ商品であった。この豆腐田楽、秋の訪れと共に初茄子に地位を奪われる。この「茄子田楽」江戸では鴫焼きと呼ばれ、茄子を縦半分に切ってそれを炙り、たっぷりの味噌ダレで食べる。「秋茄子は嫁に食わすな」と云うほど、とろける旨さが口に拡がる。「田楽」はもともと田植えに舞う農作祈願の芸能である、「高足」という1本の竹馬に似た棒につかまって、ジャンプしながら踊るもの。その様子がまるで人が串になっているように見えるので、田楽刺しと云うようになったという。
<時代の酒・酒・酒>酒の起源は、自然に落下した固体に、アルコールを引き起こす空気中の酵母が付着、アルコールに変化したというのが起源であるとされている。人類が飲む目的で酒を造ったのは、おそらく山ブドウなどの糖質のある果実を蓄えた処、アルコール発酵して酒に変化したと考えられているが、その時期その場所についてはっきりとはしていない。日本では約5000前とされる縄文前期の青森三内丸山遺跡で、木イチゴ、山ブドウなどの果実の種が出土している。これらを使って果実酒を醸造したのであろうか。酒を飲むと体内で分解される過程でアセトアルデヒドが発生するが、これが悪酔いの元凶とされている。こいつを分解するのはアセトアルデヒド脱水素酵母(ALDH〉といい、体内に二種類ある。縄文人はふたつとも持っており、現代人より酒が強かったとされる。ふたつ持っている現代人は60%で、残り40%は酒に弱いか全く飲めない人間で、弥生人はこのパターンに入る。水稲技術と米の酒を日本にもたらした弥生人ではあったが、残念ながら飲む方は向かなかったようである。彼らは口の中の唾液によって、澱粉質が糖分に変化することを知っていたため、「口噛液」を考えついた。酒を醸造することを「醸す」というが、米を噛んで酒にする「噛むす」が語源だとされている。江戸時代、奥さんのことを「うちのカミさん」などとと呼んだが、この辺りが語源であろうか、若しくは「山の神」が語源であろうか。万葉の時代には居酒屋が開店、平安時代を経て鎌倉時代になると、源氏三代はいずれも酒によってその命、その政治生命が断たれた。北条氏が執権に座ると、建長4年(1252)5代時頼は鎌倉市中での酒販売を禁じている。酒による弊害が余程怖かったのである。戦国時代が過ぎ、世の中が平和になった江戸時代、江戸の町は酒飲みの「聖地」となっていった。仏教用語でいうと「極楽」である。関西人が「食」を楽しむための「酒」であるのに対し、江戸人はあくまでも「酒」が主体、「食」は「酒」を旨く呑むためのもので付随的なものであった。年末・年始特集「日本酒物語」次回は、<下り酒・下らぬ地酒>をお送りします。 <チーム江戸>しのつか でした。